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50_こたえ

 朝の光の中を、隊商は歩き始めた。

 北東の標塔根元の蓋を背にして、西へ。草原の露が靴底を濡らす。コウキは歩きながら、観測網の端に意識を向けた。

 エンジンの脈動が、遠くから感じられた。

 昨日より遠い——距離が開いたからではなく、コウキ自身の疲弊がわずかに回復して、感知の「閾値」が上がったのかもしれない。それでも、確かに在る。安定した白い脈動。自力で動き続けている。

「タケルの場所に寄るんだろ」

 ルウが隣を歩きながら言った。確認ではなく、決定として。

 アレクが前を歩いたまま頷いた。言葉はなかった。それで十分だった。

 昼を過ぎると空が薄く曇ってきた。雨にはならない、通り過ぎる雲だ——ダグが先行偵察から戻ってそう言った。遠くの標塔がかすんだ。それでも輪郭は消えない。白い側面が、鈍い光を帯びて草原の向こうに見えている。

 標塔はそこに在る。二千年間、傷一つない。今日も、明日も、在り続ける。

 午後の日差しが戻ってきた頃、ダグが山鳥を一羽仕留めた。尾の長い、緑がかった羽の鳥だ。ルウが「今夜の分は安泰だな」と言い、ダグが短く笑った。コウキは鳥を受け取って背嚢に入れた。隊商の旅はこういうものだ——大きな出来事の翌日も、食料を確保して歩く。それが変わらない日常で、変わらない日常こそが旅を支えている。



  * * *



 西の森に入ったのは夕方前だった。

 前に来た時と同じ道——ダグが先を行き、コウキが「あの感触、覚えてます」と言うと、ルウが「俺はこっちの茂みで迷ったな」と笑った。三人でタケルの拠点を訪れた夜のことを、コウキは思い出した。タケルが灯した小さな火。ぬるい粥。石板を手に取った手の感触。

 あの夜、タケルはもう自分の体が長くないことを分かっていたはずだ。それでも石板を渡して、「行ってくれますか」と問いかけた。コウキが「行きます」と答えた夜。

 森が開けた。

 小屋が立っていた。静かに。

 畑は荒れていなかった。タケルが丁寧に作った畝がそのまま残っている。雑草が少し伸びているが、冬に向かう今の季節では自然なことだ。観測装置の光が、小屋の窓から点滅して見えた。

 青。白。青。白。

 規則正しく。誰もいなくても、点滅し続けている。

 コウキは足を止めた。

 アレクが「休んでいい」と静かに言った。全員が小屋のそばに荷を下ろし、野営の準備を始めた。コウキだけが観測装置の前に立った。

 装置の筐体は、前に見た時と変わらない。角が丸くなった金属。表面にこまかい傷が無数にある——三十年間、毎日触れられてきた傷だ。タケルの手の形が、見えない跡として残っているような気がした。



  * * *



「前回来た時の記録と比べます」

 ナクロが帳面を開いて隣に来た。コウキが頷く。

 観測装置の表示盤には、記号と数字が並んでいる。コウキには読めない——読めないが、手を当てると流れてくるものがある。

 両手を盤面に置いた。

 流れが来た。

 タケルの観測記録だ。三十年分の積み重ね——いつもはその全部が押し寄せてくる感触だったが、今回はコウキの側が「最近の変化だけを見る」という意図を持って触れた。最初に触れた時より、観測網が「慣れている」おかげか、大量の記録の中から「今」が際立って感じられた。

 エンジン起動から、まだ一日と少し。

 それだけの時間では、世界は大きく変わらない。コウキは自分に言い聞かせた。

 でも——数値の「動き方」が変わった。

 昨日まで、変形を示す数値はじわじわと一方向に動き続けていた。タケルが三十年記録し続けた傾向。上昇し続ける数値。それが——止まっていた。上がらなくなっていた。

 止まっただけだ。逆転ではない。「止まった」だけ。

 でもコウキには、それが十分に感じられた。エンジンが動き始めた影響が、一日でこの装置に届いている。タケルが三十年かけて見続けた変化の波が、今、静止している。

「ナクロさん」コウキは手を離して言った。「数値が変わっていますか」

 ナクロが帳面と表示盤を見比べて、少し間を置いた。「……変わっています。前回来た時より、この列が——」と指で示す。「動きが止まっています」

「はい」コウキは言った。「止まりました」

 ナクロが帳面に何かを書き込んだ。コウキはナクロの手元を見なかった。ただ、観測装置の点滅を見ていた。青と白が繰り返す。三十年間、この光はここで点滅し続けてきた。これからも、点滅し続ける。



