27_標塔の根元
西の森を出たのは夜明けだった。
タケルの拠点の焚き火はもう消えかけていた。老人は毛布をかけたまま横になっていたが、目を開けてコウキたちを見送った。コウキは最後にもう一度振り返った。朝霧の中で、観測装置の金属の柱が白く光っている。
「行ってきます」
声には出さなかった。唇だけで言った。
タケルはかすかに頷いた。
石積みの里を通り過ぎ、旧街道を東へ少し戻り、それから北東へ折れた。行商の荷を積んだ荷馬車が轍を刻みながら進む。
「次の集落まで二日か」
アレクが地図を確認しながら言った。地図にはナクロの手で集落名と距離の目安が書き込まれている。去年ルインから買ったものに、この半年で書き足したものだ。
「旧街道から外れると、道が不安定になります」ナクロが言った。「北東の草原は石積みの道標が少ない。進む前に確認を」
「ダグ、先に出てくれ」
「了解」
ダグはすでに先に動いていた。
意識の端で、青白い点が二つある。
北東に少し近い一本と、さらに遠い一本。標塔の位置。タケルの拠点にいたときから感じていたが、今は足が向かっている方角と一致している。歩くたびに少しずつ近づいていく感覚。呼ばれているというより、道がそちらにある、という感じだった。
「どんな形だと思う? 根元って」
ルウが横で言った。
「標塔と同じ形のはずだと思う」コウキは答えた。「外壁は金属。地上から見る限り傷一つない。でも、根がある。地下に伸びている部分は……見たことがない」
「地下に伸びた柱の根元に扉がある。それがタケルの言葉だったな」
「そうだ」
「扉というより、穴だな。穴に降りる感じがする」ルウが言い、自分でも考えながら続けた。「昔、集落の水溜めを掘ったことがある。地下に降りる梯子。扉より穴の方がしっくりくる気がして」
「確かに」コウキは頷いた。「感覚では……穴に近い。深いところへの入口」
* * *
翌日の昼前、旧街道から北に外れた草原の奥に、小さな集落が見えた。
柵は一重だが頑丈で、見張り台が一つ。人口は百にも満たないだろう。荷馬車が近づくと、見張りが声をかけてきた。
「どこから来た」
「風渡りの商隊です。行商です。立ち寄ってよいですか」
少しの間があって、柵の扉が開いた。
集落の長は五十代の男で、顔に深い皺がある。トメが交易の話を進める間、コウキは広場の端で集落の人々と話した。
「この辺の北東方向に大きな標塔があると思うんですが」
「ある」老人が即座に答えた。七十代ほどの細い体つきの男だった。「二日ほど歩けば着く。若いころ、行ったことがある」
「近くまで?」
「麓まで行った。ただの草地だ。特に何もない。ただ……」老人が少し考えた。「石があった。地面から出てる石。人が置いたか、刻んだか、そういう石が」
「記号みたいなものが刻まれていましたか」
「文字みたいなもの。読めなかった。測量隊の連中のものだと、昔は言われていた」老人が続けた。「今は誰も行かん。神様の柱に近づくのは畏れ多い、ということになってる」
コウキはトメのところへ戻り、老人の話を短くアレクに伝えた。
「測量隊の記号。石板の記号と一致するかもしれない」
「ナクロに聞かせてくれ」
ナクロはコウキから話を聞いて、帳面を確かめた。
「石積みの里の石板に刻まれていたものと同じかどうかは、行って見てみないとわかりません。でも、測量隊が標塔の麓に何かを刻んだというのは、タケルさんの話と一致します」
集落で短い交易を済ませ、翌朝また北東へ向かった。
* * *
標塔が視界に入ったのは、出発から三時間後だった。
最初は草原の果てにある何かとしか見えない。次第に形が定まってくる。直径四十メートルほどの円柱。地平線から天へまっすぐに伸びる、金属の柱。
「でかいな」ルウが言った。
言葉になる前の大きさが、そこにある。
滑らかな表面が朝の光を反射して、白く輝いている。二千年経っても傷一つないという金属の外壁。コウキは意識の端を向けた。青白い点が強くなった。遠い応答ではなく、はっきりとした気配。
「近い」コウキは言った。「呼ばれてる感じ、じゃなくて……もっと静かな感じ。ずっとそこにいる感じ」
「待ってる、ということか」アレクが言った。
「そうかもしれない」
ダグが先に進み、安全を確認した。「獣の気配は薄い。標塔の周囲三百メートルほど、痕跡がない。本能的に避けているのかもしれない」
「人の気配は」
「なし。数十年は誰も来ていないと思う」
四人で標塔の根元へ近づいた。アレク、コウキ、ダグ、ナクロ。セレナとルウ、トメは荷馬車と馬を離れた場所で待つ。
近づくにつれ、地面の変化がわかった。草が低くなり、石が露出し始める。標塔の外壁の下部、地面との接続部は土と石に覆われているが、よく見ると人の手が入った形跡がある。
「ここです」
ナクロが地面に膝をついた。草を掻き分けると、石が出てくる。切り出した石。自然に割れた岩ではなく、加工した痕跡がある。
「測量隊の仕事ですね」ナクロはすぐ言った。「石の接合の仕方。こういう細工は現代の集落では見ない。石積みの里の基礎と同じ技術です」
四人で草を払い、土を取り除いていった。ゆっくりと作業を進めると、標塔の北側の地面に、一辺が両手を左右に広げたくらいの大きさの四角い石の蓋が現れた。
