28_地図屋の記憶
三叉路の町が見えてきたのは昼過ぎのことだった。
旧街道を東へ、それから大路へ折れ、草原を横切って約十日。荷馬車の荷台は道中の集落での交易でずいぶん軽くなっている。コウキは歩きながら意識の端を向けた。
南西に一本。北東に遠く一本。標塔の位置が青白い点として意識に宿る。距離があってもわかるようになってきた。前は近づかなければ感じなかったのに、今は地平線の向こうにあるものまで感じ取れる。
「またぼーっとしてる」
ルウが横から言った。
「してない。考えてただけだ」
「その顔は考えてる顔じゃない。感じてる顔だ」
コウキは苦笑いした。ルウは昔からそういう指摘が早い。
「標塔が二本、わかる。南西と北東」
「あそこは一本見えるな」ルウが目を細めて南西の方角を見た。「でかいな。いつ見ても」
「この前、根元まで行ったのとは別の標塔だ」
「同じつくりなんだろうな。根元にも入口がある。ただ、おそらく大地がもともとの高さよりも堆積したのか、地面よりもちょっと下だ。埋まってる」
「たぶん。どの標塔も同じはずだ」
コウキは歩きながら、その可能性を確認するように意識を伸ばした。遠い点に、かすかな応答。待っている感覚。開錠を待っている感覚。
アレクが馬の手綱を引いて隊の速度を落とした。
「まず交易を終わらせる。ルインは夕方に訪ねよう」
「わかった」
「焦るな。一日、二日でどうにかなる問題じゃない」
コウキはアレクの言葉を受け取った。焦っているのはわかっている。タケルの「次に来るときにはもうここにいないかもしれない」という言葉が、出発からずっと頭にある。一ヶ月か二ヶ月と言っていた。石板を解読して、鍵器具の場所を探して、取りに行って、また標塔へ戻る。間に合うかどうか——考えても答えは出ない。
「わかってる」コウキは言った。「でも急ぎたい」
「わかってる」アレクも言った。「だから今日のうちに交易を片付ける」
* * *
三叉路の町の市場は半年前と変わらず賑やかだった。
三つの交易路が交わるこの町は、いつも人が多い。声が飛び交い、荷物が積まれ、荷馬車が行き来する。コウキはルウと二人で市場を歩きながら、一年前に初めてここを歩いたときのことを思い出した。あのとき自分は何も知らなかった。世界の形も、自分の能力の正体も、タケルのことも、銀の船のことも。
「前に来たとき、お前は何を買ったんだっけ」ルウが言った。
「革紐。あと干し芋」
「そんなもんを買ってたのか」
「腰帯が傷んでたんだ」コウキは言って、ミラが織ってくれた腰帯に触れた。一年経った今も使っている。
「今は何が欲しい」
「急いで進む時間が欲しい」
ルウが短く笑った。「それは市場では売ってない」
夕方、トメが交易を終えたという報告を持ってきた。セレナが宿の手配を済ませ、ダグが馬の世話に入っていた。
「じゃあ行こう」アレクが言った。「コウキ、ナクロ——来い」
* * *
ルインの工房は職人通りの外れにある。
見覚えのある扉。半分開いたまま光が漏れている。壁一面に貼られた地図の端が扉の隙間から見える。アレクがノックした。
「はい」
中から声がした。低く、落ち着いた女の声。半年以上ぶりに聞く声だった。
入ると、ルインが大きな地図の前に立っていた。手に細い炭筆を持ち、地図の端に何かを書き込んでいる途中だった。振り向いて、アレクを見て、それからコウキを見た。
「また来たのか」
「世話になる」アレクが言った。
ルインはコウキをじっと見た。一年ぶりに会う地図屋は、記憶よりも少し痩せていたが、目の鋭さは変わらない。
「目が変わった」ルインが言った。
「そうか」
「前は遠くを見ていた。遠くを見ながら足元が見えていなかった。今は違う。足元と遠くを同時に見ている」