  * * *



 野営地に戻ってアレクに報告した。

「止まりました」コウキは言った。「逆転はまだです。でも止まりました」

 アレクが火の前に座ったまま、コウキを見た。しばらく沈黙があった。

「それで十分だ」アレクは言った。

 トメが帳面を膝に置いてペンを走らせた。「記録日:起動翌日。観測装置の変形進行数値、停止を確認」と声に出して読んだ。それからページを繰り、「この旅の経緯をまとめていますよ」とつぶやいた。

「タケルはこれを見たかったんだろうな」

 ルウが火の反対側に座って言った。誰かへの問いではなかった。ただそう思ったから声に出しただけ、という言い方だった。

「逆転まで何年かかる」セレナが言った。実務的な問いだった。

「分かりません」コウキは答えた。「観測装置が見続けます。タケルさんが積み上げたデータがあるから、変化が出れば分かります」

「タケルさんの観測が、意味を持った」ナクロが帳面から顔を上げて言った。「記録しておきます」そしてまた帳面に向かった。

 ダグが薪を足した。火が少し高くなった。山鳥の肉が焼ける香りが、夜の森に広がっていく。

 誰も大きな声を出さなかった。誰も立ち上がって喜ばなかった。ただ——静かに、それぞれのやり方で、今起きたことを受け取っていた。コウキにはそれが、何より良かった。派手な祝いより、こういう静けさの方が、今夜には合っている気がした。



  * * *



 夕食の後、コウキは一人でタケルの小屋の前に座った。

 観測装置の光が点滅している。青と白が繰り返す。タケルがここで三十年間見続けた光だ。冬の夜も夏の夜も、一人でここに座って、この点滅を見ながら数値を書き記した。どんな気持ちで見ていたのだろう。一人で長い時間を過ごしながら、それでも記録を続けた人。

 石板のことを考えた。

 タケルが、死ぬ前にコウキに渡した石板。銀の船の位置と、中枢への道筋が刻まれた記録。「行ってくれますか」という問いかけ。コウキが「行きます」と答えた夜。

 あれからずいぶん遠くまで来た。

「見えたことは全部、伝えます」

 声に出して言った。誰もいない場所で。アレクに言ったその言葉を、タケルに向けて言いたかった。伝える相手はもういない。でも、言いたかった。

 返事はなかった。

 でも——観測装置の光が、規則正しく点滅している。タケルが積み上げたデータが、今もここで動き続けている。それが、答えのように感じられた。

 観測網の端に、白い脈動が遠くから在る。エンジンが動いている。

 タケルさん——コウキは声に出さずに思った。止まりました。あなたが見続けたものが、止まりました。まだ逆転じゃない。でも、止まった。



  * * *



 翌朝、明るくなってから出発の準備をしていると、アレクがコウキのそばに来て言った。

「この場所、掲示板に残すか」

「……どういう意味ですか」

「三叉路の掲示板に、この拠点の場所を記録しておく。ルインの地図に載せる候補として。旧街道から来た時、立ち寄れる目印になるかもしれない」

 コウキは少し考えた。

「タケルさんが三十年いた場所です」コウキは言った。「消えないようにしたい。記録に残してください」

 アレクが頷いた。トメが帳面に書き記した。

 西の空に——森の稜線のすぐ上——標塔が一本、朝の光を受けて白く輝いていた。ここからは細く見える。でも確かにある。天を支える柱。二千年間、変わらない。

 コウキは観測装置を最後に一度見た。青と白の点滅。変わらない。三十年間変わらなかったこの光が、これからもここで点滅し続ける。誰も来なくても、続ける。それがこの装置の仕事だ。

「行こう」アレクが言った。

 隊商が動き始めた。



  * * *



 旧街道を目指して歩く。

 足慣れた道だった——というわけではない。草原の踏み跡を辿り、標塔を目印に方角を確かめながら歩く。でもコウキには、「帰る」という感触があった。行きの時とは違う、体の中の落ち着きがある。

 歩きながら、観測網で世界を感じた。

 エンジンが動いている。遠い。でも感じられる。標塔を通じて何かが流れている——水脈が……どうだろう。まだ短すぎる。変化を「感じた気がする」は、コウキが今一番慎重になっている感触だ。気がするだけでは、まだ報告できない。

「これからどうする」

 ルウが並んで歩きながら言った。

「帰って、ミラさんとガロンさんに会います」コウキは答えた。「それから……また出ます」

「また出るって、どこへ」

「まだ分かりません。でも、観測装置のデータを見続けることと、各地の変化を確かめることは、しばらく続けないといけない。世界が急に変わることはないから、少しずつ確かめていく」

