25_禁域の向こう
夜明け前、集落はまだ眠っていた。
炊事場の煙も立っていない。工匠区から音もしない。朝霧が地面を這い、シダの葉が露に重く揺れていた。
コウキは門の前で足を止めた。隣にアレク、前方にダグがいる。
「どこへ」
見張り台から声がした。カイドだった。
「少し調べ物がある」
アレクが短く答えた。「今日中に戻る」
カイドは黙って桟を外した。詮索しない。それが隊商への礼儀だと知っているのだろう。
三人は森の端の外へ出た。
コウキの意識の端で、赤い点が揺れている。夜明け前の薄暗い草原の向こう、シダの森の中——銀の船の位置。昨夜から変わっていない。
ダグが先頭を歩いた。足音が消えている。斥候の習性だ。
アレクが後方を固めた。
コウキは中間で、赤い点の方角を感じながら歩いた。
* * *
森に入ると、光が減った。
シダの葉が頭上を覆い、朝の薄明かりを遮っている。足元は湿った腐葉土。踏み込むたびに柔らかく沈む。シダの根が複雑に絡み合って地面を走っている。
ダグが立ち止まって、周囲を読んだ。
「人が通った形跡はない。長年にわたって」
「だろうな」
アレクが頷く。「伝承が守ってきたんだ。禁域には近づくなという話が。本物の理由があってそうなったのかもしれない」
コウキは赤い点の方角を確認した。足を踏み出す。
「こっちです」
二人が黙ってついてきた。
コウキが先頭になるのは不思議な感覚だった。来たことのない場所を、来たことがあるように進んでいる。意識の端の赤い点が道を教えている。地図ではなく、感覚として。
シダが低くなってきた。高さ十メートルを超えていた葉が、頭ほどの高さになる。代わりに、古い石積みが見えてきた。
低い。膝ほどの高さしかない。でも、延々と続いている。風化して角が丸くなった石が、弧を描いて並んでいる。
ダグが前に出て、石積みの前で膝をついた。石に刻まれた文字を確認する。
「読めないが、警告の類だな。繰り返し刻み直した跡がある。何代にもわたって」
「禁域の境界線だ」
コウキは言った。石積みの向こうに感じる。赤い点が、近い。
アレクは石積みを見た。それから、向こう側を見た。
「向こうに行く」
アレクが先に足を踏み入れた。
コウキとダグが続いた。
* * *
禁域の内側は、外と変わらない森だった。
シダは少なく、背の低い低木が増えた。空が少し見えた。雲の向こうに、人工太陽が昇り始めている。東の空が白んでいる。
コウキは歩きながら、標塔を数えた。木々の隙間から、遠くに二本見える。東の方角と北の方角。朝の光に銀色に輝いている。
斜面が緩やかに下がってきた。窪地に向かっている。
コウキの感覚が鋭くなった。
赤い点が、正面だ。
「あそこです」
低木の向こう、斜面の窪みに、それはあった。
土と蔓草に覆われた巨大な金属の塊。形は半分以上が埋まっている。だが、露出している部分の輪郭は——流線型。風を切るために作られた、人工物の滑らかな曲線。
ダグが立ち止まった。
「これが……」
言葉が止まった。ダグが言葉を失うのは珍しかった。
アレクは静かに近づいた。手袋をした手で、露出した金属面を触れた。
「冷たい。でも、錆びていない」
コウキも近づいた。金属の表面に触れる。
指先から、微細な振動のような感覚があった。電気ではない。もっと静かなもの。眠っている何かが、触れたことに気づいたような——。
観測システムだ。
タケルの拠点の観測装置と同じ。それよりずっと古く、ずっと大きな。
「開けられるか?」
アレクがコウキに聞いた。
「やってみます」
コウキは船体に沿って歩いた。側面に、扉の輪郭が見える。半分が土に埋まっている。取っ手のような突起が土の中から出ている。
「まず掘ろう」
ダグが道具袋を開いた。小型の掘り具が入っている。旅に出る前、アレクが「必要になるかもしれない」と三人に持たせた道具だ。
三人で土を掘った。思ったより早く、扉の全体が現れた。金属の扉。表面に、読めない文字が刻まれている。
コウキは扉の前に立った。
意識を集中する。タケルの観測装置と同期した時の感覚を思い出す。あの時は受け取るだけだった。今度は、アクセスを試みる。
扉の向こうに何かがある。眠っているが、生きている。観測システムの末端が、まだ機能している。
コウキは観測網を通じて問いかけた。
かすかな応答があった。
扉がゆっくりと動いた。電動ではない。内部の気圧が均衡したような、静かな動き。
「入れた」
「俺が先だ」
ダグがコウキの前に出た。
狭い入口に体をすべらせて、内部へ入る。少し待って、「安全だ」と言った。
アレクがコウキを促した。コウキが入り、アレクが後に続いた。
* * *
船内は暗かった。
コウキが一歩踏み込むたびに、床がかすかに発光した。白ではなく、青白い光。コウキの足跡のように、踏んだ箇所だけ光る。観測システムの残存エネルギーが、コウキの存在に反応している。
「お前が歩くと光るんだな」
ダグが言った。
「はい」
「便利だ」
アレクが周囲を見回した。金属の壁は損傷している。通路の一部が歪んでいる。だが構造は保たれていた。二千年という時間が信じられないほど、内部は崩れていなかった。
奥へ進む。通路は狭く、三人が横に並べない。一列で歩く。
突き当たりに、広い区画があった。
壁一面に、金属の板が並んでいた。石板ではない。もっと薄く、もっと精緻な素材。表面に細かい文字と図形が刻まれている。タケルが石板に書き写そうとしても追いつかないような、膨大な量の情報。
