24_故郷の門
草原の向こうに、見覚えのある輪郭が現れた。
巨大なシダの群生。高さ十メートルを超える葉が、縁に向かってかすかに揺れている。その奥に、積み石の壁と木の門。
「森の端」。
コウキは立ち止まりそうになって、こらえた。
「あれが森の端か?」
ルウが隣でそう言った。半年前に一度来た場所だが、改めて眺めているような声だった。
「そうだ」
「小さいな」
「大きくもないし、小さくもないと思うけど」
コウキは答えながら、集落を見つめた。半年ぶりの帰還。出発の朝、コウキは門から振り返らなかった。振り返れば足が止まると思ったから。
今は止まれない理由が別にある。
意識の端で、赤い点が脈打っている。銀の船。タケルの観測装置が示した位置——あの森のさらに奥、禁域の向こう。半年前よりずっと近い。その赤い点を感じながら、コウキは前へ歩いた。
標塔が三本、西の空に立っている。
* * *
「良く来てくれた、風渡りの」
門の前でそう声をかけてきたのは、見張り台にいたカイドだった。顔はくしゃくしゃになっていたが、目には確かな安堵がある。
「ああ、寄らせてもらう」
アレクが前に出て、短く挨拶する。「交易物資を運んできた。今日はここで一泊させてもらえるか」
「当然だ。長も喜ぶ」
カイドは門の桟を外して、隊商を招き入れた。荷馬が列をなして通る。二十人の隊員が歩いていく。
コウキは隊列の中ほどにいた。門をくぐった瞬間、シダの香りが鼻を突いた。青草と湿った土と、かすかに燻された煙。
この匂いだ。
生まれた場所の匂いを、人は覚えている。半年間、草原と旧街道と森の奥を旅してきた。それだけの時間が経っても、体はちゃんと覚えていた。
「いい匂いだ」
ナクロが後ろで言った。
「シダの香りだよ」
「銀崖とは全然違う。ここはどこもかしこも緑だ」
ナクロは銀崖の出身で、岩と鉱石と乾いた風の中で育った。彼の目には、この集落はひどく緑に見えるだろう。
コウキには、当たり前の景色だった。
アレクを見ると、コウキを認めた後集落の中央へと顔を向けた。「朝には戻れ」
「はい」
コウキは頷いて軽く駆け出した。
育ての家は、集落の中ほどにある。
小さな畑と、離れの工房と、石造りの母屋。ルウが後ろをついてくる気配があったが、畑の手前で足音が止まった。振り返らなかった。
畑に人影があった。
ミラだ。腰をかがめて草を抜いている。灰色がかった茶色の髪が、結い上げられている。コウキが近づく足音に気づいて、顔を上げた。
一瞬、動きが止まった。
「おかえり」
ミラは立ち上がって、手の土を払いながら、そう言った。
「ただいま」
二人はしばらく、向かい合ったまま立っていた。
ミラは何も言わなかった。コウキも何も言わなかった。半年間の旅を言葉にするには、言葉が足りなかった。
「腹は空いているか」
「少し」
「少しか」
ミラは小さく笑って、エプロンを叩いた。
「ガロンに声をかけてきなさい。もうすぐ飯ができる」
「はい」
コウキは離れへ向かいながら、背中でミラの視線を感じた。出発の朝と同じ視線。見送ってくれる目。ただ今は、追いかけてくる目だった。
工房の中は煙と鉄の臭いがした。
ガロンは作業台の前に立っていた。大きな背中が、微かに動いた。足音に気づいたのだろう。振り返って、コウキを見た。
大きな体が、何も言わない。
「ただいま」
コウキが言うと、ガロンはゆっくり頷いた。それから、一言だけ言った。
「大きくなったな」
「そうですか」
「ああ」
ガロンは、それ以上何も言わなかった。
夕食は三人で食べた。
テーブルに保存食ではない温かい料理が並んだ。川魚を蒸したもの、根菜と豆の煮込み、粗挽きの雑穀のパン。旅の間には食べられない種類の食事。
コウキは黙って食べた。ミラとガロンも黙って食べた。言葉のない食事が、落ち着いた。
しばらくして、ミラが言った。
「顔つきが変わった」
「そうですか」
「ここを出た時と違う。少し大人になった」
コウキは少し驚いた。ミラはいつも言葉が少ない。それが言葉になるほど、変わったのだろう。
「何か、あったのか」
ミラは問いかけというより、確認するように言った。
「少し、だと思います」
「少し」
「自分でも、どこまで見えているのかわからない」
ガロンが顔を上げた。黙ったまま、コウキを見る。責めているのではない。ただ、見ている。
「それはお前の力だ」
ミラが言った。
「出発する前から、あった力だ。なくなったわけではないのだろう」
「はい」
「なら、いい」
それだけだった。ミラは器に手を伸ばして、コウキの皿に煮込みを追加した。