「それは何年かかる仕事だ」

「分かりません。でも隊商と一緒なら、動けます」

 ルウが鼻で笑った。「お世辞か」

「本当のことです」

「じゃあまた俺を連れていけよ」

「はい」コウキは言った。迷わず。

 ルウが「よし」と言った。それだけだった。

 遠くの草原の向こうに、標塔が一本見えてくる。晴れた空に、白い側面が輝いている。その向こうにも、もう一本、かすかに。高いところから見渡せば、二十本以上が視野に入るだろう。千六百九十二本。世界の柱。今その根の奥で、エンジンが動いている。



  * * *



 旧街道に出たのは昼を過ぎた頃だった。

 踏み固められた路面。荷車の轍の跡が、前と比べて深くなっている。複数の隊商が行き来した跡だ。道が、生きている。

 中継所跡に寄った。

 掲示板には、新しい書き込みが増えていた。コウキが最後に見た時より、ずっと多い。「南の標塔付近で清水の湧き出しを確認」「三叉路から西、二日行程のところ、路面補修済み」「銀崖の鍛冶師が出稼ぎ中。三叉路の宿に問い合わせを」——見知らぬ人々が、見知らぬ人々に向けて書き残した文字が積み重なっている。

 トメが帳面を開いて書き写している。「全部記録しておきます。ルインさんに渡せば地図が更新できます」と言った。

 コウキは掲示板の前に少し立っていた。

 このネットワークはタケルが知らないところで育っていた。三十年間、タケルが孤独に観測を続けていた間に、道が途絶え、また復活し、今また人々が繋がり直している。タケルの記録がなければコウキは動けなかった。コウキが動かなければエンジンは起きなかった。でも——掲示板に書き込んだ名も知らない人々がいなければ、旧街道は復活しなかった。

 誰かが誰かのために動いていた。それが積み重なって、今ここにある。

「そろそろ行くぞ」アレクが声をかけた。

「はい」コウキは答えて、掲示板から離れた。



  * * *



 夕方、草原の東の端に「森の端」の森が見え始めた。

 遠い。まだ一日か二日はかかる。でも——見える。コウキが生まれ育った場所が、視野の中に入ってきた。

 観測網を広げた。

 森の端の方向に、人の気配があった。はっきりとした輪郭ではない。ただ、遠くに、ひとのいる場所がある——という感触だ。ミラかガロンかは分からない。ただ、「そこにいる」ことが伝わってくる。

 コウキはその感触を、そっと手放した。

 確かめるのは着いてからでいい。今はただ、歩く。一歩ずつ、草を踏んで、標塔を目印にして、帰る。

「見えてるか?」ルウが聞いた。

「はい」コウキは答えた。「森が、見えています」

 ルウが「そうか」と言って、また黙って歩き始めた。それ以上の言葉は要らなかった。



  * * *



 野営を張った夜、コウキは焚き火の傍らで空を見上げた。

 星が出ていた。

 球殻の天井に映し出された光——今はそれが何かを知っている。でも、美しいのは変わらない。白い点が無数に散らばって、静かに輝いている。ヤヒロの空はこの夜も変わらない。

 世界はまだ変わっていない。

 銀崖の採掘は上部が止まったまま。三つ岩の集落は旧街道でようやく外と繋がれた。水脈が移動して、獣の行動が変わり、人々が対応しながら生きている。変形は止まったが、まだ逆転ではない。どのくらいかかるのか、誰にも分からない。

 でも——何かが、変わり始めた。

 タケルの観測装置の数値が止まった。エンジンが動いている。旧街道の掲示板に新しい書き込みが増えた。それだけのことだ。でも、その「だけのこと」が積み重なっていく。

 コウキは石板を背嚢の中に感じた。タケルから受け取った石板。役目は果たした。でもコウキはまだこれを持っていくつもりだった。これは記録だから。記録は持ち続けるものだと思った。

 隊商は静かに眠っていた。

 明日、森の端が近づく。

 観測網の端に、エンジンの脈動が遠くから在る。標塔が銀色の点として夜の感触に散らばっている。水脈が青い流れとして大地の下を走っている。コウキの意識の端に世界が在る。それは今日始まったことではなく、ずっとそこにあったものだ。コウキがやっと聞こえるようになっただけで、世界は最初からこの声を出し続けていた。

 火が小さくなっていく。

 コウキは横になって、目を閉じた。

 明日も草を踏んで歩く。水場を探す。標塔を目印に方角を確かめる。帰りついたら、ミラに会う。ガロンに会う。どんな顔をされるかは分からない。でも、会いたかった。

 目を閉じると、やがて意識が遠くなった。

 夢は見なかった。草の匂いがした。遠くで、ラプラスエンジンが静かに世界を計算し続けていた。

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