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 梯子を降りた。

 一段、また一段。壁面の筋状の模様が手の届く位置にある。エネルギーの導管の痕跡——コウキには今、それが遠くから細く脈打っているのが分かる。北東の標塔の根が伸びて、この縦空間を貫いている。地上から何十メートル降りてきたのか、数える気になれない。ただ、底が近いのは感じていた。

 十段ほど上でルウが止まっていた。ダグはその二段上。二人とも声を出さなかった。コウキが降りていくのを、ただ待っている。

 梯子の最後の段に足をつけた。

 白い光の中心に、楕円形の結晶体がある。人の胸ほどの大きさ。前回と変わらない——でも今回は、コウキの中で何かが少し違う。問いを持ってきたのではない。今回は、やりに来た。

 結晶体の前に立った。

 息を一度、深く吸った。



  * * *



 両手を置いた。

 光が来た。

 世界の全体像——標塔の配置、水脈の流れ、MTMの分布、球殻の歪み。今回は速く流れた。既知のものとして処理している。コウキの観測網がもう覚えている。

 そして——エンジンとの「応答」が始まった。

 前回は一方的だった。情報が流れ込んできた。今回は違う。コウキが手を置き続けていると、エンジンの側から——応じようとする動きが来た。眠っているのではなく、感じている。待っていた、というような。

 量が流れ始めた。

 川の流れのように、というよりも——もっと細い。糸のように。コウキの観測網から、北東の標塔を通じて、エンジンへ向かって。少しずつ、少しずつ積み上がっていく。

 コウキは離れてはいけないと分かった。

 ただ繋がり続ける。それが今できることのすべてだった。



  * * *



 どのくらいの時間が経ったか、分からなかった。

 梯子の上でルウがかすかに動いた気配がした。足の位置を変えたのかもしれない。ダグも同じように。二人とも声を出さない。音を立てない。ただ待っている。

 コウキの意識の中では、時間が奇妙に感じられた。

 流れ続ける情報——球殻の全体像が、意識の端に常に在る。標塔千六百九十二本が点として。水脈の青い流れが網として。拡散MTMの薄茶色の霧が分布として。そして球殻の歪み——南東方向に向かって、岩盤がじわじわと動いている。変形は今も続いている。

 でも今ここでやっている。

 コウキは離れなかった。

 しばらくして、白い光の変化に気づいた。

 結晶体の輝きが——少し変わった。均一な白から、わずかに脈打つような。規則的な、でも静かな呼吸のような動きが加わっていた。光は強くなっていない。ただ、動いている。

 量が積み上がっている。コウキは感じた。確信ではなく——感触として。

 疲れ始めた。

 腕ではなく、意識の方が。観測網を開き続けることは、体力を使う。コウキには分かっていた。でも閉じてはいけない。閉じた瞬間に糸が切れる。

 離れない。

 それだけを考えた。



  * * *



 ある瞬間、変化が来た。

 突然ではなかった。ゆっくりと——でも確かに、エンジンの側の何かが「動こうとしている」感触が強まった。量が閾値を超えた、という感じではなく——エンジン自身が目を覚まし始めた、という感触に近かった。

 コウキは手を離しかけて、止まった。

 まだだ。まだ安定していない。

 エンジン側から初めての「応答」が来た。前回は一方向だった。今回は違う——コウキの観測網に、エンジンの側から何かが送られてきた。言葉ではない。形でもない。「認識した」というような、あるいは「受け取った」というような、観測網を通じた確かな手応え。

 コウキは全力で観測網を開いた。

 もう少し。もう少し繋がっていれば——。

 重い感触が来た。音ではない。振動でもない——観測網を通じた、深い響き。エンジンの内部で何かが動き始めた感覚。長い眠りから、ゆっくりと目を覚ます。二千年間止まっていたものが、今、最初の一回転を始めた。

 コウキの意識に、球殻の全体像が一瞬強く像を結んだ。

 標塔の全てが——点として光った。

 一瞬だけ。そしてまた静かになった。でも、それは「あった」。確かに「あった」。

 もう少し——もう少しだけ。



  * * *



 エンジンが「乗った」と分かった瞬間は、静かだった。

 派手な変化ではなかった。ただ——白い光が、安定した脈動に変わった。規則正しく、落ち着いた呼吸のように。コウキの観測網に「軌道に乗った」という確信が来た。確信、というよりも——エンジン側からの「もう大丈夫」という応答だった。

