23_帰路の風
石積みの里を発ったのは、まだ朝霧が地面を這っている時刻だった。
隊商が列を組む。十頭の荷馬、二十人の隊員。半年前に森の端を出た時と同じ顔ぶれだが、コウキの目に映る世界はもう同じではなかった。
標塔が朝日に光っている。その銀色の柱は、もう「遠くに見える柱」ではない。コウキの意識の端で、それは青白い点として脈打っている。水脈は地面の下を流れる青い線。そして東の方角、まだ遠い場所に赤い光の点——銀の船。
世界が、言葉を語りかけている。
「コウキ」
アレクの声で、コウキは顔を上げた。
「道を選べ」
「……はい」
コウキは前方を見た。旧街道は東へ続いている。半年前、この道を西へ向かったとき、石積みは苔に覆われ、道は獣の通り道に消えかけていた。今はナクロが積み石を直し、ダグが獣の糞を避ける印を刻んでいる。
道は、生き返りつつある。
「少し北に寄ったほうがいい」
コウキが言うと、ダグが斥候として走り出した。しばらくして戻ってきて、小さく頷いた。
「獣の匂いはない。水場も北側が近い」
アレクが隊列に合図を送る。隊商はゆっくりと列を傾け、北寄りの道を進んだ。
セレナがコウキの横を歩いてきて、小声で言った。
「お前の勘、やっぱり前と違う」
「……そうかもしれません」
「前は獣を避ける勘だった。今は水を見つける勘だ。どっちも同じくらい大事だが、水のほうが長く役に立つ」
セレナは言葉を切って、前方を見た。
「これから先、もっと変わるのか」
「わかりません」
コウキは正直に答えた。観測装置と同期してから、常時弱感知の「見え」が明瞭になった。だがそれがどこまで成長するのか、何ができるようになるのか、自分でもわからない。
セレナは小さく笑った。
「そういうのは、わからないまま使えるようになるものだ」
コウキは少し考えた。確かにそうかもしれない。
午前の半ばを過ぎたころ、前方に窪地が見えてきた。
三つ岩集落。
半年前、旧街道を西へ進んだとき、最初に訪れた小さな集落。二十年間孤立し、水脈の復活で外と繋がった場所。
集落の門前で、長老ユラが待っていた。
白髪の老人は、隊商の姿を認めると深く頷いた。
「また来たか」
「約束しましたから」
アレクが前に出て、答えた。
「旧街道は復活しました。これからも隊商が通ります」
ユラの目が細くなった。それが涙なのか、笑みなのか、コウキにはわからなかった。
「二十年だ。二十年、この窪地にいた。水が枯れて、誰も来なくて、もう一生ここで終わると思っていた」
老人の声は震えていた。
「道が繋がるというのは、こういうことなのだな」
隊商の何人かが、黙って頭を下げた。
ユラは息を整えてから、言った。
「また来てくれ。お前たちが来ると、ここが世界と繋がっている気がする」
アレクが頷いた。
「必ず」
ユラは門の前で深々と頭を下げた。
三つ岩集落を出て、隊商はさらに東へ進んだ。
草原が広がっている。背の低い草が風に揺れ、遠くに標塔が光る。その間隔、その位置が、コウキには意識の端で読み取れる。
ナクロが隣を歩いていた。いつも通り、帳面を手に持っている。
「石積みからここまで、道標が十二ヶ所あった」
「そんなにあったのか」
「半年前に俺が積んだのが八ヶ所。残りの四ヶ所は、誰かが新しく積んだものだ」
ナクロは帳面に印をつけて、顔を上げた。
「道が使われている証拠だ。俺たちの他にも、この道を通る者がいる」
コウキは前方を見た。旧街道は、確かに生き返りつつある。石積みの里と三つ岩の間を、誰かが行き来している。
「道を残すって、こういうことなんだな」
「そうだ」
ナクロは短く答えた。
「一人が積む。もう一人が直す。また誰かが通る。それで道になる」
彼は帳面を閉じた。
「タケルさんが言っていた。測量隊は組織が消えたが、道と記録は残った。それが正しかったのかどうか、わしにはわからないと。でも俺は思う。残して良かったんだ」
コウキは頷いた。
「俺もそう思う」
標塔が風の中に立っている。この船が造られた日から、ずっとそこにある骨格だ。
人は消える。だが、残したものは残る。