「タケルが話していたやつか」
アレクが静かに言った。
「測量隊の記録が残っているはずです。中枢へのアクセス手段も」
コウキは壁の前に立ち、手を当てた。
応答があった。タケルの観測装置よりも鮮明な。映像ではなく、情報の塊として。数値の羅列、地形データ、航行記録、世界の設計図の断片——。
コウキは受け取りながら、形に変換しようとした。
水脈の図が浮かんだ。ヤヒロ全土の水脈。北西の沼地への集中が見える。心臓が止まって以来、この世界は少しずつ変形し続けている。水脈もまた、その変化の中にある。旅で見てきたことが、全体図の中に収まった。
そして、別の情報が来た。
座標のようなもの。数値と方位と深度。ラプラスエンジンの予備があるという、タケルが言っていた場所の手がかり。
「来た」
コウキは呟いた。「場所の手がかりが」
「どこだ」
アレクが横に来た。
「北東の深部。標塔より深いところにある。数値はわかる。でも、地上からどうやってアクセスするかは……」
コウキは受け取ったデータを確認した。「それは記録が損傷している」
「つまり手がかりだけで、方法はわからない」
「今のところは」
アレクは頷いた。「タケルが言っていた通りだな。入口に過ぎない」
ダグが通路の角を確認して戻ってきた。
「他に入口はない。扉はここだけだ。奥の区画は崩落している」
「わかった」
三人はしばらく、その広い区画の中に立っていた。
金属の壁が冷たい。かすかに発光する床。二千年前に作られた記録が、まだここにある。誰も触れないまま、ここにあり続けた。
「二千年、ここにいたんだな」
アレクが床に手をついて、しゃがんだ。
コウキには、アレクが何を感じているかは分からなかった。ただ、その一言が重いことは分かった。
* * *
船から出ると、午後の光だった。
三人で禁域を抜け、シダの森を歩いた。帰り道は来た道を戻った。ダグが足跡を読んで先頭を行く。
「受け取ったデータをまとめると」
コウキが歩きながら言った。「心臓の予備は北東の深部にある。場所の座標に相当するものはわかった。到達するための方法の記録は失われている」
「タケルはそれを知っていたか」
「どこにあるかは知っていたと思います。でも自分では船を開けられなかった。観測システムに触れる能力がなかった」
「お前が必要だった、ということだ」
「はい」
しばらく、三人は黙って歩いた。
シダの葉が風に揺れた。頭上から鳥の声が聞こえた。禁域の中でも、生き物は生きている。
ダグが歩きながら言った。
「次はどこへ行く」
「まずタケルに伝える」
アレクが答えた。「旧街道を経由して、タケルの拠点へ。得た情報を渡して、次の手を考える」
「隊商の仕事は続けながら?」
「続けながらだ。道を繋ぐのが俺たちの仕事だ。それを止める理由はない」
コウキは頷いた。アレクの言葉はいつも実務的だ。世界の仕組みが崩れかけていると知っても、「では隊商の仕事を続けながら」という結論になる。それが頼もしかった。
コウキは意識の端を確認した。
変わっている。
赤い点ではなく——青白い輝きに変わっていた。脈打ちかたが、赤の時と違う。柔らかい。落ち着いた光。
「船の点が変わりました」
「どう変わった」
「赤から青白くなりました。……アクセスした記録が残ったんだと思います。観測網に」
アレクは一瞬考えた。「タケルに話した方がいいな。その変化も」
「はい」
禁域の境界線を越えた。低い石積みをまたいで、外へ出る。シダが大きくなり、光が変わる。来た時と同じ森だが、帰り道の感触は違う。
コウキの足取りが、少し軽かった。
* * *
「森の端」の門に着いたのは、午後も遅い時間だった。
東の空に人工太陽が傾き始めている。標塔が二本、橙色の光を受けて静かに立っていた。
門の内側に、ルウがいた。
腕を組んで、壁に背中を当てて立っている。コウキたちを見て、腕を解いた。
「遅かったな」
「少し時間がかかった」
コウキが答えると、ルウは三人の顔を順に見た。傷はないか、怪我はないか——素早く確認する護衛の癖だ。
「あったか」
「あった」
コウキはそれだけ言った。
アレクはルウに頷いて、集落長の家の方へ歩いていった。ダグも荷物を置きに野営地へ向かった。
コウキとルウが並んで立った。
門の前から、シダの森の輪郭が見える。その奥に、禁域がある。その奥に、銀の船がある。
「どうだった」
ルウが聞いた。
「入れた。中に記録が残っていた。場所の手がかりを得た」
「怖かったか」
コウキは少し考えた。
「そうでもなかった。静かだった」
「静かか」
「二千年間、誰も触れなかった場所だから。あの静かさは、そういう時間の積み重ねなんだと思う」
ルウはしばらく黙った。
「そうか。静かなんだな」
コウキは頷いた。
「次は、タケルのところへ行く」
「また旅か」
「また旅だ」
「わかった。俺もいく」
ルウは当然のように言った。コウキは笑った。
「また大変だぞ。旧街道を戻って、石積みの里から西の森へ入って」
「それくらい知ってる。俺はそういう仕事に向いてるんだ」
東の空に標塔が立っている。橙色の光の中で、滑らかな金属の表面が輝いている。二千年前から同じ場所に。揺らぐことなく。
銀の船も、同じだ。
二千年間あの場所にいた。今日、コウキが触れた。観測網に記録が刻まれた。青白い点になった。
それだけのことだが、何かが変わった。
コウキはそれをうまく言葉にできなかった。ただ、風がシダの葉を揺らす音を聞きながら、確かな変化を感じていた。




