26_タケルへの報告
「森の端」を発つ朝は、霧が出ていた。
シダの葉が重く垂れ、白い空気の中に工匠区の屋根だけが浮いている。隊商の荷馬車が轍に水を跳ねながら動き始めた。
「また西か」
ルウが荷物を担ぎ直しながら言った。
「西の向こうに用がある」
コウキが答えると、ルウは「知ってる」と言って当然のように列に加わった。アレクが後ろから声をかける。
「行商もある。道を繋ぐのが仕事だ。途中の集落に寄りながら進む」
コウキは頷いた。アレクの言葉はいつも実務的で、それが頼もしかった。世界の話、ラプラスエンジンの話、タケルに会いに行く話——それは全部、隊商の仕事の中に収まっている。
意識の端で、青白い輝きが揺れていた。
赤かった点は、銀の船(墜落シャトル)に入ってから変わった。赤ではなく、青白く、脈打ち方が柔らかい。落ち着いた光。煩わしくはない。いつもそこにある、ということだけが変わった。
最初にここを出たとき、自分には「勘」しかなかった。草の中に獣がいるとか、嵐が来るとか——根拠のない、ただの感覚。ガロンは「根拠はない。勘だ」と言ってコウキを送り出した。今の自分には根拠がある。意識の端に、北東の方角が見えている。標塔の気配が二点。「気がする」ではなく、そこにある。
それでも、旅の先に何があるかはわからない。そこは変わっていない。
コウキは確認するように意識を向け、それから前を向いた。
* * *
旧街道に入ると、草の匂いが変わった。
大きな草原の草は短く、乾いていた。三つ岩集落の近くまで来ると、道標の石積みが姿を見せ始める。ナクロが荷台から降りて、石積みを一つ確かめた。
「去年積んだやつが健在です」
「誰かが補修したな。傷のつき方が違う」
ダグが横から言った。石積みは少し積み直された跡がある。知らない誰かが補修した。
「道が使われてる」とナクロが静かに言った。
三つ岩集落に着いたのは昼過ぎだった。
集落の入口でユラが出てきた。70代の老女は隊商の顔を見て、皺の多い顔をほころばせた。
「また来てくれたか、風渡りの」
「少し立ち寄っただけです。通行記録を書いていきます」
アレクが掲示板のある広場へ向かい、トメが記録を書き込む。ユラはコウキの横に並んだ。
「また来てくれたね」
「約束でしたから」
コウキはユラを見た。70代の老女が20年間の孤立を生き抜いた目で、こちらを見返している。皺の深さが、歩いてきた時間を語っていた。
「気をつけて行きな」とユラは言った。
* * *
中継所跡には夕方に着いた。
半年前、廃墟だったここは、今は隊商の休憩拠点として整いつつあった。掲示板の枠が新しい板で補修されており、記録が何行か書き込まれている。
「三つの隊商が通ってる」
トメが掲示板を読みながら言った。「ここを経由して西へ行ったものが二つ、東へ戻ったものが一つ。日付は先月と今月」
「道が生きてる」
セレナが静かに言った。
「使われれば道は残る。使われなければ消える」
アレクが空に目を向けた。夕暮れの空に標塔が二本、橙色の光を受けて立っていた。滑らかな金属の柱が、傾いた人工太陽の光を受けて静かに輝いている。
夜営の焚き火のそばで、ルウが横に来た。
「青白い光、落ち着いてきたか」
「ああ」コウキは焚き火を見ながら言った。「最初は銀の船に入った直後だったから、まだ慣れなかった。今は安定してる感じがする」
「お前の頭の中のことはよくわからないけど」ルウが言った。「顔が落ち着いてるのはわかる。それでいいんじゃないか」
「そうかな」
「そうだ。難しいことはわからないが、人の顔はわかる」
コウキは笑った。ルウの言葉はいつもそういう風に着地する。
* * *
石積みの里に着いたのは翌日の夕暮れだった。
カシマが集落の入口まで出てきた。60代の長は隊商の顔を見て、目を細めた。
「また来てくれた。約束を守ってくれるんだな」
「道を繋ぐのが仕事ですから」
アレクが言い、カシマは深く頷いた。集落での短い交易の後、カシマはコウキに声をかけた。
「森の人のことが心配だ。最近、石積みの里への道が見当たらない」
「行って確かめてきます」
コウキはそう答えた。カシマの顔が少し安堵した。
翌朝、ダグが先に西の森へ入った。ナクロが帳面を出し、道中の積み石の位置を確認しながら進む。コウキは意識の端で、タケルの拠点の方角を感じた。
青白い輝きとは別の何か——観測装置の気配。生きている機械の、静かな存在感。
「近いです」
「俺も感じた」
ダグが前から戻ってきた。「人の痕跡がある。今日の朝、焚き火の煙が出ていた。あの人はいる」
拠点の空き地に入った。
タケルはいつもの場所——観測装置の前の椅子——に座っていた。だが起き上がる様子がなかった。
咳をしている。体が震えている。顔色が悪い。
「アレクさん」
コウキが振り向くと、アレクはもうダグに目配せをしていた。ダグが走り、ディンを呼んだ。
* * *
ディンがタケルを診察している間、コウキは小屋の外で待った。
ルウが横に来た。「大丈夫か」
「わからない」
「そうか」
二人は黙っていた。木々の隙間から標塔が一本見えた。夕方の光の中で、銀色の柱がかすかに輝いている。