夕刻、中継所跡に到着した。
小高い台地の上に広がる平地。半年前、ここを訪れた時、柵は半壊し、井戸だけが残っていた。今は違う。
柵は新しい木材で補修され、井戸の周りは石が積み直されている。広場の隅には掲示板の枠——半年前にはなかったものだ。
「誰かが整備したのか」
ルウが声を上げた。
「隊商だろう」
セレナが答えた。
「この道を使う者が増えれば、こうなる。当たり前のことだ」
トメが掲示板の枠に近づいて、木の板を確認した。
「草壁から一行、十日前に通過。石積みの里から商人、五日前」
トメは帳面に書き写して、顔を上げた。
「道が繋がっている。本当に」
コウキは井戸の縁に座って、空を見上げた。標塔が三本、視界に入る。その先に疑似天体層——星を映すスクリーン。
ダグが水を汲んで、コウキに革袋を渡した。
「飲め」
「ありがとう」
水は冷たくて、少しだけ鉄の味がした。地下深くから湧いた、この土地の水。
ダグは井戸の縁に腰を下ろした。普段は寡黙な斥候が、めずらしく言葉を継いだ。
「前にここを通った時、お前は井戸の水を飲んで、うまいと言った」
「覚えてます」
「あの時と今で、何が変わった」
コウキは水袋を見つめた。
「……水が見えるようになった」
「見える?」
「地面の下を流れる水脈が、青い線として見える。井戸がどこに水を引いているか、どこから湧いているか。それが意識の端にある」
ダグは黙って頷いた。
「便利だな」
「そうですね」
「だが怖くもある」
ダグは水袋の蓋を閉めた。
「見えすぎると、見たくないものまで見えるようになる」
「……はい」
コウキは正直に答えた。水脈が見える。標塔が見える。そして銀の船が見える。その先に何があるのか、まだわからない。
「怖いのか」
「少し」
「なら、俺が先に行く」
ダグは短く言った。
「斥候の仕事は、危ないものを先に見つけることだ。お前の目が見すぎる前に、俺の目が先に見る」
コウキは顔を上げた。ダグは表情を変えずに立ち上がった。
「お前は一人じゃない。アレクがそう言った」
「……ありがとうございます」
「礼はいらん」
ダグは井戸から離れて、柵の外へ歩いて行った。見張りを兼ねた夜回りだろう。
焚き火の傍で、ルウが乾燥肉を齧っていた。
コウキが座ると、ルウは肉を一切れ渡してきた。
「食え」
「ありがとう」
肉は固くて、噛むのに時間がかかった。ルウは火を見つめたまま、ぽつりと言った。
「明日か明後日には森の端に着く」
「そうだな」
「お前の故郷だ」
「ああ」
「半年ぶりか」
「うん」
ルウは肉を飲み込んで、続けた。
「家族は元気かな」
「わからない。でも、多分元気だ」
「そうか」
ルウは少しの間黙ってから、言った。
「銀の船を開けた後、何が出てくるかわからない」
「……そうだな」
「それでも行くか」
「行く」
コウキは迷わず答えた。
「一人じゃないから」
ルウは顔を上げて、コウキを見た。
「お前、それ何度も言ってるな」
「みんなが何度も言ってくれるから」
コウキは笑った。
「だから本当だと思えるんだ」
ルウは少しの間、何も言わなかった。それから、小さく笑った。
「そうか」
彼は火に薪を一本投げ込んだ。炎が大きくなり、夜の闇を押し返す。
「じゃあ、俺も言っとく」
ルウはコウキの肩を叩いた。
「お前は一人じゃない」
「……うん」
「で、俺も一人じゃない」
「当たり前だろ」
二人は笑った。火の向こうで、アレクが小さく頷いているのが見えた。
翌朝、隊商は中継所跡を発った。
ナクロが掲示板に道標の情報を書き込んでから、最後に柵の門を閉めた。
「次に来る者のために」
彼はそう言って、隊列に加わった。
コウキは東を見た。草原の向こうに、巨大なシダの森が見える。あの森の端に、自分の故郷がある。
そしてその奥に、銀の船が眠っている。
風が吹く。草原を渡る、冷たく乾いた風。
コウキは歩き出した。隊商の列の中で、仲間たちと共に。一人ではない。この風の先に、答えがある。
標塔が朝日に光っている。その柱の向こうに、道は続いている。




