第五話
リシェルは朝から、昨日のことが頭から離れなかった。
『最近の試作品はこいつのおかげだがな』
グリーバー侯爵は、確かにそう言っていた。
しかも。
『感想、参考にする』
以前ルシアンが口にした言葉まで、何度も思い出してしまう。
(……まさか、ですわよね)
リシェルはぶんぶん首を振った。
そんなはずがない。
だってルシアンは学院生だ。しかも“見習い”。あの有名店リュミエールの、“正体不明の天才パティシエ”なわけが——。
(……でも)
試作品を持ってきてくれた時。ケーキの感想を伝えた時の反応。味の細かな話をした時の、あの真剣な目。
思い返せば思い返すほど、“ただの見習い”とは思えなくなる。
「…………」
リシェルは机へ突っ伏した。
「お嬢様、朝から難しい顔をされています」
ミーナがくすくす笑いながら紅茶を差し出してくる。
「ミーナ……」
「ケーキのことですか?それとも例の彼?」
「両方ですわ……」
ミーナが吹き出した。
「とうとう隠さなくなりましたね」
「だ、だって気になるんですもの!」
「何がです?」
「ルシアン様、本当にただの見習いさんなのかしらって……」
そこまで言って、リシェルははっとする。
「い、いえ!別に疑っているわけではありませんのよ!?」
「はいはい」
完全に流されていた。
リシェルはむうっと頬を膨らませる。
「でも実際、不思議なんですの」
「不思議……ですか?」
「だって、ケーキの話をすると凄く詳しいですし……」
「まあ、お店で働いているなら多少は」
「それだけではありませんわ」
リシェルは真剣な顔になった。
「味のことを話した時、まるで作った本人みたいな反応をなさるんですの」
「……ほう?」
ミーナが少しだけ興味深そうな顔をした。
「それに試作品も持ってきてくださって」
「特別扱いでは?」
「と、特別!?」
リシェルの顔が一気に赤くなる。
「そ、そんなわけありません!」
「違うんですか?」
「違いますわ!」
勢いよく否定した。
……が。
ふと思い出す。
『そんなに好きなら、新作食べるか』
あの時。周囲の客には出していなかった。
試作品を渡されたのは、自分だけだった。
「…………」
「お嬢様?」
「……た、たまたまですわ!」
慌てて結論づける。
ミーナは生温かい目をした。
「まあ、お嬢様がそう思いたいなら」
「何ですのその言い方は!」
ぷくっと頬を膨らませる。
だが。
ミーナは楽しそうだった。
「でも、もし本当にそうだったら面白いですね」
「そうって?」
「ルシアン様が“天才パティシエ本人”だったら」
「〜〜〜っ!」
リシェルは勢いよく立ち上がった。
「そ、そんなわけありませんわ!」
「どうしてです?」
「だって、だって……!」
言葉に詰まる。
ミーナはくすりと笑った。
「案外、“ありえない”と思っているのはお嬢様だけかもしれませんよ?」
「…………」
リシェルは言い返せなかった。
学院にて。
「リシェル様!」
ぱたぱたと友人達が駆け寄ってくる。
「聞きまして!?」
「え?」
「週末、リュミエールの限定発表会があるそうですの!」
「限定発表会!?」
リシェルの目が一瞬で輝いた。
「しかも招待制らしくて!」
「まあ!」
「前回同様もの凄い倍率なんですって!」
「……行きたいですわ」
ぽつりと本音が漏れる。
すると友人達が顔を見合わせた。
「実は、うち一枚招待状が余ってますの」
「え?」
「お父様が急な仕事で行けなくなって」
「リシェル様、行きます?」
「もちろんですわ!!」
即答だった。
その勢いに友人達が吹き出す。
「本当に好きですのねぇ」
「だってリュミエールですもの!」
リシェルはぎゅっと招待状を抱き締めた。
リュミエールの限定発表会。
そこでは毎年、“正体不明の天才パティシエ”による1日限定商品がお披露目される。
社交界でも超人気の催しだ。
(楽しみですわ……!)