コウキはどう答えればいいかわからなかった。ルウなら「旅したからな」と一言で済ませるところだが、コウキにはうまい言葉が見つからない。黙っていると、ルインが先に続けた。
「悪い意味じゃない。前の方がが面白かったかもしれないけど。今の方が頼りになる」
「頼みがある」アレクが口を挟んだ。「石板を読んでほしい」
* * *
作業台の上に、タケルから託された石板とナクロの帳面が広げられた。
ルインは炭筆を置き、眼鏡を取り出した。古い金具の縁で、遠くの商隊から手に入れたものだとコウキは覚えていた。石板の文字を近くで見て、帳面の書き写しと見比べる。しばらく無言だった。指で記号をなぞりながら、ときどき小さく声を出す。ナクロが隣で帳面のページを開いてルインの指示に従った。
「標塔入口の記号——これは方位と深度を示す体系だ。測量隊は独自の記号体系を持っていた。私が集めてきた情報と一致する」
「解読できるか」
「全部は無理だ。でも必要な部分は読める可能性がある」ルインは石板の一箇所を指した。「ここ——この記号列が、おそらく鍵器具の保管場所を示している。前後の記号から意味を確認する」
ルインは別の棚から、薄い革綴じの帳面を数冊取り出した。ページをめくり、記号の対応表を確認しながら照合作業を続ける。コウキはそれを黙って見ていた。
「保管場所の記号——これは格納場所を意味する。古い言葉で書いてある。次の記号は……」ルインが止まった。「欠けている」
「欠けている部分に何が書いてあったか、わかるか」
「前後の文脈から推定はできる。測量隊の記録体系は論理的な構造になっている。この部分の前の記号は『中継拠点』、後ろの記号は『地下』を意味する。欠けた部分は『最初の』か『最古の』に相当する記号だと思う」
「最初の中継拠点の地下」ナクロが繰り返した。「つまり——」
「測量隊が最初に設けた中継所。旧街道が整備される前から存在していた場所。そこの地下に格納してある、ということだ」
アレクが地図を広げた。「その場所はどこだ」
ルインはしばらく考えてから、棚の奥から別の地図を取り出した。古い地図で、端が焼けている。
「三年前に行商人から聞いた話がある。旧街道から北に外れた草原に、石の壁が三面残っている廃墟がある。屋根はない。地下に降りる穴があったが、石の蓋がされていたと言っていた。当時は獣の出る場所で、近づく者がいなかった」
「その廃墟が、測量隊の最初の中継所か」
「断定はできない。でも位置が合う。旧街道が整備される前の古い交易路の上にある。測量隊が最初に道を通したとすれば、その中継点はそのあたりのはずだ」
ルインが地図の上に指を置いた。「ここだ。現在の旧街道から北に三日路ほど外れている」
コウキは場所を確認した。意識の端を伸ばした。
そこに——何かある。
「金属の気配がする」コウキは言った。「標塔の根元と同じ素材の感覚。人が作ったもの」
ルインが顔を上げ、コウキを見た。
「また感じたか」
「うん」
「……あなたの力が何なのか、少しずつわかってきた気がする」ルインは静かに言った。「地図を作っていると、遠くの情報が手元に集まってくる。あなたは地図を作らなくても感じられる」
「ルインが感じていることとは違うと思う」
「そうかもしれない。でも方向は同じだ。世界の形を知ろうとしている」
* * *
その夜、工房に泊まらせてもらうことになった。
アレクとナクロとトメが宿屋に戻り、コウキだけが残った。ルウも残ると言ったが、コウキが「一人で大丈夫だ」と言うと、珍しく素直に引き下がった。
ルインが工房の端の棚から油の小瓶を取り出し、ランプに足した。明かりが少し明るくなる。
「話があるか」ルインが言った。
「少し」コウキは地図の前の椅子に腰を下ろした。「ルインは、なんで地図を作り始めたんだっけ」
