11_変わる道
三叉路の町を出て四日目。空は薄曇りで、風はほとんどなかった。
草原は相変わらず広い。だが、コウキにとって、その広さの意味が以前とは変わっていた。
歩いている。荷車の横を、いつものように歩いている。馬の蹄が地面を踏む音、車輪が軋む音、誰かが鼻歌を歌う声。日常の音。
その隙間に——ノイズが混じる。
遠くに、何かがいる。
右の、ずっと先。丘陵の裏側だろうか。大きな獣が一頭。じっとしている。眠っているのか、待っているのか。
左の、もっと遠く。複数の気配がまばらに散らばっている。小さい。おそらく鉤牙か、灌木鼠の群れ。害はない。
前方、はるか遠く——
コウキは目を閉じかけて、慌てて開いた。
駄目だ。感覚を広げすぎると、体の輪郭が溶ける。あの夜のように。
意識して、感覚を体の中に押し戻す。だが、完全には閉じない。水道の蛇口を締めきれないように、ぽたり、ぽたりと情報が漏れてくる。
右の獣が身じろぎした。左の群れが少し移動した。前方の——
「顔色悪いぞ」
ルウの声で、コウキは現実に引き戻された。
「え?」
「朝からずっと、どこか見てるような顔してる。寝不足か」
「……ちょっとだけ」
嘘ではなかった。最近、夜中に感覚が勝手に広がって目が覚めることがある。体は眠っているのに、意識の一部だけが起きて、周囲を探っている。
「今夜の見張り、代わろうか」
「大丈夫。ありがとう」
ルウは肩をすくめた。「無理すんなよ」
コウキは頷いた。無理はしていない。ただ、自分の中にあるものと、どう付き合えばいいのかがわからないだけだ。
* * *
昼前、斥候のダグが戻ってきた。
「前方の谷間。獣の群れが居座っている」
アレクの表情が引き締まった。
「種類は」
「角顎だ。五頭。子連れかもしれない」
角顎。大型の草食獣だが、縄張り意識が強く、子連れの場合は荷車ごと突き飛ばすほど凶暴になる。隊商にとっては厄介な相手だった。
「以前はあの谷間にいたか?」
「俺の記憶じゃ、いなかった。少なくとも去年は」
アレクがルインの地図を広げた。羊皮紙の上に、丁寧な筆致で描かれた地形図。赤い点——獣の異常行動の報告地点——がいくつも散っている。
「谷間を避けるなら、北か南東だ」
セレナが地図を覗き込んだ。
「北は丘陵が深い。荷車には厳しい」
「南東は遠回りだが、地形は楽だ」
沈黙。アレクの視線がコウキに向いた。
「コウキ。何か感じるか」
隊の幹部たちの前で聞かれたのは、初めてだった。コウキは一瞬ためらい——そして、正直に答えた。
「南東にも——何かいます。でも、数は少ないです。二つか、三つ。小さい」
「北は」
コウキは北に意識を向けた。感覚がじわりと広がる。丘陵の向こう、岩場の隙間に——
「重い感じがします。数は多くないけど、大きい」
アレクは数秒だけ考えた。
「南東回りだ。準備しろ」
トメが帳簿を開いた。
「南東だと、渡し場の集落まであと三日は余分にかかる。食料は足りるが、三日の遅れは渡し場での交易日程に響く。向こうで待っている取引先がいるんだ」
「日程は着いてから調整する」
「隊長はいつもそう言う」
トメは渋い顔をしながらも、もう計算を始めていた。遅延による交易条件の変化。迂回路の荷車への負荷。馬の消耗と飼い葉の配分。
セレナがコウキに小声で言った。
「お前の勘、当てにしているからな。外すなよ」
冗談なのか本気なのか、わからない顔だった。
* * *
午後、隊商は南東に進路を変えた。
普段は通らないルートだった。草の丈が高く、足元が見えにくい。馬が何度か足を取られ、そのたびに隊列が止まる。
ナクロが荷車の横で息を切らしていた。隊商に入って二ヶ月。体力はついてきたが、不整地の行軍にはまだ慣れていない。
「こんな道、銀崖の近くにはなかったな」
コウキが水筒を渡した。
「銀崖の周りは岩場が多いから、草が生えにくいんだろうね」
「それだけじゃない」ナクロは水を飲んで、口の端を拭った。「獣の痕跡が——多すぎる」
言われて、コウキも改めて周囲を見た。
確かに、多い。
木の幹に残った爪痕。三本の深い溝が、白い木肌を剥いている。高い位置——人間の背丈よりも上だ。大型の獣の仕業だろう。
踏み荒らされた草。何かの群れが通った跡が、帯のように草原を横切っている。その方角は——北東。
ディンが荷車から降りて、地面にしゃがみ込んだ。獣の糞を棒でつつき、匂いを嗅いでいる。
「新しい。二日以内だ」
「種類は?」