胸が高鳴る。
だが同時に。
頭の片隅に、昨日のルシアンの姿がちらついた。
『最近の試作品はこいつのおかげだ』
『感想、参考にする』
『……そんなに好きなら、新作食べるか』
「…………」
「お嬢様?」
「……いえ、なんでもありませんわ」
リシェルは慌てて笑った。
そう。考えすぎだ。
きっと偶然。
なのに。
どうしてだろう。
今日の放課後、ルシアンに会ったら。何かが変わってしまう気がしていた。
教室から教室への移動中も、リシェルの頭は落ち着かなかった。
教室へ入る。
すると。
「…………」
いつもの窓際。
ルシアンが本を読んでいた。
その姿を見た瞬間、なぜだか胸が跳ねる。
(うぅ……最近本当に駄目ですわ……)
意識しすぎている。
以前はただ“無口な人”だった。
けれど今は違う。
カフェでの姿を知っている。少し笑うことも知っている。甘い香りがすることも知っている。
しかも。
最近は普通に会話してくれる。
それが嬉しい。
「……おはようございます」
気付けば、自分から声をかけていた。
以前なら絶対に出来なかったことだ。
ルシアンが本から顔を上げる。
「……ん」
「お、おはようございますわ」
「…………」
数秒。
彼はじっとリシェルを見ていた。
その視線に、また心臓が跳ねる。
「……何ですの?」
「いや」
ルシアンは少しだけ目を細めた。
「普通に挨拶するようになったな」
「……っ」
言われて、リシェルは固まる。
確かにそうだ。
以前は目が合うだけで慌てていた。
それが今では、自分から話しかけている。
「そ、それは……」
「前は逃げてたのに」
「逃げてませんわ!」
「毎回びくってしてただろ」
「うぅ……」
否定できない。
ルシアンの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……今の方がいい」
「…………え」
リシェルの思考が止まる。
「普通に話す方」
「…………っ」
どくん、と心臓が大きく鳴った。
今の方がいい。
そう言われた。
つまり。
彼は今の関係を嫌がっていない。
「…………」
リシェルは一気に顔が熱くなる。
一方ルシアンは、本人だけが平然としていた。
いや。
よく見ると耳が少し赤い。
でも本人は気付いていない。
「……なんで赤くなる」
「ルシアン様のせいですわ!」
「何で」
「何でもです!」
半分八つ当たりだった。
すると近くで見ていた友人達が、ひそひそ話し始める。
「なんですのあれ」
「距離近くありません?」
「前より明らかに空気違いますわよね……?」
リシェルの顔がさらに熱くなる。
「ち、違いますわ!」
「何が?」
「〜〜〜っ!」
ルシアン本人に聞かれるのが一番困る。
そんなリシェルを見て、ルシアンは小さく息を吐いた。
そして。
「……これ」
「え?」
机へ、小さな紙袋が置かれる。
甘い香りがした。
リシェルはぱちぱち瞬きをする。
「る、ルシアン様?」
「昨日の余り」
「……っ」
恐る恐る開ける。
中に入っていたのは、小さな焼き菓子だった。
こんがりきつね色で、表面には砂糖が薄くかかっている。
「これ……!」
「試作品の残り」
「いただいてもよろしいんですの!?」
「別に」
リシェルの顔がぱあっと明るくなる。
「ありがとうございます……!」
本当に嬉しそうだった。
その笑顔を見た瞬間。
ルシアンが、ふいと視線を逸らす。
そして小さく呟いた。
「……そんな喜ぶか」
「喜びますわ!」
リシェルはぎゅっと紙袋を抱えた。
「ルシアン様の——」
そこまで言って。
ぴたり、と止まる。
(……あれ?)
今、自分は何を言おうとしたのだろう。
“ルシアン様の作るお菓子”。
そう言いかけた気がした。
まだ確信なんてないのに。
なのに。
なぜだか、そんな気がしてならなかった。:::
昼休み。
リシェルは机の上の小さな紙袋を、何度も見てしまっていた。
「……まだ見てますの?」
友人の呆れた声が飛んでくる。
「み、見てませんわ!」
「見てました」
「……少しだけです」
観念した。
だって仕方ない。
朝、ルシアンから直接渡されたのだ。
しかも。
『昨日の余り』
なんて素っ気ない言い方をしながら。
(絶対余りじゃありませんわよね……?)