石と表現するしかないが、素材が何か分からない。
石のように見える何かで、標塔と同じ金属っぽい何かの縁にぴったりとはまっている。表面には文字が刻まれている。
「アレクさん、石板を」
アレクが背嚢から石板を取り出した。タケルから託された、測量隊の記録が刻まれた石板。ナクロが地面の文字と照合した。
「一致します。この記号——方位と深度を示す測量隊の記号。石積みの里の石板にあったものと同じです」アレクが確認のように石板を見た。「こっちにも同じ記号がある」
「標塔の入口であることを示しているんだと思います」ナクロが言った。
ナクロはそこで立ち上がり、標塔を見上げた。巨大な塔は目の前にすると巨大な壁のように見える。
手のひらで触れてみる。少し冷たい感じがする。手触りは固くてツルツルとした石のようだ。
「……音がしない」
腰のノミを取り出し、柄の頭で外壁を軽く叩いた。コツ、と音が出た——柄の方から。金属と金属がぶつかる音ではなく、木が金属を打った音。標塔側からの音は無い。
「硬いけど、硬さの問題じゃないです」ナクロが言った。「叩いた感触がない。衝撃が吸われている。石も金属も、こういう素材は知らない」
ナクロは外壁の表面をもう一度、今度は爪で引っ掻いた。傷がつく気配はない。爪の方が削れた。
「二千年、傷一つないというのは本当だ」ナクロは静かに言った。「これは単に硬いのとは違う。岩なら叩けば音が返ってくる。これは……返ってこない」
コウキは蓋の縁に手を当てた。
「動かせるか試してみよう」
四人で持ち上げようとした。石は重い。持ち上がらない——重さではなく、仕組みで固定されているようだ。隙間も入らない。
「力では無理ですね」ナクロが言った。「この蓋がはまっている枠は、標塔と同じものでしょう。壊れない。蓋そのものはもしかしたら壊せるかもしれないけど…」
アレクが静かに言う。「もしかすると開かなくなってしまうかもしれない」
ナクロは標塔と足元の蓋を交互にみる。「何か解錠の仕組みがあるはずです」
コウキは蓋の中央に手のひらを置いた。
観測網を通じて、標塔に意識を向ける。
今まで感じていた「応答」が、ぐっと濃くなる。
そして——意識の奥で、何かが応えた。
外からは何も変わっていない。標塔はそのままそびえている。ダグもアレクも、ただ黙って見ている。
だが、コウキの感覚の中だけで、繋がりの深さが変わった。遠い場所から届いていたものが、今は手のひらの向こうにある。
蓋の表面の刻み文字が、コウキの手のひらの下でわずかに光った。
青白い光。観測網と同じ色。
だが、開かない。
「鍵が……足りない」コウキは言った。確信があった。「何かが揃っていない。入口はここにある。でも今は開かない」
「何が必要なんだ」ルウが離れた場所から声をかけた。
「わからない。感じるのは『足りない』ということだけ」
ナクロが石面の文字を丁寧に帳面に書き写した。全部で十二個の記号。石板の記号と重なるものが六つ。残りの六つは未知のものだった。
「六つは読める。でも残り六つは石板にも出てきていない記号です」ナクロが帳面を見ながら言った。「解錠に必要な手順がここに刻まれているとすれば、石板の方にも対応する記述があるはずです」
「石板を見直そう」アレクが言った。
トメが石板を受け取り、ナクロの帳面と並べて見た。
しばらく二人で照合した後、トメが言った。
「ここです。この記号の列——『開錠記録』に相当する記号列だと思います。ただし、後半部分が欠けている。石板の表面が削れていて読めない箇所がある」
「読める部分には何が」
「『鍵器具・保管場所』と思われる記号。でも保管場所の地名に相当する部分が欠けている」
コウキはもう一度、石板の記号を見た。
タケルから託されたこの石板には、答えの手前まで刻まれている。手前まで、だ。
「ルインに見せよう」アレクが言った。「三叉路の町の地図屋だ。測量隊の記録文字を解読できる可能性がある。ルインが石板を見れば、欠けた部分の前後から推測できるかもしれない」
「距離は」
「旧街道を戻り、東へ。十日前後」セレナが地図を確認しながら言った。「行商の道程に組める」
コウキはもう一度、標塔に意識を向けた。
離れていくにつれ、青白い応答が薄くなっていく。でも消えない。遠くなっても、そこにある。
「待っていてください」
心の中で言った。タケルに言ったのと同じ言葉。
標塔は何も答えなかった。ただ、晴れた朝の光の中で、滑らかな金属の柱がかすかに輝いていた。
隊商は北東から東へと向きを変えた。荷馬車の車輪が轍を刻んで動き出す。
「標塔の答えは、三叉路にある」トメが帳面に何か書きながら言った。
「そう書いとけ。旅日記に」アレクが短く言った。
「すでに書きました」
草原の空に、別の標塔が遠く見えた。西に一本。東に遠く一本。標塔と標塔の間が丸三日路ほどの間隔で立つ、銀色の柱たち。二千年前から同じ場所に立っている、この世界の骨格。コウキは歩きながら、その根元に何が眠っているかを考え続けた。
地下に伸びた根。根の先にある通路。鍵が必要な扉。鍵器具の保管場所——その答えを持っているかもしれない人が、東にいる。