「前にも話したかな」
「聞いたかもしれない。もう一度聞きたい」
ルインはしばらく地図を見た。壁一面の地図——各地の集落の位置、道の記録、水源の場所、獣の行動記録。半年前にコウキが見たときより、書き込みが増えている。
「親友を失った。二十年前。隊商に出て、道の途中で獣に遭った。それが理由だ」ルインは言った。「道を知っていれば回避できた。情報があれば生きていた。知らないから死んだ」
「だから地図を作る」
「知らないままでいるよりはいい。知っていることで救える命がある」
コウキは少し考えた。「俺は標塔の根元に入ろうとしている。入れたとして、その先に何があるか、まだわからない。でも行かなければならない気がする」
「なぜ」
「タケルが——測量隊の最後の生き残りが、鍵を渡してくれた。地図を渡してくれた。俺に頼んだ。あの人は間もなく死ぬかもしれない。間に合わせたい」
ルインはコウキを見た。
「それだけか」
「それだけじゃない。世界が変わってきている。水が動いて、獣が増えて、集落が孤立する。タケルは原因を知っていた。直す方法の手がかりを知っていた。俺は今、その手がかりの一つを取りに行こうとしている」
「一つ」
「入口だ。まだ何も始まっていない」
ルインがかすかに笑った。「あなたは変わった。一年前にここに来たとき、自分の力を持て余していた。今は使えている」
「まだうまくは使えない」
「それでも、見えてきていることがある。私は地図を残す。あなたは感じる。どちらも必要だ」
コウキはその言葉を、静かに受け取った。前にも似たようなことを考えたことがある。アレクが「道を繋ぐ」と言ったとき、タケルが記録を引き継いだとき。自分がやることは大きくない。でも積み重なれば何かになる。
「ルインは、俺が戻ってきたとき、情報を共有していいか」
「来るたびに聞くといい。私が知っていることを話す」ルインは言った。「それから——急いで」
「わかってる」
「タケルというその人に間に合わせたいなら、明日の朝には出発しろ」
コウキは頷いた。
* * *
翌朝、夜明けとともにアレクたちが工房に戻ってきた。
ルインが机の上に新しい地図と書き起こした紙を並べていた。石板の解読結果——記号を言葉に直したもの。そして廃中継所の場所を書き込んだ地図。
「旧街道から北に折れて、草原を三日歩く。目印は崩れた石の壁三面。そこの地下に降りる入口がある」ルインがアレクに渡した。「ただし、二十年以上誰も行っていない。道標は残っていないと思う」
「感じられるか」アレクがコウキに振り向いた。
コウキは意識を伸ばした。北の草原の方角に——金属の気配。確かにある。標塔の根元と同じ素材。近いとは言えないが、感知できる距離だ。
「わかる。近づけばもっとはっきりする」
「なら行ける」アレクがルインに向かって言った。「礼は帰りにする」
「帰れ。必ず」ルインが短く言った。
ナクロが帳面を持ち直し、トメが荷物を確認し、ダグはすでに先に出ていた。コウキは工房の扉口で一度振り返った。ルインが壁の地図に向かって立っている。炭筆を手に、また書き込みを続けている。コウキたちが来て、石板の解読をして、そして去っていく。ルインはまた地図を作り続ける。
「行こう」ルウが隣で言った。
「ああ」
三叉路の町を出て、旧街道を少し西へ。そこから北へ折れる。草原の向こうに、崩れた石の壁がある。地下に、鍵がある。
意識の端の金属の気配が、少しずつ近くなっていく。
晴れた朝だった。南西の標塔が白く輝いている。北東に遠く、もう一本。平均4日路間隔で立ち並ぶ、銀色の柱たち。コウキは歩きながら、その根元に同じ仕組みの入口が眠っていることを考えた。
鍵さえあれば、扉は開く。タケルの言葉が、まだ頭の中にある。




