09_三叉路の町
それは、コウキがこれまで見た中で、最も大きな集落だった。
三本の交易路が交わる平原に、石と木と骨甲で築かれた街が広がっていた。人口千八百人。「森の端」の四倍。銀崖集落の三倍。
中央には市場広場があり、常設の店が並んでいる。隊商が来なくても市が立つのだ。職人通り、宿屋通り、薬師の路地。名前のついた通りがある。それだけで「森の端」とは格が違った。
「口、閉じろよ」
ルウが笑った。コウキは確かに口を開けていた。
人の多さに圧倒される。すれ違う人間の顔が、全員知らない人だ。「森の端」では、集落の全員の顔と名前を知っていた。ここでは、すれ違う人の百分の一も知ることはないだろう。
ナクロは銀崖集落の出身だからもう少し大きな集落に慣れているはずだが、それでも目を丸くしている。
「これが……三叉路の町」
「ここが風渡りの商隊の本拠点だ」セレナが言った。「アレクの実家もここにある。半年ぶりの帰還だ」
* * *
隊商が到着すると、市場の一角に場所が割り当てられた。
銀崖集落のように交渉して場所を借りるのではなく、あらかじめ風渡りの商隊の区画が決まっている。それだけ、この隊商がここでは信頼されているということだ。
荷車を下ろし、商品を整理する。三日間の滞在予定。その間に、銀崖で仕入れた銅鉱石と水晶砂を売り、次の旅の仕入れを行う。
コウキは荷運びをしながら、街の空気を吸い込んだ。香辛料の匂い、焼いた肉の匂い、革の匂い、人の汗の匂い。すべてが混じり合って、独特の濃さを作っている。
集落と町は違う。集落は静かで、閉じていて、すべてが手の届く範囲にある。町は騒がしく、開いていて、手の届かないものだらけだ。
コウキは、両方の良さがわかる気がした。だが今は——この騒がしさが、心地よかった。
午後、アレクが一人で外出した。
「地図屋に行く」
セレナにそう言い残して、職人通りの奥へ消えた。コウキは気になったが、仕事が残っていた。
* * *
二日目の朝。アレクがコウキを呼んだ。
「来い。会わせたい人がいる」
言われるままについていくと、職人通りの外れにある小さな工房に着いた。入口には看板がなく、表札代わりに古い地図の断片が貼られている。
中に入ると、壁一面が地図だった。
羊皮紙、鞣し革、木の板。大小さまざまな素材に描かれた地図が、壁に所狭しと掛けられている。床にも巻物が積まれ、作業台の上には定規と筆と墨壷が並んでいた。
「いらっしゃい」
奥から声がした。日焼けした肌、短く刈った髪。腕に古い傷跡がいくつもある。三十代の女性だった。
「ルイン。この見習いに、お前の仕事を見せてやってくれ」
「へえ。新人?」
ルインはコウキを上から下まで見た。鋭い目だった。だが、嫌な鋭さではない。地図を読むときの目——細部を見逃さない、観察者の目だった。
「コウキです。風渡りの商隊の見習いです」
「ルイン。地図屋。元隊商。よろしく」
ルインは作業台の上に、一枚の地図を広げた。
コウキが旅してきた経路——「森の端」から銀崖集落を経て三叉路の町に至る道——が、そこに描かれていた。だが、トメが持っていた古い地図とは比較にならない精度だった。
地形の起伏。水源の位置。樹林帯の範囲。危険生物の目撃ポイント。すべてが色分けされ、注釈が添えられている。
「この地図、すごい」
「隊商に十五年乗って、一歩ごとに記録した結果だ。正確さは命に関わる」
ルインは地図の上の一点を指さした。
「ここ。お前たちが迂回した湿地帯だろう? 二ヶ月前に通った別の隊商の報告では、まだ通行可能だった。つまり、この二ヶ月で湿地が広がった」
「それ、アレクも言ってました。地面が変わっている、と」
「地面だけじゃない。水脈が動いている。理由はわからないが、ここ数年、水の流れが変わっている場所が増えている」
ルインは別の地図を引き出した。こちらは広域の地図で、複数の集落と交易路が描かれている。
「これは私が五年かけて作った、中央平原の全域図だ。どの隊商にも出していない。まだ未完成だからな」
地図の上に、赤い点がいくつも打たれていた。
「この赤い点は?」
「獣の異常行動の報告地点だ。隊商から集めた情報を、地図に落としている」
コウキは息を呑んだ。
赤い点は、ある方角に集中していた。北東——中央の丘陵地帯の方角。
「偶然かもしれない。北東に集落が多いから、報告も多いだけかもしれない。だが——」
ルインは腕を組んだ。
