第三話
最近、変わったことがある。
「……また見てる」
「っ!?」
ぼそりと呟かれ、リシェルはびくりと肩を跳ねさせた。
昼休みの教室。
窓際の席で本を読んでいたルシアンが、こちらを見ていた。
「み、見てませんわ!」
「いや見てた」
「見ていたとしても凝視ではありません!」
「同じだろ」
「違います!『watch』ではなく『see』です!」
反射的に言い返したあと、リシェルははっと口を押さえた。
(な、なんで普通に会話してるんですの!?)
以前なら考えられなかった。
学院でのルシアンは、近寄りがたい存在だった。
誰とも話さない。愛想もない。静かで冷たい。
なのに今は、こうして普通に会話している。
……主に自分だけが。
「リシェル様」
背後から友人の声がした。
「最近、随分仲がよろしいんですのね?」
「っ!?」
「窓際の彼と」
「ち、違いますわ!」
真っ赤になって否定する。
一方ルシアンは無表情だった。
ただ静かに本を閉じる。
「……別に仲良くない」
「えっ」
リシェルの肩がぴくりと揺れる。
友人達は微妙な顔になった。
「あ、あらそうでしたの」
「…………」
少しだけ空気が気まずい。
だが次の瞬間。
「この人が勝手に話しかけてくるだけだ」
「なっ——」
リシェルは思わず立ち上がった。
「まるでわたくしが迷惑な人みたいではありませんの!」
「違うのか」
「違います!」
「じゃあ何だ」
「それは……」
詰まる。
友人達が面白そうにこちらを見ていた。
ルシアンも静かに見上げてくる。
その灰色の瞳に見つめられると、なぜだか調子が狂う。
「……その」
リシェルは視線を逸らした。
「は、話しかけやすかっただけですわ」
「…………」
数秒。
ルシアンは黙っていた。
そして。
「……そうか」
小さく返した。
それだけ。
それだけなのに。
なぜか胸がくすぐったくなる。
友人達はそんな二人を見て、にやにやしていた。
放課後。
リシェルは今日もリュミエールへ向かっていた。
もはや週一では足りなくなりつつある。
「お嬢様、最近通う頻度が増えていませんか?」
「き、気のせいですわ」
「先週は三回でした」
「……数えないでくださいまし」
ミーナが完全に生温かい目をしている。
リシェルは視線を逸らした。
(だって仕方ありませんわ……)
以前は“ケーキを食べに行く”感覚だった。
だが今は違う。
店へ行けば、ルシアン様に会えるかもしれない。
そう思うと自然と足が向いてしまう。
(……べ、別に会いに行ってるわけでは)
ない、と言い切れない辺りが困る。
たまたま、そう、たまたま会ってしまっならしょうがない。
それだけだ。
馬車を降り、店へ入る。
今日も甘い香りが出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ、リシェル様」
「こんにちは」
席へ案内されながら、リシェルはそっと周囲を見る。
すると。
「……また来てたのか」
低い声。
振り返ると、ルシアンがいた。
「ルシアン様!」
ぱっと顔が明るくなる。
ルシアンは一瞬だけ目を瞬かせた。
以前なら無表情のままだった。
けれど最近は、少しだけ反応が柔らかい。
「今日は表のお仕事ですの?」
「……人手足りないらしい」
「まあ、お忙しいんですのね」
「別に」
相変わらず素っ気ない。
だが逃げない。
ちゃんと会話してくれる。
リシェルはそれが嬉しかった。
「本日のおすすめはなんですの?」
「……苺のショートケーキ」
「王道ですわね!」
「でも人気」
「ではそれを!」
「……即決だな」
「こちらのお店に来てルシアン様のおすすめを断る理由がありませんもの」
胸を張るリシェル。
ルシアンは少しだけ呆れたような顔をした。
「変な信頼感あるな」
「当然ですわ」
「…………」
「こちらのお店のケーキは全部美味しいんですもの!」
きらきらした目で断言される。
ルシアンは数秒黙った。
それから小さく視線を逸らす。
「……持ってくる」
「はい!」
厨房へ戻っていく後ろ姿を見送りながら、リシェルはふわりと笑った。
(最近、少しだけ話してくださるようになりましたわね)
最初はもっと壁があった。
けれど今は違う。
会えば会話をしてくれる。少しだけ表情も柔らかい。
それが嬉しい。
やがて運ばれてきたショートケーキは、ため息が出るほど美しかった。
白いクリーム。真っ赤な苺。ふわふわのスポンジ。
「……素敵」
フォークを入れる。
一口。
「……っ」
思わず目を閉じた。
柔らかい。
ふわふわなのに軽すぎない。
苺の酸味とクリームの甘さが綺麗に溶け合っている。
「おいしい……」
本当に幸せそうな声だった。
その時。
「……そんなにか」
気付けばルシアンが少し離れた場所に立っていた。
リシェルはぱっと顔を上げる。
「はい!」
「ただのショートケーキだろ」
「“ただの”ではありません!」
即否定。
「スポンジの口溶け具合からして全然違いますわ!」
「…………」
「あとクリームも甘すぎなくて、苺が主役になっていて——」
「……また始まった」
「大事なことです!」
真剣な顔で語るリシェル。
ルシアンは静かに聞いていた。
いや。
聞いてしまっていた。
こんな風に真っ直ぐ感想を言う客は珍しい。
賞賛なら聞き慣れている。
“美味しい”も聞き慣れている。
だが彼女は違った。
ちゃんと味わっている。
細かく気付く。
しかも、本当に嬉しそうに食べる。
「……なぁ」
「はい?」
「食べるの好きなんだな」
「大好きですわ!」
迷いゼロだった。
「美味しいものを食べてる時間って幸せでしょう?」
「…………」
「特にこちらのお店のお菓子は、食べると元気になりますの!」
にこにこしながら語る。
ルシアンは少しだけ目を伏せた。
——元気になる。
その言葉が、妙に胸へ残った。
自分が作る菓子で、そんな風に思ってくれる人がいる。
それが少しだけ。
ほんの少しだけ、嬉しかった。
「……そんなに好きなら」
ふいに。
ルシアンが小さく呟いた。
「え?」
「新作、食べるか」
リシェルはぱちぱちと瞬きをした。
「……新作?」
「まだ試作段階のやつ」
「……っ!」
一瞬、時が止まる。
次の瞬間。
「い、いただきますわ!!」
勢いよく立ち上がりそうになった。
周囲の客がちらりと見る。
リシェルは慌てて座り直したが、顔は完全に輝いていた。
「ほ、本当にいいんですの!?」
「……ああ」
「試作ということは、まだ店に出ていないものですわよね!?」
「そう」
「そ、そんな貴重なものをわたくしが!?」
「感想ほしいらしいから」
「もちろんですわ!!」
食い気味だった。
ルシアンは少しだけ目を丸くしたあと、ふっと小さく息を漏らす。
笑った……気がした。
「……そこで待ってろ」
「はい!」
厨房へ戻っていく背中を、リシェルはきらきらした目で見送った。
(試作……!)
