07_出立と嵐
銀崖集落を出る朝、ナクロが荷車の横に立っていた。
革の荷物袋を一つ。使い込まれた革靴。集落の石工が削った小さな護符を、首から下げている。
「よろしく頼む」
ナクロはぎこちなく頭を下げた。昨日まで威勢よく「外を見たい」と言っていた青年の顔に、緊張が滲んでいる。
「よう、新入り」ルウが手を差し出した。「お前の荷物、それだけか? 軽いな。いいことだ。すぐ足に来るからな」
「……お前は?」
「ルウ。護衛だ。こっちがコウキ。見習い」
「見習い? 俺より若いのか」
コウキは肩をすくめた。「一ヶ月先輩です。先輩風は吹かせませんけど」
ナクロの顔がわずかに緩んだ。
集落の門の前に、ナクロの両親が立っていた。父親は石工の大きな手を握り締め、母親は目を赤くしている。
コウキは、その光景を少し離れた場所から見ていた。「森の端」の門前に立っていたガロンとミラの姿と重なった。どの集落でも、見送る親の顔は同じなのだ。
* * *
隊商が動き出して三日目。
銀崖集落で仕入れた銅鉱石と水晶砂を積み、次の目的地——三叉路の町を目指している。行程は二十日ほどの見込みだった。
ナクロは初日こそ足取りが軽かったが、二日目にはもう足を引きずっていた。コウキが自分の足の豆の記憶を語ると、ナクロは苦笑した。
「四日目から楽になるって本当か?」
「本当です。たぶん」
「たぶんかよ」
「んー、俺の感覚だと初日が一番厳しくて、翌日から少し楽になってきた・・・ような?」
その日の昼過ぎだった。
コウキは、空気の変化を感じた。
いつもの「勘」とは少し違った。胸の奥が、じわりと圧迫されるような感覚。空を見上げる。雲は薄く、風も穏やかだ。異変を示すものは何もない。
だが、肌が——いや、肌よりもっと深い場所が、何かを告げている。
「セレナさん」
前を歩いていたセレナが振り向いた。
「嵐が来ると思います」
セレナは空を見上げた。青空に薄い雲が流れているだけだ。
「……根拠は」
「ないです。でも——」
コウキは言葉を探した。
「空気の湿り気が変わった気がします。それと、雲の流れが——上のほうの雲と、下のほうの雲で、動きが違う。上は速くて、下は止まっている」
セレナは目を細めて空を見た。今度は、注意深く。
「……確かに。上層の雲は西から速く流れている。下層はほぼ停滞。これは——」
「前線が近づいてるのか」アレクが歩み寄ってきた。セレナとコウキの会話を聞いていたらしい。
「可能性はある。上と下で風向が違うのは、大きな天気の崩れの前兆だ」
「来るとしたら、いつだ」
セレナは風を読むように目を閉じた。
「今夜から明朝。遅くとも、明日の昼までには」
アレクは一瞬で判断した。
「野営地を探す。できるだけ地形的に守られた場所を」
斥候のダグが走った。一刻後、西に窪地があるとの報告が戻ってきた。小さな丘に囲まれた凹地で、風をある程度遮ることができる。
隊商は急ぎ足でそこに向かった。通常より二時間早い野営の開始だった。
* * *
嵐への備えは、普段の野営とはまるで違った。
荷車を円形に配置し、隙間をロープと幌で塞ぐ。荊棘柵は張らない。風に飛ばされる危険があるからだ。代わりに、荷車の車輪に楔を噛ませ、地面に打った杭とロープで固定する。
「幌をきつく張れ! 隙間があると風に持っていかれるぞ!」
セレナが指揮を取る。全員が動いた。コウキもルウもナクロも、言われるままに杭を打ち、ロープを結んだ。
馬たちは窪地の一番低い場所に集められ、荷車の風下に並べられた。ディンが一頭ずつ目隠しの布をかけている。
「馬は雷を怖がる。目隠しをすると少し落ち着く」
荷物のうち、水に弱いものは油紙で二重に包み直した。織物は特に念入りに。
「銀崖で仕入れた銅鉱石は水に濡れても問題ない。織物を中央に、鉱石を外側に積め。鉱石が壁になる」
トメの指示も的確だった。商品を守ることは、隊商の生命線を守ることと同じだった。
