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46_三番目の声

 東の空の裾が、ほんのわずかに白み始めていた。

 まだ星が出ている。焚き火の灰は冷えている。コウキは革袋を肩にかけ、蓋の前に立った。鍵器具の十二本が中で触れ合う、かすかな音。意識の端に青白い輝き。昨日と同じ場所に、昨日と同じように在る。

 ルウが隣に立った。続いてアレクが来た。三人で蓋を囲んだ。昨日と同じ編成。コウキが鍵器具を順番に差し込んでいくと、記号が光を点し、石の蓋が音もなく浮いた。

「降りる」

 コウキが梯子に足をかけた。



  * * *



 通路の感触が昨日より馴染んでいた。壁の冷たさ、石の継ぎ目の間隔、空気の変わり目。初めての場所ではない。体が覚えていた。

 縦空間の入口に立ったとき、コウキは一度息を整えた。

 下から白い光が来ていた。昨日より落ち着いて見える。あるいは自分が落ち着いているからそう見えるのか。どちらでも構わなかった。コウキは梯子を降り始めた。

 一段ずつ。足の裏が金属を踏む感触。光が近づくにつれ、意識の端の青白い輝きが、少しずつ濃くなっていく。呼応するように。「来た」という確認のみ。急かしてはいない。

 底に着いた。

 結晶体が台の上にある。昨日見たままだ。人の胸ほどの大きさで、楕円形の白。光は自分の中から来ていて、外に触れずとも伝わってくる。

 コウキは正面に立ち、壁の文字を一度見回した。何千字もの古い文字。昨日は圧倒された。今日は——圧倒されながらも、その量が「伝えたかった」という意思の重さだと分かる。誰かがここに来ることを想定して、残した。コウキはその誰かになった。

 両手を結晶体に触れさせた。



  * * *



 世界が広がった。

 昨日よりも落ち着いて受け取れた。球殻の全体像——標塔が千六百九十二本、均等に並んでいる感触。水脈の青い流れ。拡散MTMの薄茶色が南東に濃く溜まっている。球殻が南東にわずかに変形している重さ。それから、ラプラスエンジン——ここに、眠っている。

 コウキは昨日こぼれた部分へと向かった。三番目の条件。情報の層の奥に、それがある。手探りではなく、方向が分かっている。

 来た。

 昨日より鮮明に。

――起動後の接続維持。

 エンジンが始動するとき、それは単に電力が入れば動くわけではない。起動の過程で、観測網を通じた接続が継続して必要になる。接続が途切れると、起動の過程が中断される。安定稼働に入るまで——それがいつかは分からないが——観測者が繋がり続けていなければならない。

 コウキは受け取った。こぼれなかった。

 その瞬間、白い光が一段変わった。明るくなったわけではない。——密度が増した、という感触。バラバラに来ていた情報が、何か一つの形に収まりかけているような。起動の条件が、三つ揃ったことへの、応答。

 コウキはゆっくりと手を離した。



  * * *



 梯子を登り切ったとき、昨日より足が軽かった。

 地上に出ると、空がずいぶん明るくなっていた。太陽はまだ地平の下だが、東の一帯が橙と白の間で揺れている。北東の標塔がその光を受けて、金属の側面を淡く輝かせていた。滑らかな表面に夜明けの光が流れている。二千年前のまま、傷一つない。

 コウキは蓋を閉めた。十二本の鍵器具を引き抜くと、石の蓋が自重で元の位置へ戻った。記号の光が消える。草に覆われた石に戻る。

「分かったか」とアレクが言った。

「分かりました」

 三人で野営地へ歩いた。他の全員がすでに起きていて、朝食の準備が始まっていた。セレナが湯を沸かし、トメが保存食の袋を出している。ダグが遠くを確認するように立っていた。



  * * *



 朝食が終わったあと、コウキは全員の前で話した。

「三番目の条件が分かりました」

 昨日と同じ並びで全員が聞いている。ナクロが帳面を開いた。

「三番目は——起動後に接続を維持し続けることです」

「続ける、というのは」とアレクが言った。

「エンジンが起動する過程で、私が観測網を通じて繋がり続ける必要があります。繋がっている間だけ、起動の過程が進む。離れると——途中で止まる」

 少し間があった。

「どのくらいかかる」

「エンジン側が安定したと判断した時点で終わります。それがいつかは——まだ分かりません。数時間かもしれないし、もっとかかるかもしれない」

「その間、動けないか」

「動けない、というよりは——集中が切れないようにする必要があります。眠ったり、気を失ったりすれば途切れる。その場合は、また最初からやり直しになると思います」

 ルウが「倒れたら」と言った。

「倒れないようにします」コウキは答えた。「昨日と今日で、どのくらいの消耗になるかが少し分かりました。今日の方が楽だった。慣れれば——もう少し保てると思います」

 アレクが頷いた。「三つ揃った、ということだな」

「はい。条件は三つです。①標塔を通じたエネルギー注入、②観測網を通じた認証、③起動過程の接続維持——三番目が今朝、分かりました」



  * * *



 そこでナクロが帳面から顔を上げた。

「一番目の条件が気になっています。エネルギーの注入——どこから送るのですか」

 コウキは少し間を置いた。「そこが、まだ分かっていない部分です。標塔を経由して結晶体に送り込む。ただ——電力をどこから集めるのかが、受け取れませんでした」

「タケルさんの観測装置が電力を使っていましたね」ナクロが続けた。「あれは三十年以上、ずっと動いていた。その電力がどこから来ていたか——確認したことがありましたか」

