05_銀崖の集落
コウキは、世界にはこんな場所もあるのかと思った。
「森の端」は、巨大なシダの影に甲殻住居が並ぶ、静かな集落だった。緑と灰色の世界。音といえば、工匠の槌音と虫の声くらい。
銀崖集落は、まるで違った。
崖の上に築かれた集落は、岩そのものを削って作られていた。灰白色の石壁が朝日に光り、それが「銀崖」の名の由来なのだとわかる。家々は崖面に段々に並び、石の階段が蟻の巣のように入り組んでいた。
そして、音が違う。
金属を叩く音。石を削る音。人の声。荷を運ぶ声。活気が、肌に伝わってくるほどの密度で満ちていた。
「でかいだろ」
ルウが横に立った。
「ここは鉱石が取れるんだ。銅や、錫。それと、石英の砂——研磨に使う水晶砂ってやつ。だから職人が集まる。人口は六百くらいか」
「六百——」
「森の端」は四百五十人程度だった。数字だけなら大差ないが、崖面に密集した建物の圧力が、実数以上の規模を感じさせる。
「初めて来たときは、俺も口開けっぱなしだったよ」ルウが笑った。「集落ってのは、場所によってこんなに違うんだって思った」
* * *
集落の入口で、アレクとセレナが長老たちと対面した。
銀崖集落の長老は三人。白髪の老人が一人と、五十代の男が二人。石の台座に座り、隊商の代表を迎える。
コウキは荷車の傍で待機しながら、交渉の様子を見ていた。
「滞在は五日。市場区画の東側を使用させていただきたい」
アレクが頭を下げる。形式的だが、丁寧な所作だった。隊商の隊長として何十回と繰り返してきた動きだろう。
「交易品の一覧は」
「骨甲工芸品、織物、水晶砂——こちらは銀崖産と品質を比較していただければ。加えて、南部の薬草の干物を少量」
長老の一人が、水晶砂に興味を示した。
「どこの産だ」
「中原町の西方、石英脈からの採取品です」
「ふむ。うちの砂と比較してみるか」
交渉は淡々と進んだ。市場税は交易品の一割。滞在中の宿泊は集落の宿屋を利用。馬は集落外の草地に繋留。
最後に、長老が一つ付け加えた。
「最近、安全圏の境界で獣の目撃が増えている。夜間は集落の外に出ないでもらいたい」
アレクの目が一瞬細くなった。
「承知しました。——その件について、後ほど詳しく伺ってもよろしいですか」
「構わん。今夜、食事の席で」
* * *
市場の準備が始まった。
集落の中央に広がる市場区画は、石畳が敷かれた広場だった。「森の端」には石畳など存在しなかった。コウキは足元の平らな石の感触に、場違いな感動を覚えた。
トメが手際よく商品を並べていく。
「骨甲の工芸品はこっち。織物は布を広げて色が見えるように。水晶砂は小分けの見本を前に出せ」
コウキは指示に従って荷を運び、商品を配置した。布の並べ方一つにもトメの拘りがあった。
「色の薄いものから濃いものへ。客の目は左から右に流れる。最初に明るい色を見せて足を止めさせ、暗い色で落ち着かせる」
「……考えたことなかった」
「商売は、考えることだ。相手が何を欲しがっているか。何に目を止めるか。それを先に読む」
トメの目は、帳簿を見ているときとは違う光を帯びていた。商人としての矜持。コウキはその眼差しに、「森の端」のガモンが骨を削るときの顔を思い出した。何かを極めた人間の目は、どこか似ている。
市場が開くと、人が集まってきた。
銀崖集落の住人たちは、隊商の品物を物珍しそうに手に取る。特に、南部の織物は人気があった。銀崖は鉱石の産地であり、織物は輸入に頼っている。
「この布、手触りがいいね。何でできてるの?」
若い女性が、草絹の反物に手を伸ばした。コウキが対応する。
「草絹です。南の平原で育つ草を紡いで——」
「へえ。あんた、隊商の人? 若いね」
「見習いです」
「ふうん。どこの集落から?」
「南のほうの——森の端、という集落です」
女性は首を傾げた。聞いたことがないという顔だった。当然だろう。「森の端」は小さな集落だ。ここから何日路も離れている。そして、集落の大多数の人は自分の育った集落の安全圏から出ることはない。
