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01_旅立ちの朝

時系列の矛盾や統一感の無さが残ったままです。

そのうち直します。

日路にちろ」は距離の単位で、1日路いちにちろは「不整地を隊商が1日に移動するおおよその距離」で約10Kmです。

こく」は時間の単位で、1いっこくは約15分間です。

とき」は時間の単位で、1いっときは約2時間です。

世界観を優先するか、読者に分かりやすさを優先するか迷っていて、混在しちゃってます。

 ヒカリゴケの光が消えかけていた。


 遮光布の隙間から漏れる緑の燐光が、ゆっくりと薄れていく。まだ夜明け前だ。だが、コウキの目はもう開いていた。

 暗がりの中に浮かぶ天井の梁。見慣れた木目の模様。甲羅牛の殻で補強された壁の継ぎ目。この部屋の隅々まで、十四年かけて体に染み込んだ景色だ。

 今日で、この景色を見るのは最後になる。


 昨日の成人の儀式で、コウキは安全圏の境界まで歩いた。外の世界の空気は、集落の中とは違っていた。湿った土と、名も知らぬ花の甘さと、それから——何か、大きなものの気配。うまく言葉にはできない。ただ、肌が粟立つような感覚だけが、今も胸の奥に残っている。

 その感覚が、背中を押した。


 寝台から降りると、隣の部屋からかすかな物音がした。ミラ母さんはもう起きている。いつもそうだ。コウキが目を覚ます前に台所に立っている。

 足音を立てないように着替える。草絹の作務衣に袖を通し、腰帯を締めた。荷物はもう昨晩のうちにまとめてある。革の背嚢ひとつ。保存食と、水筒と、骨製のナイフ。これだけあれば十分だと、隊商の隊長は言っていた。


 台所へ出ると、ミラが竈の前に座っていた。小さな火が、彼女の横顔を赤く照らしている。

 「……起きたの。早いね」

 「母さんのほうが早い」

 「年寄りは朝が早いものよ」

 四十代でそれは早すぎる、と言いかけて、やめた。ミラの目の下に、薄い隈があった。昨晩、あまり眠れなかったのだろう。


 竈にかかった鍋からは、水泡芋のスープの匂いが立ち上っていた。いつもの朝食だ。いつもと変わらない。ただ、鍋の横に見慣れないものがあった。

 厚手の布に包まれた、こぶし大の包み。

 「干し肉と、苔味噌の固練り。日持ちするから」

 ミラはそう言いながら、もうひとつ、別の包みを差し出した。

 「これは——」

 開くと、腰帯だった。綿毛獣の毛を丁寧に紡いで織り上げた、深い藍色の帯。縁には細かい幾何学模様が刺繍されている。

 「冬は冷えるでしょう。腹に巻きなさい」

 何ヶ月もかけて織ったのだと、見ればわかった。コウキが旅に出ると決めたのは、つい二十日ほど前のことだ。その前から——ずっと前から、この日が来ることをわかっていたのだろうか。

 「……ありがとう」

 声が少しかすれた。



  * * *



 集落の朝は、静かに始まる。


 巨大なシダ植物の葉が朝露に濡れ、その向こうに甲殻住居の屋根が並んでいる。岩盤亀の殻を被せた独特の形。灰色と苔色のまだら模様が、朝靄の中にぼんやりと浮かんでいた。

 工匠区のほうから、骨を叩く規則正しい音が聞こえてくる。もうガモンの工房は動き出しているらしい。あの職人は誰よりも朝が早い。

 空を見上げると、朝靄の中にぼんやりと標塔が見えた。天を支える巨大な柱——遠くに三本、霞んで立っている。子供の頃から見慣れた、この世界で最も変わらないものだ。どんなに古い言い伝えにも、標塔は「最初からそこにあった」と記されている。

 ふと、コウキは足を止めた。柵の向こう、菜園の奥の茂みに何かの気配がある。

 ——大きさは犬くらい。たぶん、牙鼠だ。

 見えているわけではない。聞こえているわけでもない。ただ、そこに「いる」ということが、頭の中にすっと入ってくる。

 足元の小石を蹴ると、茂みが揺れて灰色の毛並みが一瞬だけ覗いた。やはり牙鼠だった。畑を荒らしに来たのだろう。音に驚いて走り去っていく。

 こういうことは、昔からよくあった。「あの木の裏に蛇がいる」「明日は霜が降りる」。当たるのだが、言うたびに相手の顔がわずかに強張るのを感じて——やがて、口にしなくなった。

 なぜわかるのかは、自分でもわからない。


 「おう、コウキ。今日だったな」


 すれ違った農夫のカイドが、鍬を肩に担いだまま声をかけてきた。

 「ええ。お世話になりました」

 「なに、たいしたことはしてない。——まあ、元気でやれ」

 ぶっきらぼうだが、悪い顔ではなかった。


 集落の長に挨拶に向かう。

 集落の中心に近づくにつれて、すれ違う人が増えた。みんな、何かしらの言葉をかけてくれる。「気をつけろよ」「たまには戻ってこい」「隊商の飯はまずいぞ」。

 好意には違いない。コウキはその一つひとつに頭を下げた。

 だが、どこかで感じてしまう。この人たちの輪の中に、自分はうまく収まっていなかった、と。

 嫌われていたわけではない。むしろ、気にかけてもらっていた。捨て子のコウキを、集落は拒まなかった。それは感謝している。

 ただ——何かが違った。自分にはわかるのに他の人にはわからないことがあった。嵐が来る前の空気の変化。森の奥から近づいてくるものの気配。そういうものを口にするたび、周囲の目がわずかに変わるのを、コウキは感じ取っていた。