 コウキは思い返した。タケルの拠点。小屋と観測装置と、小さな畑。観測装置は今もタケルがいなくなった後も動き続けている——コウキが最後に確認したときも、稼働していた。

「確認していません」

「私も帰路に寄ったとき、装置が動いているのは確認しました。でも電力源については見ていない」ナクロが帳面に何かを書き加えた。「太陽光か、地熱か、あるいは——標塔からの供給か」

 そこでアレクが「コウキ、今、感知できるか」と言った。

 コウキは意識を向けた。北東の標塔を通じて、広げる。観測網の感触を伸ばした。

 この標塔から——西の方向に、かすかな流れがある。電力という概念が観測網で何として見えるか分からなかったが、「何かが流れている」という感触はあった。細い経路。標塔から出て、遠くへ向かっている。

「……西に向かう流れが感じられます」コウキは言った。「確かかどうかは分かりません。でも——この標塔から何かが出ていて、遠くへ繋がっている感触が」

「タケルの拠点は西です」ナクロが言った。

 しばらく誰も喋らなかった。

 アレクが「確認に行く必要があるな」と言った。静かな声だった。「タケルの拠点に寄って、観測装置の電力源を確かめる。それが標塔から来ているなら——エンジンの起動に使えるかどうかも分かる」

「三〜四日かかります」とトメが言った。「拠点までの道のり、帰路の長さを考えると、往復で七〜八日」

「急ぎすぎることはない」アレクが言った。「ここまで正確に来た。次の一手を確かめてから動く」



  * * *



 午後、野営地の草の上でコウキはしばらく目を閉じていた。消耗が完全に回復したわけではないが、昨日よりは早い。体が慣れてきている——それは確かだった。

 ナクロが隣に来て、帳面を広げた。「少しいいですか」

「どうぞ」

「今日の接触で——三番目の条件が来た瞬間、何か変わりましたか。光とか、感触とか」

 コウキは少し考えた。「密度が変わりました。明るくなったわけじゃない。でも——ばらばらだったものが一つに収まるような感触がありました。条件が揃ったことを、エンジン側が受け取った、という感じに近い」

「応答、というわけですね」

「そうかもしれません」

 ナクロが丁寧に書き取った。それから顔を上げて言った。「タケルさんが三十年間記録していた理由が、少し分かる気がします。こういう感触を、後に来る人に渡したかった。でも観測網がなければ、言葉では伝えられない」

 コウキは頷いた。「渡せても薄まりますね。でも——今こうして言葉にしているのも、ナクロさんが書いているから続けられている。言葉じゃないと届かない部分もある」

「お互いに補っている」

「そう思います」

 ナクロが帳面に何かを書き加えた。小さな文字で。コウキは今日も覗かなかった。



  * * *



 夕方、ルウとコウキは野営地の端に出た。標塔が夕日を受けている。橙色の光が金属の表面を流れていく。遠くに二本、薄い大気の中でその輪郭が霞んでいる。天を支える柱——そう呼ばれてきた。コウキには今、それが何であるかを知っている。でも夕日の中で光る姿は、知る前と同じように大きかった。

「タケルの拠点まで、行くんだな」

「はい」

「また長い旅か」ルウが草を一本手に取った。「まあ——こっちに来てから、ずっとそうだけど」

「帰れるかは分かりませんが」

「帰る」ルウが言った。断言するように。「俺が先に帰ってルウと呼ばれる頃には、もうお前も帰ってきてる」

 コウキは少し笑った。ルウの言い方はいつもこうだ。根拠はないが、嘘もない。

「タケルの拠点で何かが分かれば——エンジンを起こせる見通しが立ちます。それが立てば、あとは実行するだけ」

「実行する、か」ルウが草を手放した。「大きい言葉だな」

「そうですね」コウキは答えた。「でも——小さな手順の積み重ねです。次の一歩は、タケルの拠点まで歩くことだけ」

 空が暮れていった。標塔の輪郭が橙から灰色へと変わる。灰色から黒へ。でも消えない。夜になっても、意識の端にかすかな気配が続いている。地下の白い輝きへと続く経路が、細く静かに、そこにある。

 行先が増えた。でも——確かな行先だ。



  * * *



 夜、アレクがコウキに言った。

「明朝、タケルの拠点へ向かう。三日か四日で着く。電力源を確認して、起動の見通しが立てば——そこから先を決める」

「はい」

「急がない。ただ——間違えない。お前が整理したことを整理するのは俺の仕事だ。だからお前は感じたことを全部出せ」

 コウキは頷いた。一度だけ。

 焚き火の炎が風に揺れる。遠くで標塔の輪郭が月明かりに白く浮かんでいる。空には星が出ていた。球殻の天井に映し出された光——今はそれが何であるかを知っている。でも美しいのは変わらない。白い点が無数に散らばって、静かに輝いている。

 三つ揃った。次は、その三つを成立させる道を整える番だ。

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