その距離が、急に実感になった。
自分は今、誰も「森の端」を知らない場所にいる。
* * *
午後、コウキは市場の合間に集落を歩いた。
崖面に刻まれた階段を登ると、集落を一望できる場所に出た。灰白色の屋根が重なり合い、その向こうに平原が広がっている。遠くに、隊商が来た方角——南の草原が霞んで見えた。
「ここ、いい場所でしょう」
声に振り向くと、少女が立っていた。十三、四歳くらいだろうか。石の粉で白くなった手を、前掛けで拭いている。
「石切り場の見学に来たの?」
「いや、ただ歩いてたら——」
「隊商の人だよね。さっき市場で見た」
少女はエダと名乗った。親が石工で、自分も石を削る仕事を手伝っているらしい。
「この集落の家は、全部石なんですか」
「うん。崖を削って部屋を作るの。お父さんが一部屋作るのに、三ヶ月かかる」
「三ヶ月!」
「石は硬いから。でもね、できあがると、百年はもつって」
エダは誇らしそうに言った。自分の集落の技術を、当然のことのように語る。その表情が、コウキには新鮮だった。
「あなたの集落は、どんな家?」
「甲殻住居。甲羅牛の殻を屋根にして——」
「えっ、虫の殻?」
「虫じゃなくて、甲羅牛の——大きい獣の殻で」
エダは目を丸くした。甲羅牛は南部の森林地帯にしかいない。銀崖の人間には馴染みがないのだ。
「変なの」
「そっちこそ。岩を削って家を作るなんて」
「それが普通だよ、ここでは」
二人とも笑った。普通が違う。当たり前が違う。それが面白いと思えることが、コウキにはうれしかった。
* * *
夕食は、集落の宿屋で取った。
長老の一人が同席し、アレクと酒を酌み交わしている。隊商の幹部たちも席についていた。コウキとルウは末席だったが、話は聞こえた。
料理は、コウキが食べたことのないものばかりだった。岩塩で漬けた淡水魚の焼き物。崖面に生える苔を練り込んだ平焼きパン。鉱石から抽出した赤い顔料で色をつけた、祝い菓子。
ルウが魚を頬張りながら呟いた。
「うめえ。塩が違うな、ここのは」
「岩塩か?」
「ああ。海の塩とは味が違う。まろやかっていうか」
塩一つとっても、集落ごとに違う。コウキは箸を動かしながら、その事実を噛みしめた。
長老とアレクの会話が、次第に深刻な色を帯び始めた。
「ここ半年ほど、安全圏の境界で獣の目撃が増えている」
長老が杯を置いた。皺だらけの顔に、疲労と不安が入り混じっている。
「以前はこんなことはなかった。柵の外に出さえしなければ、獣が近づくことはほとんどなかった。だが最近は——」
「境界まで来ているんですか」
「来ている。それだけではない。柵を試すように近づいてくるものもいる。まるで——柵の向こうに何があるか、確かめているかのように」
アレクは静かに聞いていた。
「道中でも、獣の行動がおかしいという話を聞きました。丘陵地帯に岩噛みが下りてきていたり」
「やはりか。うちだけの問題ではないのだな」
長老は溜息をついた。
「この集落は三十年前、もっと小さかった。鉱石が取れるようになって人が増えた。柵を広げ、安全圏を押し広げた。だが——押し広げた分だけ、獣との境界も長くなった。守る範囲が増えた」
「増えた境界を、守り切れますか」
「今はまだ。だが、このまま増え続ければ——」
長老は言葉を濁した。
コウキは箸を止めて聞いていた。
数日前の夜営で、ダグが報告した岩噛み。中継所の掲示板にあるという「獣の異常行動」の情報。そして今、銀崖集落の長老の話。
点と点が、まだ線にはならない。だが、何かが起きている——という感覚は、コウキの中で少しずつ形を持ち始めていた。
宿屋の窓から、夜の崖面が見えた。石の壁に反射するヒカリゴケの光が、淡い緑色の模様を描いている。
美しい場所だ。ここに暮らす人々は、この景色を百年守ってきた。
それが脅かされているのだとしたら。
コウキは、まだ答えを持っていなかった。ただ、世界が思っていたより複雑で、思っていたより脆いのかもしれない——という予感だけが、胸の奥に沈んでいた。