* * *
翌朝、コウキは早く目が覚めた。
外へ出ると、集落はまだ薄暗かった。朝霧が低く漂い、シダの葉が露に濡れている。コウキは集落を歩いた。
工匠区からは、もう槌の音が聞こえた。ガモンの工房だ。半年前と同じ。変わっていない。
だが、工房の前の積み石が増えていた。崩れかけていた角の部分が、新しく積み直されている。誰かが直したのだ。
集落の外れには、小さな建屋が一棟増えていた。丸太と泥で作った、簡素な構造。半年で、何かが変わっていた。
「変わるんだな」
後ろで声がして、振り返るとルウがいた。
「おい、いつからいた」
「さっきから。お前が工房の前でぼーっとしてたから声かけなかった」
ルウは欠伸をして、隣に立った。
「いい集落だ」
「昨日は小さいって言ってただろ」
「小さいのと、いいのは別の話だ」
ルウは集落を見回した。
「銀崖もそれなりに大きかったが、なんというか、こっちの方が暮らしてる感じがする」
「暮らしてる感じ」
「石積みの里もそうだった。人の数じゃない。なんか、空気が違う」
コウキは集落を見た。低い石垣、手入れされた畑、煙を出し始めた炊事場。人が毎日生きている場所の空気。
意識の端で、水脈が見えた。
集落の下を、細い流れが通っている。地面から三メートルほどの深さ。それほど豊かではないが、確実にある。半年前、ここにいた時には気づかなかった。今は見える。
「何か見えてるか?」
ルウが聞いた。
「集落の下に水脈がある。細い流れだけど」
「へえ」
「出発前は見えなかった。今は見える」
ルウは少し黙ってから、言った。
「成長してるんだな」
「そうみたいだ」
ルウはしばらく黙って、また集落を見渡した。
「それで十分だ」
標塔が朝日に光っている。集落の外に、二本が並んで立っている。コウキの意識の端で、銀色の点が脈打つ。
* * *
夕暮れ時、アレクがコウキを呼んだ。
集落の外れ、門から少し離れた場所。人気がない。
「石板を持ってきたか」
「はい」
コウキは背嚢から石板を取り出した。タケルが渡した地図。薄い灰色の石に、細い線と点が刻まれている。
アレクはそれを受け取り、しばらく黙って見た。
「ここが集落の位置で、これが森の境界か」
「はい」
「禁域の表示がある」
「集落の人間が近づかない領域です。古い伝承で立ち入りを禁じている」
「その向こうに、銀の船がある」
「そうです」
アレクは石板を返した。向こうで標塔が夕陽に赤く染まっている。
「明日、偵察に行く。俺とお前とダグの三人で」
「はい」
「隊員には話さなくていいのかって、言いたそうな顔してるな」
コウキは少し黙った。
「セレナには昨日話した。トメは記録を取り始めた。ルウは……まあ、ついてくると言い出すまで時間がかかるまい」
アレクは小さく笑った。珍しい笑い方だった。
「コウキ」
「はい」
「タケルから聞いた話。船の仕組み、世界の仕組み、全部がお前の肩にかかっていると思うな」
「……はい」
「隊商の仕事は、道を繋ぐことだ。お前に頼まれたわけでも、世界に頼まれたわけでもない。ただ道を繋ぐのが俺たちの仕事だ。銀の船を調べるのも、その延長にすぎない」
「……そうですね」
「準備はいいか」
コウキは少し考えた。
「はい」
アレクは立ち上がった。
「明日、夜明けに出る。早く寝ろ」
「わかりました」
夜、コウキは一人で集落の外れに立った。
空に星が出ている。疑似天体層が映す光。タケルに教わるまでは、本物の星だと思っていた。今も見た目は変わらない。だが知っている。あれが何であるかを。
意識の端で、赤い点が光っている。
銀の船。タケルの観測装置が示した位置。コウキの故郷の近く、森の奥の禁域の向こう。半年前には意識の端になかったものが、今ははっきりと感じられる。
距離が近い。もうすぐだ。
あの中に何があるのか。タケルが言っていた——測量隊の記録と、中枢へのアクセス手段。世界を立て直す可能性。
コウキは息を吸った。
恐れがないわけではない。だが一人ではない。アレクがいて、ダグがいて、セレナが後ろを見ていて、ルウが隣にいる。ナクロが道を記録している。トメが言葉を残している。
それだけ揃っていれば、踏み込める。
「明日、行く」
コウキは小さくそう言った。
風が森を揺らす。シダの葉の波が、遠くまで伝わっていく。
標塔が夜空に立っている。宇宙船の骨格。二千年前に止まったまま、それでも折れずにいる。
銀の船も、二千年間、あそこにいる。
待っていたのかもしれない。誰かが来るのを。