そんな気がしてならない。
だって綺麗に包まれていたし、焼き加減も完璧だった。
試作品の“残り”にしては丁寧すぎる。
「食べないんですの?」
「食べます!」
即答だった。
リシェルはそっと袋を開ける。
中には、小さな焼き菓子が三つ。
丸くて、ころんとしていて、少しだけ焼き色が濃い。
甘いバターの香りがふわりと漂う。
「まあ……」
見ただけで美味しいのが分かる。
リシェルは大事そうに一つ摘まみ、そっと口へ運んだ。
「……っ」
瞬間、目を見開く。
外はさくっ。
中はほろり。
噛むほどにバターとナッツの香ばしさが広がっていく。
「おいしい……!」
本当に幸せそうな声だった。
友人達が呆れ半分で笑う。
「本当に美味しそうに食べますわね」
「だって美味しいんですもの!」
リシェルは真剣だった。
「これ、普通の焼き菓子ではありませんわ!」
「そんなに?」
「ええ!」
きらきらした目で断言する。
「生地の食感が凄く繊細なんですの!」
「……分かりませんわ」
「あと香りも絶妙で……!」
熱弁が始まる。
一方。
窓際の席では。
「…………」
ルシアンが静かに本を読みながら、その声を聞いていた。
いや。
聞こえてしまっていた。
『美味しい……!』
あの声。
妙に嬉しそうで。
聞くたびに胸の奥が変にざわつく。
「……また始まった」
ぽつり。
小さく呟く。
だがその口元は、少しだけ緩んでいた。
放課後。
リシェルは今日もリュミエールへ来ていた。
もはや習慣というより日課である。
「お嬢様、本当に毎日通う勢いですね」
「ま、毎日ではありませんわ!」
「昨日も一昨日も来てました」
「うぅ……」
ミーナが完全に楽しんでいる。
リシェルは顔を赤くしたまま店へ入った。
すると。
「……来たのか」
聞き慣れた低い声。
カウンターの向こうに立つルシアンと目が合う。
「こんにちは!」
自然と笑顔になる。
以前なら考えられなかった。
ルシアンも、一瞬だけ目を細める。
「……今日は早いな」
「授業が少なかったんですの」
「そうか」
短いやり取り。
でも、ちゃんと会話になっている。
それが嬉しい。
「今日のおすすめはなんですの?」
「……紅茶のシフォン」
「紅茶!」
「アールグレイ」
「食べます!」
「即答しかないな、お前」
「こちらのお店で迷うなんて無理ですわ」
「……変な客」
いつものやり取り。
でも最近、その“変な客”が少しだけ優しく聞こえる。
席へ着くと、ルシアンが紅茶を持ってきた。
リシェルはぱちぱち瞬きをする。
「まあ、ありがとうございます」
「……今日はこれ」
「?」
見ると、いつもの紅茶と少し色が違う。
「新しい茶葉試してる」
「まあ!」
「ケーキに合うか見たいらしい」
「つまり試飲ですのね!?」
「……まあ」
リシェルの目が輝く。
最近、本当に特別扱いが増えている。
本人は気付いていないようだが。
「では真剣に味わいますわ!」
「……別にそこまで気合い入れなくていい」
少し呆れた声。
だが嫌そうではない。
やがて運ばれてきたシフォンケーキは、ふわふわで美しかった。
一口食べる。
「……っ!」
紅茶の香りが広がる。
そして一緒に飲んだ紅茶が、その香りをさらに引き立てた。
「すごい……!」
思わず声が漏れる。
「合いますわ……!」
「…………」
「ケーキだけでも美味しいのに、紅茶で香りがもっと広がります!」
夢中で語るリシェル。
ルシアンは静かに聞いていた。
そして。
「……そっちの紅茶の方がいいか」
ぽつりと呟く。
「え?」
「いつものより」
「はい!こちらの方が香りが綺麗ですわ!」
「……分かった」
その反応を見て、リシェルはふと気付く。
(……本当に参考にしてますのね)
ただ聞き流しているわけではない。
ちゃんと味の感想を聞いている。
まるで——。
(やっぱり……)
胸がざわつく。
ルシアンは、本当にただの見習いなのだろうか。
その時だった。
「おーいルシアン!」
厨房の奥から声が飛ぶ。
「次の仕込みどうする!?」
「今行く」
ルシアンが返事をする。
その瞬間。
リシェルは違和感を覚えた。
“どうする?”と聞かれた。
見習い相手なら、普通は指示ではないだろうか。
まるで。
判断を任されているみたいな——。
「…………」
リシェルはじっとルシアンを見る。
すると彼は、その視線に気付いたらしい。
「……何」
「ルシアン様」
「ん」
「本当に見習いさんですの?」
「…………」
一瞬。
空気が止まった。
ルシアンの動きも。
厨房の物音さえ、遠く感じる。
数秒の沈黙。
やがて彼は、小さく息を吐いた。
「……何でそう思う」
「だって」
リシェルは真剣な顔で言う。
「お店の方達、ルシアン様に凄く頼っておりますもの」
「…………」
「それに味の話をすると、まるで作った方みたいですし」
「…………」
「あと——」
リシェルは少し迷ったあと。
小さく続けた。
「わたくし、ルシアン様のお菓子の話をしてる時のお顔、好きですわ」
「…………っ」
ぴたり。
ルシアンの動きが完全に止まる。
灰色の瞳が見開かれた。
一方リシェルは、言った後で自分の発言に気付く。
「…………え」
数秒遅れて。
顔が一気に真っ赤になった。
「ち、違いますわ!!」
「…………」
「い、今のは変な意味ではなくてですわね!?」
完全に大混乱だった。
そんな彼女を見ながら。
ルシアンはしばらく黙っていた。
そして。
ふい、と顔を逸らす。
その耳が、見たことがないくらい赤くなっていた
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