10_広い世界の果てに
三叉路の町を出る朝は、よく晴れていた。
市場広場を抜け、南門をくぐる。振り返ると、石と木で築かれた町が朝日に照らされていた。屋根の上を鳥が飛んでいく。市場では、もう人が動き始めている。町の背後に、標塔が一本、天に向かって伸びている。滑らかな金属光沢が朝日を反射し、銀色に輝いていた。どんな町も集落も、標塔を目印に位置を示す。ルインの地図にも、必ず標塔が描かれていた。
ルインが門の前に立っていた。旅装ではなく、工房の前掛けのままだ。
「これ。南西の道、速報版」
丸めた羊皮紙をアレクに渡した。
「まだ書きかけだが、湿地帯の最新位置だけは入れておいた。使ってくれ」
「助かる」
「次に来たとき、完成版を渡す。——気をつけて」
アレクが頷いた。ルインはコウキに目を向けた。
「坊主。またおいで」
「はい。——また来ます」
自分でも驚くほど自然に、その言葉が出た。「また来る」場所がある。「また会う」人がいる。それは一ヶ月前の自分には、なかった感覚だった。
隊商が動き出す。馬が嘶き、車輪が軋む。二十人と馬三十頭の列が、草原へと伸びていく。コウキは荷車の横を歩いた。一ヶ月前と同じ位置。だが、足取りは違う。
* * *
歩きながら、コウキは振り返った。この一ヶ月を。
一ヶ月前。何も知らなかった。
馬の世話の仕方を知らなかった。荷車の車輪がどう組まれているかも知らなかった。水の大切さを、本当の意味では理解していなかった。
今は違う。
馬の脚を見て異常に気づける。車軸に油を差せる。野営地の風向きを読んで、テントの位置を提案できる。市場で客に商品を説明できる。
だが——それだけではない。
一ヶ月前のコウキには、「世界」がなかった。「森の端」という一つの集落が世界のすべてで、その外側は漠然とした「どこか」でしかなかった。
今、コウキの中には「世界」がある。
銀崖集落の石壁。三叉路の町の喧騒。中継所の焚き火。湿地帯を迂回した岩場の記憶。ルインの地図に描かれた線と点。
断片的だが、確かに存在する世界の地図。それが自分の中に育ち始めている。
「お前、最初の頃と顔が変わったな」
ルウが横に並んだ。
「そう?」
「ああ。最初は——なんていうか、怯えてた。周りを見てるんだけど、壁の向こうから覗いてるような感じだった。今は違う」
「どう違う?」
「壁がなくなった。ちゃんとこっちにいる感じだ」
コウキは少し考えた。
「……わかる気がする。集落にいた頃は、ずっと——自分と世界の間に何かがあった。見えるのに触れられない感じ。ここに来て、初めてちゃんと地面を踏んでいる気がする」
「大げさだな」
「大げさかもしれない」
二人で笑った。ナクロが後ろから「何の話だ」と声をかけてきたが、二人は「何でもない」と答えた。
* * *
夕方、隊商は小さな丘の麓に野営した。
見晴らしのいい場所だった。北に丘陵、南に草原。西に沈む太陽が、空を赤く染めている。
コウキは焚き火の準備をしながら、ディンと話していた。
「ディンさん。馬って、自分の体の異常に気づかないことがあるんですか」
「あるな。脚を庇って歩いているのに、走ろうとする馬がいる。痛みよりも、群れについていくことを優先するんだ」
「人間もそういうところ、ありますよね」
「お前、何か気づいたか」
「……アレクさん、右肩を少し下げて歩いてます。ここ数日。荷を持つとき、左手を使うことが増えた」
ディンの目が鋭くなった。
「……よく見ているな。明日、診てみる」
「怒られませんか、余計なことだって」
「隊長の体は隊の資産だ。余計なことじゃない」
ディンは焚き火に枝をくべた。
「お前は、人を見る目がある。馬を見るのと同じ目で、人も見ている。それは——いいことだ」
コウキは夕焼けに染まった空を見上げた。
人を見ること。世界を見ること。感じたことを、形にすること。
ルインは地図にした。トメは帳簿にした。ディンは治療にした。
コウキは——まだ、何も形にしていない。
だが、いつか。
いつか、自分にしかできない形で、感じたことを伝える方法が見つかるだろうか。