小屋の中からタケルの声がした。「コウキ。こっちに来い」
コウキは入った。タケルは横になっていたが、上体を起こそうとした。
「そのままでいいです」
「いや、これは俺の癖だ」とタケルは言い、ゆっくりと体を起こした。顔が少し青白かった。「船に入れたか」
「入りました」
「座標データは」
「取れました」コウキは詳しく説明した。北東の深部という座標の形。数値と方位と深度。心臓の予備がある場所に相当するもの。
タケルは目を閉じて聞いていた。そして目を開けた。
「到達方法の記録は」
「損傷していました。失われていました」
タケルの顔が複雑に動いた。何かを飲み込むような間があった。
「それは……知っていた。記録が損傷しているだろうとは思っていた」
「でも?」
「でも、お前が来たなら何かが変わると思っていた」タケルが言った。「変わったか」
「変わりました」コウキは答えた。「意識の端の点が、赤から青白くなりました。銀の船にアクセスした記録が観測網に刻まれたと思います」
タケルは少しの間、コウキを見た。それから観測装置に視線を移した。
「そうか。なら、次の話をしよう」
タケルは椅子に座ったまま、ゆっくりと語り始めた。
「標塔を地上から見ると、ただの柱だ。だが、標塔には根がある」
「根?」
「地下に伸びている。地表から何百メートルも下——球殻の内壁に近いところまで」タケルが言った。「ラプラスエンジンの予備へは、その根の先にある通路を通れば到達できる。俺はそこまで調べた。でも、通路への入口は標塔の地下にある。地上からのアクセス方法は、俺にはわからなかった」
「標塔の根元に入口が」
「あるはずだ。測量隊がかつてそこへ入ろうとした記録が残っている。でも実際に入れたかどうかは記録が途切れていて不明だ。お前が観測網でアクセスしながら、標塔の近くまで行けば——何かがわかるかもしれない」
コウキは意識を向けた。
北東の標塔の気配を探る。遠い。でも確かにある。薄い応答が返ってくる。
「感じます」とコウキは言った。「標塔が……何かを返してきます」
「そうだ」タケルが短く言った。「お前ならそれができる」
ディンが小屋に戻ってきた。アレクを呼び、二人が小声で話をしている。
コウキには聞こえた。「一ヶ月か、二ヶ月。あくまで目安だが」
タケルも聞こえたのだろう。顔の表情が変わらなかった。ただ穏やかに、コウキを見ていた。
「まだ間に合う」タケルが言った。「お前がいれば間に合う」
コウキは何も言えなかった。タケルの横に座り、観測装置に手を当てた。指先から、静かな振動が伝わってくる。青白い輝きが、少し広がった気がした。
「そうだ。それでいい」タケルが静かに言った。
* * *
夜は全員で焚き火を囲んだ。
タケルも横になったまま、焚き火の近くに連れてきた。ディンが毛布をかけ、「あまり喋るな」と言ったが、タケルは「今夜だけは」と笑った。
「標塔の根元への入口」アレクが仕切った。「どこから攻める」
「標塔は最も近いものでも二刻は歩く先だ」ダグが言った。「周辺の地形を事前に調べれば、地表に何か痕跡がある可能性がある。石積みの里に近い方角に一本ある」
「石工の目で見てみたい」ナクロが言った。「標塔の外壁は二千年傷一つないと言われているが、根元の地面には何か刻まれているかもしれない。測量隊が痕跡を残していた可能性がある」
「隊商として動きながら順に近づいていくことができる」セレナが地図を広げた。「北東回りの道を取れば、標塔の周辺を複数か所確認できる」
コウキは意識の端を確認した。北東の方角、意識の端に青白い点が二本ある。標塔の位置。遠くにあるが、確かに感じる。
「北東に二本あります。旅の途中で近づくことができると思います」
「旅日記に計画として組もう」トメが帳面を開いた。「標塔を巡る行商の記録。それなら自然だ」
「隊商らしい」タケルが毛布の中から言った。「俺はそれが一番好きだ。大それたことをするのに、いつも商人の顔をしている」
アレクが笑った。珍しく、声を出して。
焚き火が低くなってきた頃、会話が途切れた。
夜の静けさの中で、木々の葉が揺れる音がする。遠くに標塔の輪郭が一本、星の光の中に黒く立っていた。
* * *
翌朝、夜明け前に隊商は出発の準備をした。
タケルは横になったままだったが、目を開けてコウキたちを見ていた。
「次に来るときには、もうここにいないかもしれない」
セレナが手を止めた。ナクロが荷物を下ろした。アレクは動じずに立っていた。
「ここにいてください」コウキは言った。「待っていてください」
タケルは何も言わなかった。ただ、かすかに笑った。
老いた顔の笑みは、アレクに向けられた。「あの子は旅に向いてる。お前が拾ったのは正解だったな」
「知ってる」アレクが短く答えた。
隊商が動き出した。コウキは最後に振り返った。
タケルが焚き火の残り火の前で、観測装置に手を当てていた。
遠ざかりながら、コウキはその姿を見ていた。
夜明けの光の中で、木々の間から標塔が見えた。北東に二本。滑らかな金属の柱が、朝の光を受けて白く輝いている。二千年前から同じ場所に立っている柱。地下に根を持つ柱。
コウキはその根元に何があるかを考えながら、歩き続けた。




