04_地図のない道
七日目の朝、斥候が走って戻ってきた。
「前方に湿地。幅は——わからん。見渡す限りだ」
斥候のダグという男が、息を切らしながら報告した。日焼けした顔に泥が跳ねている。
「以前は通れた場所だ。先月もここを通った別の隊商から情報をもらっていたが——」
「変わったんだな」
アレクの声は平坦だった。驚きはない。ただ、確認するように言った。
「ああ。雨のせいかもしれない。それとも、水脈が変わったか。ともかく、荷車は通れない」
トメが革袋から地図を取り出して広げた。羊皮紙に記された線と印。しかしその地図は、何年も前に作られたものだった。湿地の位置が、実際とは大きくずれている。
「この地図じゃ話にならんな」
セレナが苛立たしげに言った。
「標塔の位置は変わらないが、それ以外は全部変わる。水が増えれば地形が変わり、獣が増えれば道が消える」
「しかたない。道を変えるしかない」
アレクが幹部を集めた。コウキは馬の世話をしながら、少し離れた場所で聞いていた。
「北に迂回するか、南に迂回するか。北は丘陵地帯で距離は短いが、地形がきつい。南は平坦だが、大回りになる。二日は余計にかかる」
ダグが地面に棒で地形を描いた。
「北の丘陵を越えれば、その先は草原だ。銀崖集落まで、あと十日で行ける」
「南なら」
「十二日だ。二日遅れると、銀崖での交易期間が削られる」
セレナが腕を組んだ。
「日程なら北だ。だが、丘陵は荷車に厳しい。車軸が保つか」
議論が続く。コウキは馬のカヤの脚を拭きながら、会話を聞いていた。
北。
その方角に意識を向けた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
——嫌な感じがする。
何がいるのかは、わからない。ただ、北の丘陵の向こうに「何かがいる」という感覚。重くて、鈍くて、近づきたくない気配。
口を開くべきか迷った。根拠がない。「勘です」で通用するのは、テントの向きくらいの話だ。ルートの変更は、隊全体の命に関わる。
だが、黙っていることも、できなかった。
「……あの」
アレクが振り向いた。
「北は——なんとなく、嫌な感じがします」
全員の目がコウキに集まった。
「嫌な感じ?」トメが眉を上げた。「見習いの勘で道を変えるのか」
「トメ」アレクが静かに制した。そしてコウキを見た。
「獣か」
「……わかりません。ただ、何かが——」
言葉にならなかった。頭の中にある「感覚」を、言語に変換する方法がわからない。
アレクは長い沈黙の後、ダグに言った。
「南だ」
「南か。二日余計にかかるぞ」
「車軸を失うよりはいい。それに——」アレクはコウキを一瞬見た。「南のほうが安全だ」
「……了解」
ダグは何か言いたそうだったが、アレクの顔を見て口をつぐんだ。隊長の決定は、隊長の責任で覆される。他の誰の意見でもなく。
トメがコウキに目をやった。納得していない顔だった。
* * *
南回りの道は、予想以上に厳しかった。
平坦とはいえ、道があるわけではない。草原の中を、荷車が通れる幅の地面を探しながら進む。岩が露出している場所では、馬が脚を取られないよう、先頭の斥候が慎重にルートを選んだ。
「押せ!」
セレナの声が飛ぶ。荷車が浅い溝に嵌まり、車輪が空転している。コウキは荷車の後ろに回り込み、全体重をかけて押した。ルウが隣で同じように押す。馬が嘶き、手綱を引く隊員が叱咤する。
じわりと車輪が動いた。泥を噛み、岩の縁を乗り越え、ようやく平地に出る。
こういうことが、一日に何度もあった。
七台の荷車を、全員で一台ずつ乗り越えさせる。体力が削られていく。
昼の休憩時間が来ると、誰もが草の上に倒れ込んだ。コウキも例外ではなかった。肩と腰が悲鳴を上げている。
「……大丈夫か」
ルウが水筒を差し出してきた。
「大丈夫。——大丈夫じゃないけど、やるしかない」
「そうだな。やるしかない」
ルウは笑ったが、その目にも疲労が浮かんでいた。
午後も同じ苦行が続いた。岩場を避け、窪地を避け、時には荷物を降ろして人が背負い、空にした荷車を引っ張り上げる。
