29_廃中継所の地下
旧街道から北へ折れる分岐点には、道標がなかった。
石積みの塚もない。草原が広がるだけで、足を踏み入れるべき方向を示すものは何もない。アレクが荷馬車を止め、コウキを振り返った。
「ここからはお前が先頭だ」
コウキは意識の端を北に向けた。
いつもより強く、金属の気配がある。標塔の根元に触れたときの感覚——あの銀色の感触が、北の草原の先でかすかに待っている。距離はまだあるが、方角は確かだ。
「三十度ほど西寄りに進む。感じ続けていれば迷わない」
「先に出る」ダグが静かに言い、草の中へ消えた。
隊商は北へ進んだ。道標のない草原を、コウキの感覚だけを頼りに。
草はくるぶしより少し高く、風が通るたびに波を打つ。空は晴れていて、南西の方角に標塔の白い柱が遠く見えた。北東にも一本。普段なら当たり前にある景色だが、道のない草原を歩くときは、その存在が少し頼もしく感じる。あれが目印だ、というわけではないが、「今自分がどこにいるか」という感覚の基準になる。
ルウが隣を歩きながら「道のない道ってのは妙な感じだな」と言った。
「道がないんじゃなくて、まだ誰も通っていないだけだ」コウキは答えた。「ダグが先に踏んでいるから、少しはましになってる」
「それを道というかどうかは難しいところだが」
荷馬車の車輪が草を押しつぶしながら進む音が後ろに聞こえる。セレナが手綱を握り、ナクロが荷台から金属の気配が続く方角を確認している。トメは帳面に何かを書いている——旅の記録を、歩きながら書き続ける癖は変わらない。
* * *
二時間ほど歩いたところで、それは見えてきた。
草原の中に、古い石の壁が三面だけ立っている。屋根はない。床もほとんどが土に戻っている。けれどその石の壁は、二百年の風雨に耐えて、まだそこにある。
「あれだ」ナクロが言った。
石の積み方を見ながら近づく。分厚い壁は測量隊が使っていた工法に違いない——石積みの里の基礎で見たものと同じ接合の仕方だ。コウキが意識を向けると、建物の北側、壁の外に金属の気配が強くなる。
ダグが先に廃中継所の中へ入り、一周して戻ってきた。
「誰もいない。獣の痕跡もなし。草の踏み跡もない。少なくとも今年は人が来ていない」
「北側の壁の外に何かある」コウキが言った。「石の蓋のようなものだと思う」
ダグが再び廃中継所に入り、北の石壁を越えた。少しして「あった」と声がした。
全員で北側に回り込む。石の壁の外側、地面に埋め込まれた石の蓋があった。縦横一メートルほどの四角い石板で、表面に記号が刻まれている。コウキは記号を見た瞬間、心拍が上がった。
標塔の根元で見た記号と同じ系統の文字だ。
「ナクロ、帳面を出してくれ」
ナクロが懐から帳面を取り出し、標塔の根元で書き写した記号列と比較する。配置は違うが、使われている記号の種類が一致している。
「同じ体系だ」ナクロが確かめるように言った。「でも並び順が違う。標塔の方が複雑で、こちらは単純だ」
「入口か、格納庫かの違いだと思う」コウキが言った。「用途が違えば記号の構成も変わる」
コウキは蓋に手を当てた。
かすかな振動。でも標塔の根元のときのように文字が青白く光るわけではない。応答はあるが、弱い。まるで接続はしているが、起動はしていない機械のような感覚だ。
「動かないのか」ルウが聞いた。
「反応はある。でも光らない。標塔の根元のときと違う」
「力で持ち上げるか」アレクが言った。
ナクロがすぐに割り込んだ。「待ってください。石の合わせ目を見てもいいですか」
ナクロは蓋の端を指でなぞり、顔を近づけて確かめた。それから帳面の余白に簡単な図を描いた。
「溝が二か所ある。こじ開けるための隙間じゃない——蓋を持ち上げるための把手の跡です。ただし内側からしか使えない形になってる。外からは差し込む構造になっていない」
「内側に鍵がある、ということか」
「おそらく。蓋の下に何らかの留め具があって、外から鍵で操作するか、中から手で外すか」
コウキは再び意識を集中させた。蓋のすぐ下——地面の直下に、金属の感触がある。石ではなく金属。密閉されている。その向こうに、もっと強い金属の気配が続いている。
「地下に空間がある。格納庫だと思う。蓋の内側に……留め具の感覚がある。小さな爪が三か所、内側から蓋を押さえている」
「外から外せるか」
「無理だ。内側の構造に干渉する方法がない」
アレクが腕を組んだ。「行き詰まりか」
沈黙が流れた。
ダグが蓋の周囲を指でなぞり、草を除けて隙間を確かめる。ルウが「タケルは鍵器具があれば開くと言ってた。鍵器具がここの中にあるとしたら、鶏が先か卵が先かだな」と呟いた。
セレナが蓋の記号に顔を近づけて、じっと見た。
「コウキ。この記号、石板のものと似ているが配置が違うと言ったな。どのくらい違う」
「標塔の根元は縦に並んでいた。ここは横一列だ」
「横一列……」セレナが顎に手を当てた。「地域ごとに違うのか、用途ごとに違うのか。それとも」
「通信用の記号かもしれない」コウキが思い浮かんだことを言った。「標塔との接続に使う信号の種類が、蓋に刻んであるとしたら——標塔を通じてここを開けることができるかもしれない」
アレクがコウキを見た。「できるか」
「わからない。でも試す価値はある」
コウキは目を閉じ、意識を北東に伸ばした。
三日路ほど先。草原の向こうに、銀色の点として標塔がある。いつも意識の端にいる存在。コウキが感覚を向けると、薄い応答が返ってくる——「ここにいる」という確認のような振動。