* * *
深夜。コウキは見張り番についていた。
焚き火の炎が低くなり、薪をくべる。空には星が散らばっている。月は半分だけ出ていた。
風が凪いでいた。草原が静まり返り、虫の声だけが細く響いている。
その静けさの中で——それは来た。
最初は、いつもの「勘」だった。遠くに何かがいる。方角は——北東。距離は——
距離は。
コウキは目を見開いた。
今まで感じたことのない、広い感覚だった。草原を超え、丘陵を超え、その向こう——何日路も先に、「何か大きなもの」がいる。
一つではない。複数。群れのように、だが群れとも違う。ばらばらに散らばりながら、同じ方角に向かって動いている。
獣だ。多くの獣が、何かに引かれるように——あるいは何かに押されるように——北東へ向かって移動している。
心臓が速くなった。
これは——いつもの「勘」ではない。もっと鮮明で、もっと広い。まるで、空の上から地面を見下ろしているような感覚。
怖くなった。
自分の中から何かが広がっていく。体の輪郭が溶けて、感覚が四方に伸びていく。草原の温度、土中の水の流れ、風に含まれた獣の匂い。すべてが一度に流れ込んでくる。
——止めろ。
コウキは目を閉じ、拳を握りしめた。感覚を、体の中に押し戻す。手のひらの爪が食い込む痛みで、意識が体に戻ってくる。
呼吸が荒い。額に汗が浮いている。
焚き火の炎が揺れている。自分の手がある。地面がある。草原の匂いがある。——大丈夫。ここにいる。
だが、一度開いた感覚は、完全には閉じなかった。
遠くの「何か」の気配が、かすかに残っている。潮騒のように、意識の端を洗い続けている。
恐怖。
だが同時に——不思議な安心感があった。
まるで世界そのものが、自分に何かを教えようとしているような。危険を知らせ、道を示し、守ろうとしているような。
馬鹿げた感覚だ。世界に意志などない。
——でも。
コウキは息を整え、焚き火の炎を見つめた。
自分の中にある「何か」は、確実に大きくなっている。集落にいた頃は、せいぜい柵の外の牙鼠を感じる程度だった。今は——何日路も先の獣の動きが、ぼんやりとわかる。
それが何を意味するのか。なぜ自分にそんなことが可能なのか。
答えは見つからない。だが、この感覚を——怖がるだけではなく、理解しなければならない。そう感じていた。
* * *
朝が来た。
何事もなかったかのように、草原に陽が昇った。朝霧が薄く立ち込め、馬たちが鼻を鳴らしている。
コウキは夜のことを誰にも言わなかった。言葉にする方法がわからなかった。
荷車の点検を手伝い、馬の脚を確認し、水筒を満たす。いつもの朝の作業。
アレクが近づいてきた。
「コウキ。昨夜の見張りで、何かあったか」
一瞬、心臓が跳ねた。
「……いえ、何も」
アレクはコウキの顔を見た。じっと、数秒間。
「そうか」
それだけ言って、アレクは離れた。信じたのか、信じなかったのか。その表情からは読み取れなかった。
隊商が動き出す。
草原を進む。風が吹く。草が波のように揺れ、遠くに丘陵の稜線が見える。その向こうに、標塔が何本も見えた。四本、五本——数えるのをやめた。天を支える柱が、世界の端まで並んでいる。一ヶ月前、「森の端」を出たとき、標塔は三本しか見えなかった。今は、もっと遠くまで見えている。世界が、広がっている。
コウキは歩いた。一歩一歩、地面を踏みしめて。
一ヶ月前、「森の端」の門を出たとき、風の向こうに「何か」を感じた。あのとき感じたものが、今ようやくわかりかけている。
世界は広い。
世界は変わりつつある。
そして——自分もまた、変わりつつある。
隊商の列が草原を進んでいく。二十数人の人間と三十頭の馬と七台の荷車。この世界のほんの一片。だが、確かにここにいて、確かに歩いている。
コウキは前を向いた。
次の集落まで、あと何日だろうか。次の出会いは、何を教えてくれるだろうか。
わからない。でも、それでいい。
知らないことが、まだたくさんある。
それが——今のコウキには、何よりの希望だった。