だが、不満を口にする者はいなかった。
隊商には不文律がある。隊長の決定に従うこと。それが間違いだったとしても、全員で引き受けること。ばらばらになった隊は、獣より先に飢えと疲労に殺される。
コウキは、その沈黙の中にある信頼を感じていた。言葉にはならないが、確かにある。「こいつらと一緒なら、何とかなる」という空気。それが二十人の足を、次の一歩へと動かしていた。
* * *
二日目の夜。
コウキは焚き火の前で、膝を抱えていた。体中が痛い。だが、足の豆だけは——セレナが言った通り、四日目を過ぎた頃から嘘のように楽になっていた。皮が硬くなったのだ。
ダグが野営地に戻ってきた。肩に革袋を担いでいる。中から羽根が覗いていた。
「山鳥が三羽。西の岩場にいた」
ダグが袋を降ろすと、セレナが受け取った。
「いい獲物だ。明日の昼食が豪華になるな」
「ついでに北方面も偵察してきた。隊長、報告がある」
「隊長。報告がある」
アレクが焚き火の傍に来た。ダグの顔は険しかった。
「北の丘陵を、遠くから確認した。——獣がいた」
全員の動きが止まった。
「牙狼か」
「違う。もっとでかい。岩噛みだ。少なくとも三頭。丘陵の北斜面を縄張りにしている」
岩噛み。コウキはその名を初めて聞いた。だが、隊員たちの顔色が変わったことで、それがどういう獣なのか察しがついた。
「北を通っていたら、鉢合わせしていた可能性がある」セレナが低い声で言った。
「可能性じゃない。確実だ。あの丘の尾根道は、やつらの縄張りのど真ん中だ」
沈黙が降りた。
焚き火がぱちりと爆ぜた。
トメが、コウキのほうをちらりと見た。さっきまでの不満げな目ではなかった。
アレクが口を開いた。
「——運がいいな」
視線はコウキに向けられていた。
コウキは何も言えなかった。自分でも、なぜあのとき「北は嫌な感じがする」と言えたのか、わからないのだ。ただ、感じたことを口にした。それだけだった。
アレクはそれ以上何も言わず、焚き火に枝をくべた。
だが、何かが変わった気がした。
トメが翌朝、コウキに水筒を渡しながら「助かったな」と小さく言ったのは、その証拠だった。
* * *
迂回の遅れを取り戻すため、翌日からペースが上がった。
一日の移動距離を伸ばし、休憩を削る。全員の顔に疲労が蓄積していく。
だが、士気は落ちなかった。岩噛みの件が、隊全体の意識を変えたのだ。「正しい判断をした」という実感が、苦しさを相殺している。
コウキは水汲みの合間に、馬の脚を確認して回った。ディンに教わった通り、一頭ずつ、蹄の裏を確認し、関節の熱を触る。
「報告。三番目の荷車を引いている灰色の馬、左後ろの蹄鉄が緩んでいます」
「了解。処置する」
ディンがすぐに対応した。蹄鉄——正確には骨甲を削って作った蹄覆い——を付け直す。
「コウキ。お前、本当に初めてなのか? 馬の世話」
「初めてですけど、見ればわかります。歩き方が少しぎこちなかったので」
ディンは首を傾げた。「見ればわかる」と簡単に言うが、隊商歴の浅い隊員でも見落とすような微細な変化だ。
九日目。湿地を迂回し切り、ようやく元のルートに合流した。
前方に、銀色に光る崖が見えた。その向こうに、標塔が二本、天に向かって伸びている。巨大な金属の柱。隊商の者たちは、標塔の位置関係で自分たちがどこにいるかを把握すると聞いた。変わらないもの——それが、この世界での道標になる。
「銀崖集落だ」
ダグが指さした。高台の上に、灰色の建物が並んでいる。予定より三日遅れだが、全員が無事だった。
ルウがコウキの肩を叩いた。
「着いたぞ、見習い」
コウキは頷いた。足は痛かった。肩も腰も限界に近かった。
だが、前方の集落を見上げたとき——あの銀色の崖と、その上に建つ見知らぬ集落を見上げたとき——胸の中にじわりと広がったものは、疲労ではなかった。
知らない場所に来た。
知らない人がいる。
知らないものが、待っている。
それが、たまらなく嬉しかった。