 コウキは手を離した。

 光が引かなかった。

 白い脈動は続いている。エンジンが自力で動き始めた。コウキが繋いでいなくても、もう動き続ける。

 コウキはその場に座り込んだ。

 大きく息を吸った。空気が冷えていて、乾いていた。肺の奥まで入ってくる。観測網が——少し遠くなった。エンジンとの接続は切れていない。ただ、コウキが全力で開いていた観測網が、自然に少し閉じた。体が限界を超えていたのだと、今になって分かった。

「大丈夫か」

 ルウの声が上から来た。

「はい」

 コウキは答えた。声が出た。「動きました」

 梯子の上で、しばらくの沈黙があった。

 それからルウが短く「よし」と言った。それだけだった。でもそれで十分だった。



  * * *



 梯子を登った。

 足が重かった。一段ずつ、確認しながら。ルウとダグが先に登って、上から手を差し伸べた。コウキはその手を掴んで、縦空間を登り切った。

 通路を歩いて、円形の空間へ戻った。根の柱がある。壁面の記録板がある。測量隊の石と古代の金属が混ざった空間。コウキは柱に手を触れた——エンジンが動いている感触が、遠くから伝わってくる。球殻の全体像の端に、白い脈動が在る。

 蓋の梯子を登って、地上に出た。

 朝の光が草原に広がっていた。

 全員がいた。アレク、セレナ、トメ、ナクロ——蓋の周りに立って待っていた。コウキが出てくると、誰も声を出さなかった。コウキの顔を見た。

「動きました」

 コウキは言った。

 場の空気が変わった。

 静かな変化だった。誰かが声を上げたわけでも、手を取り合ったわけでもない。ただ——場の中の何かが、少し軽くなった。

 アレクが空を見上げた。

 天を支える柱が、北東の方角に一本。金属の側面が朝の光を受けて白く輝いている。変わらない。二千年間変わらない。でも今——その根の奥で、何かが動き始めた。

 トメが帳面を開いた。いつものように。ペンを走らせる音が草原の静けさの中で聞こえた。

「記録に残せますね」ナクロが言った。

「はい」コウキは答えた。「見えたことは全部、伝えます」

 ルウがコウキの隣に来て、草の上に座った。コウキも同じように座った。二人でしばらく、草原を見ていた。



  * * *



 昼過ぎ、コウキは何かが変わったのに気づいた。

 言葉にするのが難しかった。観測網の感触——エンジンが遠くで動いているのが感じられる。球殻の端の方から、細くだが確かに。標塔を通じて何かが流れ始めている気配。

 それだけではなく——球殻の歪みが。

 変形の「進み方」が、変わったような気がした。確信ではない。気がした、というだけ。でも——今朝まで感じていた「じわじわと続いている」感触が、少し落ち着いた気がした。

 コウキはアレクに声をかけた。

「何かが変わり始めています。確かなことは分からないけど——球殻の変形の進み方が、少し落ち着いたような気がします」

 アレクは少し考えた。「確かなことが分かるまでに時間はかかりそうか」

「タケルさんの観測装置が、時間をかけて確認してくれると思います。すぐには分からない」

「分かった」アレクは言った。「急がない。観測装置が確かめてくれるなら、俺たちは帰れる」

 セレナが「帰路の計画を立てますか」と言った。アレクが頷いた。

 トメが帳面を広げ、ダグが地形の記憶を整理し始めた。隊商が動き始める。帰路へ。

 コウキは夕暮れが近づくにつれ、北東の標塔を何度も見た。

 変わらない。天を支える柱。二千年間、傷一つない。晴天の空に、白い側面が光っている。今日は高いところから、西の方角にも一本、南の方角にも一本、かすかに見えていた。千六百九十二本。世界の柱。

 タケルがこの場所を目指し続けた。三十年間。観測し続けた。最後に石板を残した。コウキはその石板を受け取って、ここまで来た。

 タケルさん——コウキは声に出さずに思った。動きました。

 返事は来なかった。でも——観測網の端に、白い脈動が在る。エンジンが動いている。それは確かだ。

「終わった、か」ルウが隣で言った。

「終わった、というより——」コウキは少し考えた。「始まった、という感じがします」

「どっちも正しいな」

「はい」

 空が橙色から暗い青へと変わっていく。

 スカイドームの星が出始めた。きれいに見える。でも明るくはない——いつもの星。でも今夜は少し違う感触で見えた。球殻の天井の向こうに、大気層がある。その外側に、エンジンが送り出し始めた何かが流れている。

 世界は急には変わらない。

 明日も草を踏んで歩く。水場を探す。狩りの獲物を見つける。標塔を目印に方角を確かめる。そういう旅が続く。


 そして—— 世界は緩やかに回復していくだろう。

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