08_中継所の夜
草原の真ん中に、それはあった。
木の柵と堀に囲まれた、簡素な施設群。屋根つきの馬小屋が二棟、倉庫が三棟、そして中央に広場。掲示板が二枚、杭に打ち付けられている。
「中原の交易場」。隊商たちが共同で維持する中継所だった。
コウキが最初に思ったのは、「ここは誰の場所でもない」ということだった。
集落には持ち主がいる。長老がいて、住人がいて、歴史がある。だがこの中継所には、そういったものがなかった。隊商が来れば賑わい、去れば静まる。流れる水のような場所だ。
到着したとき、すでに他の隊商が二組いた。
一つは東方面から来た小規模隊商。隊員十人ほど、荷車三台。もう一つは北から来た中規模隊商で、風渡りの商隊と同じくらいの規模だった。
「おう、アレク。久しぶりだな」
北の隊商の隊長が声をかけてきた。がっしりした体格の、五十代の男だ。
「ゴルト。相変わらず元気そうだ」
「元気なもんか。この旅で荷車を一台潰した。北の岩場がひどくてな」
二人は旧知の仲らしく、すぐに情報交換を始めた。コウキは馬を馬小屋に繋ぎながら、周囲を見回した。
三つの隊商が集まると、六十人近い人間がこの小さな施設にひしめくことになる。言葉の訛りが違う。服装が違う。馬の種類さえ違う。
——世界には、自分の知らないものがこんなにあるんだ。
何度目かの実感だったが、そのたびに胸が震える。
* * *
中央広場の掲示板に、コウキは足を止めた。
一枚目は「相場板」。各集落の最新の交易価格が書かれている。
「銀崖集落——銅鉱石、キロ90穀。三叉路の町——織物一反、45穀。北嶺村——骨甲板、枚60穀」
隊商が通るたびに情報を書き足していくらしく、墨の濃さがまちまちだった。新しい情報ほど黒く、古いものは薄れている。
トメがコウキの横に来て、帳簿と見比べながら数字を確認していた。
「銅の相場が上がっているな。銀崖で仕入れた分は、三叉路で高く売れそうだ」
コウキの目は、もう一枚の掲示板——「危険情報板」に移っていた。
そこには、赤い墨で注意書きが並んでいた。
「北東方面——大型獣の目撃増加。樹林帯の北側を避けよ」
「南西方面——牙狼の群れが移動中。通常の二倍の群れ規模との報告あり」
「東方面——安全圏への獣の侵入報告。沼澤郷にて柵が破損」
「北嶺村——観察小屋付近で岩噛みの痕跡。例年にない行動パターン」
四つの方角すべてで、獣の異常が報告されていた。
コウキは板の前に立ったまま、記述を何度も読み返した。個々の情報は断片的だ。だが、並べてみると——。
アレクが背後に立っていた。
「気づいたか」
「……どの方角でも、同じようなことが起きています」
「ああ」
アレクの声は低かった。
「一つの集落の問題じゃない。もっと広い範囲で、何かが起きている」
* * *
夜。三つの隊商が焚き火を囲んだ。
中継所の広場に、三つの火が焚かれた。各隊商から幹部が集まり、酒と干し肉を分け合いながら情報を交換する。
コウキは末席に座っていたが、誰も追い払わなかった。
北の隊長ゴルトが口を開いた。
「北嶺村で聞いた話だが——あそこの狩人が、獣の行動が変わったと言っていた。縄張りを離れて、今まで来なかった場所に出没している、と」
「うちも似た話を聞いた」東の小規模隊商の隊長、若い女性だった。「沼澤郷では、安全圏の柵に獣がぶつかってきたそうだ。しかも一頭じゃない。三頭が同時に。まるで柵を試しているみたいだったと」
「銀崖でも聞いた」アレクが言った。「境界への接近が増えている。半年で倍以上だと」
焚き火が爆ぜた。沈黙が落ちた。
ゴルトが杯を傾けた。
「俺は三十年この道にいるが、こんな話は初めてだ。いや——正確には、こんな話が"あちこちから同時に"聞こえてくるのは初めてだ」
「原因は何だと思う」
「わからん。獣が増えたのか、獣の気性が変わったのか。あるいは——」
ゴルトは言葉を切った。
「あるいは、安全圏のほうが弱くなっているのか」
誰も答えなかった。
コウキは焚き火の光の中で、三人の隊長の顔を見ていた。経験豊かな大人たちが、答えを持っていない。それが——怖かった。
* * *
焚き火が小さくなった頃、コウキは一人で中継所の端を歩いていた。
柵の外は闇だ。草原が広がり、その向こうに何があるのか見えない。
「眠れないか」
振り向くと、中継所の管理人が立っていた。白髪の老人で、背が曲がっている。元隊商の隊員で、引退してここの管理を引き受けたのだと、昼に聞いた。
「少し、考えごとを」
「獣の話か」
コウキは頷いた。
老人は柵に寄りかかり、闇を見た。
「六十年、この道にいた。最初は馬番の小僧からだ。お前より若い頃に始めた」
「六十年——」
「ああ。それだけ歩けば、世界の端から端まで何度も往復できるくらいだ。実際には同じ道を何度も歩くだけだがな」
老人は乾いた笑いを漏らした。
「獣は昔からいた。危険も昔からあった。だが——変わったんだ。ここ十年くらいで」
「何が変わったんですか」
「獣の目だ」
「目?」
「昔の獣は、人間を避けた。火を見れば逃げた。大きな音を立てれば去った。連中には連中の世界があって、人間の世界にはあまり興味がなかった」
老人は闇の中の何かを見つめるように目を細めた。
「最近の獣は——こっちを見る。避けるんじゃなく、観察している。そんな気がする。人間の世界に、興味を持ち始めたんじゃないかと」
「獣が、人間に興味を——」
「馬鹿な話に聞こえるだろう。爺の繰り言だ。だが、六十年見てきた勘は、そう言っている」
老人はコウキの顔を見た。
「お前、勘がいいんだろう。隊長連中がそう言っていた」
「……よく、そう言われます」
「なら、気をつけろ。勘がいい人間は、世界の変化を最初に感じ取る。それは才能だが、重荷でもある。わかっても、どうにもできないことがあるからな」
老人は柵から離れ、管理小屋のほうへ歩き始めた。
「——若いうちに、できるだけ遠くまで行け。世界が変わる前に、世界を見ておけ」
その背中が闇に溶けていった。
コウキは一人、柵の傍に立ち続けた。
風が草を揺らしている。月明かりが草原を銀色に照らしている。穏やかな夜だ。だが——その穏やかさの下に、何かが動いている。見えないけれど、感じる。
六十年の隊商暮らしの老人が「変わった」と言う世界の変化。その原因を、コウキは知らない。隊長たちも知らない。
だが、確実に何かが起きている。
コウキは、その「何か」の正体を知りたいと思った。怖いけれど、知りたい。
それは好奇心なのか、使命感なのか、それとも——自分の中にある「わかること」が、世界の異変と共鳴しているのか。
わからなかった。
ただ、世界は広く、世界は変わりつつあり、自分はその中を歩いている。
それだけが確かだった。