準備が終わったのは、日が暮れる頃だった。
空は——変わっていた。西の空が、異様に暗い。雲が厚く、低く、蓋のように迫っている。風が強くなり始めていた。
「来るぞ」
アレクの声が、風に混じって聞こえた。
* * *
嵐が来た。
最初は雨だった。冷たい、大粒の雨。それが次第に横殴りになり、やがて風が唸り始めた。
テントの布が膨らみ、バタバタと暴れる。ロープが軋む。馬が嘶く。風の音が、会話を奪った。
「三番の荷車、幌が外れかけてる!」
ルウの声が闇の中から聞こえた。コウキは雨の中を走った。目を開けているのがやっとだ。水が顔を叩き、視界を奪う。
三番の荷車にたどり着くと、幌の片側がロープから外れ、風に煽られて暴れていた。このまま放っておけば、幌ごと商品が持っていかれる。
「押さえろ!」
コウキとルウが幌を掴んだ。風が二人を引き剥がそうとする。コウキは歯を食いしばり、全身の力で布を押さえた。
ナクロが駆け寄ってきた。
「ロープをくれ!」
コウキが叫んだ。ナクロは腰のロープを投げた。コウキは片手で幌を押さえながら、もう片方の手でロープを荷車の枠に結びつけた。ルウが反対側を固定する。
「よし、持った!」
三人とも、全身がずぶ濡れだった。
嵐は一晩中続いた。
誰も眠れなかった。テントの中にいても、風がテントごと揺らし、水が隙間から染み込んでくる。焚き火はとうに消えていた。暗闇の中で、ただ風の音を聞き、時折誰かが外に出て荷車を確認し、馬を落ち着かせた。
コウキは毛布に包まって座っていた。隣ではナクロが震えている。
「……死ぬかと思った」
「死なないよ。備えてるから」
「備えてなかったら?」
「……それは、考えないようにしてる」
コウキ自身も怖かった。だが、不思議と、恐怖の底には落ち着きがあった。準備をした。やれることはやった。あとは耐えるだけだ。
セレナが言っていたことを思い出す。「向き合えるようになるだけだ」。——いや、それはアレクの言葉だった。
* * *
朝が来た。
嵐は去り、空は嘘のように晴れていた。朝日が濡れた草原を金色に染めている。
被害の確認が始まった。
荷車一台の幌が半分裂けていた。織物の一部が濡れた。馬一頭が脚に軽い擦り傷を負ったが、歩行に支障はない。
人間の怪我はなかった。
「早めに備えたから、この程度で済んだ」
アレクが淡々と言った。安堵ではなく、事実の確認として。
「幌は三叉路の町で補修する。濡れた織物は干せば売り物にはなる。損害は——二百穀程度か」
トメが計算した。険しい顔だが、最悪は免れたという認識はあるようだった。
「嵐の前に野営地を確保できたのが大きい。移動中に食らっていたら、荷車が転倒していた可能性がある」
セレナがそう言って、コウキの方を見た。
「コウキ。嵐の察知、あれは助かった」
「……偶然です」
「偶然かどうかはどうでもいい。結果として隊が助かった。それが全てだ」
セレナの声には、初めて聞く温かさがあった。
「——ただ、一つ聞いていいか」
「はい」
「あの勘は、どこで身につけた? 集落にいた頃からか」
コウキは少し考えた。
「……昔から、何となくわかることがあって。天気とか、動物の気配とか。でも、理由はわかりません。ただ、感じるんです」
セレナは静かにコウキの目を見つめた。
「便利な体質だ。大事にしろ」
それだけ言って、セレナは馬の世話に戻っていった。
ナクロが、濡れた荷物を広げながら言った。
「お前、すごいな。嵐がわかるなんて」
「すごくないよ。ただ——」
「ただ?」
「自分でも、よくわからないんだ」
コウキは朝日に目を細めた。嵐のあとの空は、どこまでも澄んでいた。
自分の中にある「何か」は、嵐を感じ取った。それは事実だ。だが、それが何なのかは、やはりわからない。
ただ——以前より、怖くはなくなっていた。
この「何か」は、少なくとも、今は味方だ。