つまり。
まだ誰も食べていないケーキ。
そんな特別なものを、自分が。
(し、信じられませんわ……!)
胸がどきどきする。
ミーナがいたら絶対に“顔がうるさいです”と言われていた。
数分後。
ルシアンが戻ってくる。
その手には、小さな皿があった。
「……これ」
「まあ……!」
目の前へ置かれた瞬間、リシェルは息を呑んだ。
淡い桃色のムース。
透明なジュレ。
上には小さな花びらの砂糖漬け。
春そのものみたいなケーキだった。
「綺麗……」
思わず零れた声に、ルシアンは少しだけ視線を逸らす。
「まだ途中」
「途中でこれですの!?」
「完成じゃない」
「十分素敵ですわ……!」
本気で感動していた。
リシェルはそっとフォークを入れる。
柔らかい。
一口食べる。
瞬間。
「……っ!」
花の香りがふわりと広がった。
けれど強すぎない。
果実の甘さと綺麗に重なっている。
後味は驚くほど軽い。
「…………」
リシェルは数秒黙り込んだ。
ルシアンが少し眉を寄せる。
「……微妙か」
「違います!」
即否定だった。
リシェルは勢いよく顔を上げる。
「美味しすぎて言葉が出ませんでしたの!」
「…………」
「これ、春のお花をイメージしております?」
「……まあ」
「だからこんなに優しい味なんですのね……!」
ルシアンが少し目を見開く。
「あと、最後に少しだけ酸味がありますわ」
「…………」
「でも、それがあるから甘ったるくないんですの!」
「…………」
「凄いですわ……」
本当に感動した顔だった。
ルシアンはしばらく黙っていたが。
「……初めてだ」
「え?」
「そこまで分かるやつ」
「まあ!」
リシェルは少し嬉しくなる。
「当たってましたの?」
「……だいたい」
「ふふっ」
褒められた気分だった。
嬉しそうに笑うリシェルを見て、ルシアンはまた少し視線を逸らす。
最近、彼はよくこういう顔をする。
困ったような。調子を狂わされているような。
そんな顔。
「こちら、本当に商品化されるんですの?」
「多分」
「絶対人気になりますわ!」
「気が早い」
「でも本当に美味しいんですもの」
リシェルはもう一口食べる。
幸せそうだ。
ルシアンはそんな彼女を静かに見ていた。
——不思議だった。
今まで何度も試作品を作った。
評価もされた。
賞賛もされた。
けれど。
こんな風に食べる人はいなかった。
本当に嬉しそうに。一口一口を大事にして。まるで宝物みたいに味わう。
その顔を見ると。
また作りたくなる。
「……そんな顔で食うな」
「え?」
「周りを見てみろ」
言われて、リシェルははっとした。
気付けば周囲の客達が微笑ましそうにこちらを見ている。
「……っ!」
恥ずかしくなって顔が熱くなる。
「し、仕方ありませんわ!本当に美味しいんですもの!」
「声大きい」
「うぅ……」
ルシアンが小さく息を吐く。
呆れているようで。
でも、どこか楽しそうだった。
その時。
「ルシアン」
奥から男性店員が顔を出した。
「そろそろ厨房戻れ」
「……ん」
ルシアンが返事をする。
そしてリシェルへ視線を向けた。
「感想、参考にする」
「本当ですの!?」
「……まあ」
リシェルの顔がぱっと明るくなる。
「でしたら次もちゃんとお伝えしますわ!」
「……毎回来る気か」
「当然です」
迷いゼロ。
ルシアンは数秒黙ったあと。
「……変な令嬢」
小さく呟いた。
けれどその声は、以前よりずっと柔らかかった。
厨房へ戻っていく背中を見送りながら、リシェルは胸元へ手を当てる。
どきどきしていた。
——試作品を食べさせてもらえた。
それも嬉しい。
でも。
(……ルシアン様、少し笑うようになりましたわね)
それが、もっと嬉しかった。
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