02_最初の夜
足の裏が焼けるように痛かった。
草原の地面は平らに見えて、実際には凸凹だらけだ。乾いた土の塊、石、枯れた根。それらが革底の靴を通して、容赦なく足裏を叩く。
隊商が動き出してから半日。コウキはもう、足の指の感覚が怪しくなっていた。
「遅れるぞ、見習い」
前を歩くセレナが振り返りもせずに言った。短く刈った髪が風に揺れている。背中に背負った荷物は、コウキの倍はありそうだった。それなのに、彼女の歩みには疲れの色がない。
「……はい」
歯を食いしばって足を動かす。荷車の横を歩くのが見習いの定位置だ。馬の手綱を取るのは慣れた隊員の仕事で、コウキに許されるのは荷車が傾いたときに押すことと、馬に水を運ぶことだけだった。
だが、その「だけ」が、途方もなく重い。
革の水筒を持って馬のもとへ走る。戻って、荷車の位置を確認する。また走る。その繰り返し。集落にいた頃は自分の体力に不満を感じたことなどなかった。だが、ここでは違う。止まることが許されない。休むタイミングは自分で決められない。隊商のペースが、すべてを決める。
「水」
荷車の上から商人のトメが手を伸ばした。四十代の痩せた男で、帳簿と算盤が入った革鞄を肌身離さず持っている。
コウキは水筒を渡した。トメは一口だけ飲んで、すぐに返した。
「飲みすぎるな。次の水場は明日だ」
その一言で、水の重みが変わった。
* * *
昼の休憩は短かった。
沢沿いの窪地で馬に水を飲ませ、干し肉を齧る。それだけの時間だ。隊員たちは手早く食べ、荷車の点検を始めている。
セレナがコウキの隣に腰を下ろした。
「足を見せろ」
有無を言わさぬ口調だった。コウキが靴を脱ぐと、足の裏は赤く腫れ、親指の付け根に水ぶくれができていた。
「初日でこれか。まあ、そんなものだ」
セレナは腰の革袋から軟膏を取り出し、コウキの足に塗った。冷たい感触が、じんわりと痛みを和らげる。
「明日はもっと痛くなる。三日目が地獄だ。四日目から楽になる」
「……四日目まで、もちますかね」
「もたせろ。隊商には担架で運ぶ余裕はない」
セレナは軟膏を閉じると、コウキの目を見た。
「いいか。隊商は家族じゃない。軍隊でもない。だが、一人が怠ければ全員が死ぬ。一人が水を無駄にすれば、三日後に誰かが渇く。一人が見張りを怠れば、夜中に獣が入る」
「……はい」
「お前が今日やるべきことは三つだ。言われた仕事をこなすこと。水を大事にすること。夜、眠れるうちに眠ること。それだけ考えろ。それ以外は考えるな」
立ち上がりざまに、セレナはコウキの肩を叩いた。決して優しい手つきではなかったが、そこに確かな意思があった。
——こいつを一人前にする、という意思が。
* * *
陽が傾き始めた頃、アレクが野営地を決めた。
小高い丘の東側。視界が開けていて、風上に木立がない。荷車を半円形に並べ、その内側にテントを張る。外周には荊棘柵——棘のある灌木の枝を束ねた簡易の柵を設置する。
「見習い、柵を手伝え」
護衛のルウが声をかけてきた。コウキと同じくらいの背丈だが、肩幅が広く、手には使い込まれた槍がある。二十歳前後だろうか。
荊棘柵の設営は力仕事だった。棘だらけの枝を束ね、杭を打ち、ロープで固定する。手袋をしていても棘が刺さり、革の手袋に赤い点がにじんだ。
「痛ぇだろ。慣れるまでは仕方ない」
ルウは手際よく枝を束ねながら言った。
「この柵で、どのくらいの獣を防げるんですか」
「犬やネズミは完全に。中型の獣も、だいたいは。棘が嫌で近寄らない」
「大型は?」
「大型が来たら、柵じゃなくて人間が防ぐ。だから護衛がいる」
ルウは槍を地面に突き立てて笑った。
「まあ、大型が来ることは滅多にない。来たら逃げるのが正解だけどな」
焚き火の場所を決めるとき、コウキはふと足を止めた。
風だ。今は西から吹いている。だが——何となく、夜中に変わる気がした。北寄りになる。
根拠はない。ただ、肌の表面がかすかにざわついている。いつもの「あれ」だ。
「……テント、少し南に寄せたほうがいいかもしれません」
設営を仕切っていたセレナが振り向いた。
「なぜだ」
