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03_馬と人と

 三日目の朝、コウキは馬に噛まれた。


 水を運んでいるときだった。荷車を引く栗毛の牝馬——名前はカヤ——に水桶を差し出したら、いきなり袖を噛まれた。痛みはなかったが、腕を引っ張られてよろめいた。

 「うわっ」

 「おいおい。カヤは気難しいんだ。正面から近づくな。斜め前から、声をかけてからだ」

 ディンが笑いながら駆け寄ってきた。隊商の軍医だ。馬の治療も人間の治療も、この男の領分だった。四十代の穏やかな顔に、古い切り傷がいくつか走っている。

 「馬には馬の礼儀がある。人間と同じだ」

 ディンはカヤの首を撫でながら、コウキに馬への近づき方を教えた。

 「まず声をかける。名前でもいい。それから、こう——肩の横に立って、手のひらを見せる。匂いを嗅がせてやれ」

 コウキが言われた通りにすると、カヤは鼻先を近づけ、ふんと息を吐いた。警戒が解けたわけではないが、さっきのような敵意はなかった。

 「馬は耳と目で気持ちを伝える。耳を伏せたら怒っている。横に開いたらリラックスしている。覚えておけ」

 「ディンさんは、馬の医者なんですか、人の医者なんですか」

 「両方だ。この世界じゃ、馬と人に境目はない。馬が倒れれば荷車が止まる。荷車が止まれば人が死ぬ。同じ命だ」


 その日から、コウキの仕事に「馬の世話」が加わった。



  * * *



 馬の世話は、思っていたより繊細な仕事だった。


 朝、馬の脚を一本ずつ確認する。蹄の裏に石が挟まっていないか。関節に腫れはないか。歩き方に変な癖が出ていないか。

 「この子の右前脚、少し熱を持ってます」

 四日目の朝、コウキはディンに報告した。

 ディンが確認すると、蹄の近くにわずかな腫れがあった。

 「よく気づいたな。昨日の岩場で打ったんだろう。今日は荷を軽くして、歩みを落とす」

 ディンはすぐにアレクに報告し、その日の行程が調整された。馬一頭の脚の具合で、二十人以上の行程が変わる。それが隊商だった。

 コウキは不思議なことに気づいていた。馬たちが自分を怖がらないのだ。

 カヤでさえ、二日目からは耳を伏せなくなった。他の馬たちも、コウキが近づくと落ち着いた目を向ける。ディンが「お前、馬に好かれる体質だな」と感心するくらいだった。

 なぜかはわからない。ただ、馬の傍にいると、相手の気持ちがぼんやりと伝わってくる感じがした。怒り、不安、疲労、満足。言葉ではないけれど、空気の温度のように感じ取れる。

 それを口にはしなかった。集落にいた頃と同じだ。「わかること」を口にすると、相手の顔が変わる。



  * * *



 午後、荷車のトラブルがあった。


 三番目の荷車の車輪から、嫌な音がした。木が軋む、乾いた音。

 「止めろ!」

 セレナの声が飛んだ。荷車が止まると、車輪のスポークが一本、縦にひび割れていた。

 「交換だ。予備を出せ」

 セレナの指示で、荷車の底に積んであった予備のスポークが引き出された。交換作業は慣れた隊員が行うが、人手が必要だ。

 「見習い、車体を支えろ」

 コウキは指示された位置に入り、荷車の重量を肩で受けた。ルウともう一人が車輪を外し、折れたスポークを抜く。

 新しいスポークは、骨甲材を芯にした木製だった。白っぽい骨甲の表面を、コウキは初めて間近に見た。

 「これ、何の骨ですか」

 「甲羅牛の肋骨だ」修理を担当する隊員が言った。「木より軽くて、衝撃に強い。ただし、削るのに手間がかかる」

 スポークをハブに打ち込み、外周のリムを固定する。骨甲製のリムは使い込まれて灰色に変色していたが、まだ十分な強度がある。

 「車軸に油を差しておけ」

 コウキは植物油の入った革袋を受け取り、車軸のブッシュ——青銅製の軸受け——に油を垂らした。青銅の表面が、油を吸って黒く光る。

 「この部品だけは金属なんですね」

 「ああ。銅は貴重だが、ここだけは代用が利かない。骨甲じゃ摩擦に耐えられん。車軸がやられたら、荷車は終わりだ」

 修理は一刻ほどで終わった。コウキは作業の間ずっと車体を支え続けていたが、不思議と腕が震えなかった。

 「お前、力あるな」ルウが感心したように言った。「見た目よりずっと」

 コウキは肩をすくめた。自分では普通のつもりだった。



  * * *



 夜。コウキとルウは、二人で見張り番についた。


 焚き火を挟んで向かい合う。火の粉が風に流れ、夜空に溶けていく。

 「コウキ、お前さ。なんで隊商に入ったんだ」

 ルウが唐突に聞いた。

 「……集落を、出たかったから」

 「出たかった? 嫌だったのか、集落が」

 「嫌だったわけじゃない。育ててもらった恩もある。ただ——」

 言葉を探す。

 「——自分がそこにいることが、しっくりこなかった。みんなと同じものを見ているはずなのに、自分だけ違うものが見えている気がして。それが何なのか、わからなくて」

 ルウはしばらく黙っていた。

 「……俺もそうだった」

 「ルウも?」

 「俺の集落は、山の中にあってな。小さいところだ。百人くらい。全員が顔見知りで、全員が血縁で。毎日同じ顔を見て、同じ畑を耕して、同じ飯を食う。それが一生続く」

 ルウは火に枝をくべた。

 「別に不幸じゃないんだ。飯は足りてるし、危険もそこまでない。でも——このまま爺さんになるのかと思ったら、息が詰まった」

 「それで隊商に」

 「ああ。三年前に来た隊商に、頼み込んだ。親父は怒ったが、お袋が背中を押してくれた。『行きたいなら行きなさい。ただし生きて帰れ』って」

 コウキは、ミラの顔を思い出した。朝の台所。腰帯を差し出した、あの手。

 「……俺の母さんも、似たようなこと言ってた」

 「そういうもんだ。親ってのは」

 ルウが笑った。焚き火に照らされた顔は、年齢より幼く見えた。

 「コウキ、お前って不思議な奴だよな」

 「不思議?」

 「初日で隊商に馴染むやつなんか、普通いない。馬にも好かれるし、荷車の修理も一回見たら覚えるし。昨日の風向きの件も、セレナが驚いてたぞ。あいつが驚くの、珍しいんだ」

 「……ただの勘だよ」

 「その勘がおかしいって言ってるんだ」

 ルウの声にからかいはなかった。純粋な好奇心だった。

 「まあ、いいけどさ。便利な奴が仲間にいるのは悪いことじゃない」

 ルウが手を伸ばしてきた。コウキは一瞬戸惑ったが、その手を握った。

 「よろしくな、見習い」

 「……よろしく」


 風が吹いた。焚き火の炎が傾き、二人の影が草原に長く伸びた。

 空を見上げると、星が散らばっていた。集落の夜空よりもずっと多い。いや、集落でも同じだけの星があったはずだ。ただ、ここでは遮るものがないから、全部が見える。

 世界は広い。まだ四日しか歩いていないのに、もう「森の端」がずいぶん遠くに感じる。

 ——でも、ここにいる。


 闇の向こうで、何かが鳴いた。牙狼ではない。もっと小さな声だ。名前も知らない獣の鳴き声。

 知らないものが、まだたくさんある。

 コウキは、それが少しだけ嬉しかった。

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