「パターンがある。報告が多い場所は、特定の地形に集中している。樹林帯の端、水源の近く、丘陵の谷間。獣が移動するときに通る場所だ」
「獣が——移動している?」
「通常の縄張りを離れて、新しい場所に向かっている。押し出されているのか、何かに引き寄せられているのか。それはまだわからない」
ルインは地図の端に並ぶ標塔の記号——小さな丸印——を指でなぞった。
コウキはそこで初めて、地図の上に標塔の位置が丸印で打たれていることに気づいた。地図の範囲に収まる標塔は数十本。その丸印が、奇妙な規則性を持って並んでいる。
——等間隔だ。
どの丸印も、隣の丸印との距離が同じに見えた。しかもそれぞれの丸印の周囲に六つの丸印が、正確に同じ間隔で取り囲んでいる。地図の端で途切れてはいるが、そこに浮かぶ形は明らかだった。六角形だ。
自然にこうはならない。コウキにはそれがわかった。
「標塔との関係も調べた。報告地点と最寄りの標塔の距離、方角。何か規則性がないか、と」
「あったんですか」
「わからない。見ての通り、標塔はこの配置だ。どの場所からでも、どこかの標塔に近い。だから、相関があるように見えても、偶然かもしれない」
ルインは地図から目を離さなかった。
「ただ——標塔の近くで報告が増えているのは確かだ。標塔から三十町以内の報告が、三年前の倍になっている。標塔が多い以上、報告も多くなるのは当然だが……倍、というのは気になる」
その声には、結論を急がない慎重さと、何かを見つけかけている直感の両方があった。
アレクが静かに言った。
「ルインの地図と情報は、どの隊商よりも正確だ。これを見れば、何が起きているかの全体像に近づける」
ルインは苦笑した。
「全体像なんて大げさよ。私にわかるのは、地図に描けることだけ。点を打って、線を引いて、パターンを見つける。それだけ」
「それだけのことが、命を救う」
「——ええ。だから、やっている」
ルインの声が、わずかに震えた。コウキは聞いていた。中継所で聞いた話。ルインがかつて隊商仲間を失ったこと。「正確な地図があれば防げた」という後悔。
「地図は命を救う」。それは口癖ではなく、信念だった。
* * *
工房を出た後、コウキはしばらく無言で歩いた。
アレクも何も言わなかった。二人は職人通りを抜け、市場広場の端に出た。
「ルインの地図、隊商に売っているんですか」
「ああ。風渡りの商隊は、毎回ルインから最新の地図を買う。五十穀から二百穀。高いが、その価値はある」
「あの赤い点の地図——獣の行動の分析——あれは売り物じゃないですよね」
「あれはルインの個人研究だ。まだ仮説の段階で、公にはしていない。だが——」
アレクは足を止めた。
「お前に見せたかった」
「なぜ俺に」
「お前は感じているだろう。世界が変わりつつあることを」
コウキは答えなかった。答えられなかった。
「勘のいい人間には、二つの道がある。感じたことを黙って飲み込むか、感じたことを形にするか。ルインは後者を選んだ。地図という形で」
アレクはコウキの目を見た。
「お前はどうする。それは、お前が決めることだ」
コウキは市場の喧騒の中に立ち尽くしていた。
人が行き交い、声が飛び交い、物が売り買いされている。この町の人々は、日常を生きている。獣のことなど、遠い話だ。
だが——遠くない。中継所の掲示板の赤い文字。ルインの地図の赤い点。銀崖の長老の疲れた顔。
すべてが、少しずつ近づいてきている。
自分には何ができるのか。まだわからない。
だが、「知りたい」と思った。何が起きているのか。なぜ獣の行動が変わっているのか。この世界は、どこに向かっているのか。
それを知ることが、何かの役に立つかどうかはわからない。
——でも、知らないままでいることは、もうできない。
* * *
最後の夜。アレクがルインの工房を再び訪ね、新しい地図を数枚購入した。
ルインは見送りに表まで出てきた。
「次に来るとき、新しい地図を用意しておく。南西の道の更新版だ」
「頼む」
「——それと、例の赤い点。もう少し記録が集まったら、報告書にまとめる。アレクの商隊だけでなく、他の隊長たちにも見せるべきだと思っている」
「わかった。その時が来たら協力する」
ルインはコウキに目を向けた。
「坊主。お前、面白い目をしてるね」
「面白い?」
「遠くを見ている目だ。隊商に向いている」
「……ありがとうございます」
「お礼はいらない。ただの観察結果だ」
ルインは手を振った。コウキは初めて、「また来る」と言える場所がまた一つ増えたことに気づいた。