「少なくとも二種類は混ざっている。鉤牙と——もう一つ、知らないな。見たことのない糞だ」
ディンは立ち上がり、眉をひそめた。
「複数の種が、同じ方向に移動している。本来なら競合する種が、だ」
ナクロが不安そうな顔をした。
「それって——」
「わからない。だが、普通じゃない」
コウキは黙って聞いていた。ディンの言葉が、自分の感覚と重なる。
感覚を通じて、ぼんやりと見えるもの。遠くの獣たちが、ばらばらに——だが同じ方角へ——流れている。川の水のように。何かに押されるように。あるいは、何かに引かれるように。
ルインの地図に描かれた赤い点を思い出す。北東に集中していた、あの分布図。
あれは地図の上の情報だった。今、コウキは同じものを——体で感じている。
* * *
日が暮れた。
野営地は、小さな丘の斜面に設けた。見晴らしがよく、獣が近づけば早期に気づける地形だ。最近は野営地の選定にも、以前より慎重になっている。荊棘柵を二重に張り、焚き火を三ヶ所に増やした。
夕食は穀物の粥だった。狩りの成果はなかったので保存食だが、量はある。
ナクロが椀を覗き込んで、小さくため息をついた。
「銀崖にいた頃は、炊きたての飯が食べられたんだが」
「集落の中は安全だからな」ルウが粥をすすった。「隊商は違う。外にいるのが仕事だ」
「わかってる。わかってるけど、温かい飯が恋しい」
「そのうち慣れる」
「慣れたくないな、この味気なさには」
ルウが笑った。コウキも少しだけ笑った。
食事を終え、見張りの配置を決める。
コウキは深夜の番だった。焚き火の前で膝を抱えて座り、暗い草原を見つめる。
——と、アレクが隣に座った。
しばらく、二人とも無言だった。焚き火が爆ぜる音。遠くで虫が鳴いている。
「コウキ」
「はい」
「お前、最近よく遠くを見ている」
心臓が少し速くなった。
「……はい」
「三叉路を出てから——いや、その前からか。歩いている最中に、ふっと目の焦点が変わる。何か聞こえているような顔をする」
コウキは膝を抱えた腕に力を込めた。ごまかすことはできた。以前のように「何もありません」と言うこともできた。
だが——もうそれは、嘘だった。
「……時々、遠くのものが——感じられるんです」
声が小さくなった。
「獣がどこにいるか、とか。何かが動いている方向、とか。はっきりわかるわけじゃないんですけど、ぼんやりと。最近は、勝手に——」
言葉が詰まった。
「勝手に広がるんです。止められない時がある。怖い——少し、怖いです」
焚き火の炎が揺れた。アレクは黙って聞いていた。
長い沈黙があった。
「いつからだ」
「……集落にいた頃から、少しだけ。柵の外の牙鼠を感じたり、嵐の気配がわかったり。でも、旅に出てから——特にここ数日、強くなっています」
アレクは焚き火を見つめていた。炎の光が、隊長の横顔を照らしている。四十代の、風に焼けた顔。刻まれた皺。その目は——驚いていなかった。
「お前の勘を、もっと頼りにさせてもらう」
静かな声だった。
コウキは顔を上げた。
「その代わり、無理はするな。感じられなくなったら、そう言え。わからない時はわからないと言え。隊長命令だ」
「……はい」
「お前の中にあるものが何なのか、俺にはわからない。だが、お前がこの隊にいてくれて助かっている。それは確かだ」
コウキの目が熱くなった。
自分の中にある「何か」を——怖がるでもなく、利用するでもなく、ただ「助かっている」と受け止めてくれた。それがどれほどありがたいことか、言葉にできなかった。
「アレクさん」
「なんだ」
「……ありがとうございます」
アレクは少しだけ口の端を上げた。
「礼はいい。明日も早い。——あと、俺のことは『さん』じゃなく呼び捨てでいい。セレナもルウもそうしている」
「それは——まだ、無理です」
「そうか」
焚き火が爆ぜた。遠くで獣の遠吠えが聞こえた。一つではない。二つ、三つ。それぞれ別の方角から。
コウキは感覚を少しだけ広げた。
北東に、何かが動いている。大きな流れ。獣たちが、何かに向かって——あるいは何かから逃れて——移動し続けている。
その流れの意味はまだわからない。だが、世界が変わりつつあることだけは、確かだった。
焚き火の向こうで、ナクロが寝返りを打った。ルウが毛布を引き上げた。馬たちが静かに息をしている。
小さな隊商の、小さな夜。
コウキは火の番を続けた。遠い気配を感じながら、けれどここにいることを、確かめるように。