 集落の北の端。柵の向こうに、深い緑の森が広がっている。

 その森の奥——歩いて半日ほどの場所に、「神代の船の遺跡」がある。幼い頃、長老から聞いた話だ。「世界が止まった日に、空から銀の船が落ちた」。近づくことは禁じられている。

 コウキはその方角をちらりと見た。標塔が一本、森の向こうに聳えている。滑らかな金属光沢の巨大な円柱。それは天に向かって真っ直ぐに伸び、遠くで霞んで見えなくなる。銀色の何かが木々の隙間に光って見えたような気がしたが、目を凝らすとただの朝日だった。

 ——気のせいだ。

 いつも、そうだ。



  * * *



 集落の入口。丸太を組んだ門の前に、ガロンが立っていた。


 大柄な体を朝日に晒して、腕を組んでいる。いつもの無口な父だ。隣にミラが寄り添い、目を赤くしている。

 「父さん」

 「ん」

 ガロンはそれだけ言って、コウキの肩に手を置いた。大きくて、ごつごつした手だ。畑を耕し続けた手。コウキを拾い上げて、育ててくれた手。

 「お前は——どこへ行っても大丈夫だ」

 低い声が、朝の空気に溶けていった。

 「根拠は?」

 「ない。勘だ」

 初めて、ガロンが笑った。皺だらけの顔に、不器用な笑顔が浮かんだ。


 コウキは頭を下げた。言いたいことは、たくさんあった。十四年分の感謝。うまく馴染めなかったことへの申し訳なさ。それでも見捨てずにいてくれたこと。

 だが、言葉は出てこなかった。代わりに、深く、長く、頭を下げた。

 ミラが小さく鼻をすすった。

 「——行ってきます」

 それだけが、やっと出た声だった。



  * * *



 集落の外れ。広い草地に、隊商の野営地が広がっていた。


 荷を積んだ木製の車が七台。繋がれた馬が三十頭。天幕の間を行き来する人影は二十人以上いる。集落の人口の一割にも満たないはずなのに、そこにはまるで別の世界があった。

 喧騒。活気。聞き慣れない訛りの言葉。香辛料と馬の匂いと、油の焦げた匂い。


 「お前がコウキか」


 振り返ると、男が立っていた。四十代だろうか。日焼けした肌。短く刈った髪。鋭い目つきだが、どこか穏やかさもある。

 隊長アレク。風渡りの商隊を束ねる男だ。

 「はい。今日からよろしくお願いします」

 「見習いからだ。基本は自分の事は自分がする。隊商のことは自分の事より優先だ」

 素っ気ない言い方だった。だが、その目がコウキをじっと見ていた。品定めするような——いや、何かを確かめるような目だった。

 「荷運びと水汲みができるか」

 「できます」

 「飯は自分の分は自分で確保しろ。足りなければ分けてやるが、甘えるな」

 「はい」

 アレクがふと視線を外し、野営地の端を見た。コウキもつられてそちらを見る。——荷車の陰に、野犬が一匹うずくまっている。他の隊員は誰も気づいていない。

 「あれ、昨日から居着いてる犬だ。食い物を漁りに来た」

 アレクがそう言った。そして、少し間を置いてから、コウキに目を戻した。

 「——見えたか?」

 「……はい。なんとなく」

 アレクは何も言わなかった。ただ、口の端がわずかに動いた。満足というよりは、確認のような表情だった。

 「セレナに挨拶しておけ。副隊長だ。あの荷車の傍にいる」


 アレクが顎で示した先に、短髪の女性が馬の脚を確認していた。隊商の女性は逞しい。集落の女たちとは、纏う空気が違う。

 コウキは背嚢を背負い直した。ここに、自分の居場所があるかどうかはわからない。だが、少なくとも——ここは「動いている」場所だ。止まっていない場所だ。

 それが、今のコウキには必要だった。



  * * *



 陽が高くなり、隊商が動き出した。


 馬が嘶き、車輪が軋み、隊員たちの掛け声が草原に響く。コウキは荷車の横を歩いた。歩幅を隊商のペースに合わせるのに、少し手間取った。


 振り返ると、「森の端」の集落が小さくなっていた。甲殻住居の屋根。巨大シダの影。門の前に、まだ二つの人影が見える気がした。

 ——泣くな。

 コウキは前を向いた。


 草原が広がっていた。見渡す限りの緑と、遠くに霞む丘陵。空は高く、果てが見えない。地平の向こうに、標塔が何本も見えた。五本、いや六本。天を支える巨大な柱が、世界の端まで並んでいる。隊商の者たちは、あれを目印に道を辿るのだという話を聞いたことがあった。

 風が吹いた。草を揺らし、コウキの髪を乱し、どこか遠くへと流れていく。

 その風の向こうに——何かがある。


 根拠はない。ただ、そう感じた。胸の奥がざわつくような、何かが待っているような、言葉にならない予感。

 いつもの「勘」だ。だが今日のそれは、いつもより強かった。


 コウキは歩いた。隊商の列に混じって、知らない土地へ向かって、歩き出した。

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