「夜中に風向きが変わりそうで。北風になると、今の位置だとテントに煙が直撃します」
セレナは空を見上げた。雲の動きは穏やかで、風の変化を示すものは何もない。
「……根拠は?」
「勘、です」
セレナは数秒間、コウキの顔を見つめた。それから、何も言わずにテントの位置を変えた。
* * *
夜が来た。
集落の夜とは、まるで違った。
「森の端」では、ヒカリゴケの緑色の光が家々を包んでいた。暗いなりに、どこに何があるかわかった。隣の家の気配も、犬の寝息も、すべてが手の届く範囲にあった。
ここには何もない。
焚き火の光が届く範囲だけが世界で、その外側は完全な闇だった。月明かりが草の穂先を銀色に照らしているが、それは距離を教えてくれない。闇がどこまで続いているのか、その向こうに何がいるのか。見えないことが、これほど怖いとは思わなかった。
遠くから、低い唸り声が聞こえた。
コウキの背筋が強張る。
「牙狼だ。群れで二、三頭。ただし、距離がある」
焚き火の向こう側で、アレクが静かに言った。火の番をしながら、闇を見つめている。その横顔に焦りはなかった。
「……わかるんですか、距離まで」
「声の反響でだいたいわかる。丘に当たって跳ね返っている。少なくとも集落を端から端まで歩いてなお余るほど先だ」
「来ませんか」
「来ない。焚き火が三つもある隊商に近づく牙狼はいない。連中は賢い。勝てない相手に喧嘩は売らない」
アレクは火に枝をくべた。乾いた木が爆ぜて、火の粉が闇に舞い上がった。
「怖いか」
「……少し」
「そうか」
アレクは、それ以上何も聞かなかった。
しばらくして、ぽつりと言った。
「夜には慣れない。二十年やっても、慣れない。ただ——向き合えるようになるだけだ」
「向き合う?」
「怖いと認めた上で、やるべきことをやる。それだけのことだ。怖くなくなるのとは違う」
火が揺れた。風が変わり始めていた。北寄りの、冷たい風。
テントの煙は、コウキが提案した位置のおかげで、寝ている隊員たちの方角には流れなかった。
アレクはそれに気づいていた。だが、何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ、口元が緩んだ。
* * *
深夜。
交代の時刻になっても、コウキは眠れなかった。セレナに「眠れるうちに眠れ」と言われたのに、体が興奮している。疲労はあるのに、神経が休まらない。
毛布にくるまったまま、耳を澄ます。
風の音。草が擦れる音。馬の呼吸。遠くで虫が鳴いている。その向こうに、さっきの牙狼の声はもう聞こえなかった。去ったのだろう。
目を閉じると、不思議な感覚があった。自分の体の輪郭が溶けて、周囲に広がっていくような。草原の匂い、土の温度、風に含まれた湿り気。それらが一度にからだの中に流れ込んでくる。
——気持ち悪い。
目を開けた。感覚が引っ込む。
いつものことだ。集落にいた頃から、夜に寝つけないときに、この感覚がやってくることがあった。周囲のものが「わかりすぎる」感覚。心地よくはない。どちらかといえば、怖い。
自分でもわからない何かが、自分の中にある。
隣のテントで、誰かが寝返りを打った。ルウだ。彼も、どこかの集落を出て隊商に入ったのだろう。眠れない夜もあったのだろう。
コウキは毛布を頭まで引き上げ、目を閉じた。
明日もまた、歩かなければならない。足の裏は、きっともっと痛くなる。
だが——不思議と、嫌ではなかった。
痛みにも、闇にも、遠吠えにも。すべてが初めてで、すべてが生々しくて。自分が「ここにいる」ということが、こんなにはっきり感じられたのは、初めてだった。
いつの間にか、眠りに落ちていた。
朝、目を覚ますと、テントの外にセレナが立っていた。
「風、変わったな」
それだけ言って、水筒を投げてよこした。
コウキは靴を履く前に、足の裏を見た。昨日の水ぶくれは潰れて皮が剥けていたはずだが——赤みはあるものの、もう新しい皮が薄く張り始めていた。
痛みはある。だが、昨日の夜ほどではない。セレナは「二日目はもっと痛くなる」と言っていた。体が慣れるのが早いのだろうか。
深く考えず、靴を履いた。今日もまた歩かなければならない。