コウキはその応答に乗せるように信号を送った。言葉ではなく、この石の蓋の記号のイメージを。「ここを開けたい」という意図を。
数秒の静寂。
蓋が、低く唸った。
「動いた」ナクロが声を上げた。
蓋の内側の爪が、三か所、引っ込む感覚がコウキの意識の端に届いた。ナクロとルウが反射的に蓋の端に指をかけ、持ち上げる。重いが動く。石の蓋がゆっくりと開いた。
黒い穴が口を開けた。
そこから、地面の下へ続く石段が見えた。
* * *
「俺が先だ」ダグが松明に火をつけ、迷いなく降りていった。
十五段ほどの階段。蓋と同じ素材——石とも金属ともつかない、滑らかで冷たい踏み面だ。ダグの松明の光が揺れながら下へ消えていく。しばらくして「安全だ。来い」という声が上がってきた。
アレク、コウキ、ナクロの順で降りた。セレナが入口に残り、ルウが馬の番をする。
格納庫の天井は低かった。腰をかがめるほどではないが、大人が立つと頭を少し引く高さだ。壁は標塔の外壁と同じ素材で、継ぎ目もなく滑らかだ。松明の炎を近づけても傷つく気配がない。二千年、あるいはそれ以上——この空間はずっとここにあったのだ。
ダグの松明が格納庫の内部を照らした。
奥に金属の棚が一列。幅は二メートルほど。棚は三段あり、上の段と中の段はほとんど空だ。がらんとしていて、何が入っていたかの痕跡すら残っていない。
端の下の段だけに、何かが残っていた。
金属の箱が三個。縦横二十センチほどの小さな密閉容器で、表面に錆はなく、蓋は溝で嵌め込まれている。二百年の時間を、地下の乾燥した空気の中で眠り続けたものの静けさがある。
コウキは近づき、箱に手を当てた。
強い反応。標塔の根元でも銀の船の中でも感じた金属の感触——これが「人工物の感覚」だとコウキが初めて理解した頃と同じ質の感覚が、掌の下から来た。
「これだ」
アレクが蓋を確かめ、溝に指を当てて慎重に外した。蓋が開く。
中に、金属の器具が収まっていた。
短い棒。長さは手の平ほどで、表面に細かい刻み目が施されている。持ち手の部分は微妙に太く、先端は逆に細くなっている。素材は標塔の外壁と同じ滑らかな金属だ。二千年前でも昨日作られたような状態に見える。
「こんなもんか」ルウが後ろから覗き込んで言った。「ずいぶん小さいな」
「大事なものが小さいのは珍しいことじゃない」アレクが短く答えた。
コウキは器具を手に取った。
掌に収まる重さ。予想より少し重い。手に取った瞬間、観測網がはっきりと反応した——標塔の根元で感じた「待っている」感覚と同じ質の応答が、この器具の中からも来た。
コウキの夢に出てきた形と同じだった。測量隊の人間が手に持っていた、あの小さな金属の棒。
「使い方はまだわからない」コウキは正直に言った。「でも、これが標塔の根元を開ける鍵だというのは確かだ」
「確かか」
「観測網が反応する。標塔と同じ系統のものだ。標塔の根元でこれを使えば、何かが変わる」
ナクロが格納庫の内部を見回しながら帳面を開いた。壁の構造、棚の位置、残っているものと空の棚の状態を書き留める。
「残りの二個はどうしますか」
「置いていく」アレクが言った。「場所はわかった。必要になったら戻ればいい。今は一個持っていく」
ナクロが棚の前に紙片を一枚置いた。隊商名、日付、訪問の事実。「次に誰かが来たとき、ここに何があるかわかるように」
「道標と同じだな」ルウが笑った。
「同じです」ナクロが答えた。
* * *
地上に出ると、空が赤く染まっていた。
草原に夕暮れが来ている。遠くの草が橙色に光り、風が南から吹いている。コウキは地面に出て立ち、北東の方角を見た。
意識の端に、銀色の点。標塔。
さらに遠く、あのタケルの拠点の方角——何もない。感知できるような距離ではない。でも、あそこにあの人がいる。「次に来るときにはもうここにいないかもしれない」と言った声が、また頭の中で繰り返した。
コウキは鍵器具を握り直した。掌の中で、観測網が静かに反応し続けている。使い方はまだわからない。でも——今この瞬間、ずっと探していたものが手の中にある。タケルが「鍵さえあれば扉は開く」と言った。その鍵が、今ここにある。
「急ぎましょう」コウキは言った。
「わかってる」アレクがすでに荷馬車の方向へ歩き始めながら答えた。「今夜は旧街道まで戻って野営。明朝一番で北東へ進む」
ルウが馬の手綱を持って来た。「開いたのか」
「開いた」
「どうやって」
「標塔を通じて信号を送った。遠隔で」
ルウが少しの間だけ黙った。それからいつものように「お前は変なやつだな」と言った。
「そうかもしれない」コウキは右手に鍵器具を持ったまま歩き出した。
夕暮れの草原に風が吹く。北東に、銀色の点がある。その根元に、この器具を持って行く。タケルが語った「標塔の地下への通路」が、本当に開くかどうかはまだわからない。でも手がかりは揃ってきた。
鍵がある。
入口がある。
あとは——間に合わせることだ。
コウキは歩きながら意識の端に標塔を感じ続けた。銀色の点は揺れず、ただそこにある。標塔と標塔の間がまるまる三日路ほどの間隔で世界に立ち並ぶ柱たちが、静かにコウキの感覚の中で輝いている。二千年前から、誰かが来るのを待ち続けるように。
「待っていてください」
心の中で、タケルに向けて言葉を送った。声にはならなかったが、それでいいと思った。




