19_石積みの里
三つ岩を出て二日目の朝、道標が途切れた。
最後の石積みの塚は半分が崩れ、草に埋もれかけていた。ナクロが立ち止まり、しばらくそれを見つめてから、黙って石を積み直す。この二日間で、ナクロが手を入れた道標は八つになる。
「ここから先、道標の間隔が広くなってる」
トメが羊皮紙に書き込みながら言った。歩幅を数え、距離を計算し続けている。
「旧街道の末端に近いんだ。二十年どころか——五十年前に放棄された区間かもしれん」
コウキは荷車の横を歩きながら、前方に意識を向けた。常時弱感知——感覚の蛇口をほんの少しだけ開いたまま、漏れてくる気配を拾い続ける。
獣は少ない。南に小さな気配がいくつか。北にはほとんど何もない。北西の沼地に集まっていた重い塊は、昨日よりもさらに薄くなっている。水が分散し始めて、獣も散り始めている。
そして、西に——。
人の気配。三つ岩よりも小さいが、確かにある。百五十ほど。
「前方に集落があります」
コウキがアレクに伝えると、アレクは短く頷いた。
「ダグが先に出ている。報告を待つ」
昼前、ダグが戻ってきた。肩に革袋を担いでいて、中から羽根が覗いている。
「山鳥が二羽。丘の南斜面にいた」
ダグが袋をセレナに渡しながら報告する。
「それと、前方に集落。規模は小さい。百五十くらい。石の建物が多い。柵はあるが、そこまで厳重じゃない」
「人は?」
「見張りが一人。こっちに気づいてたかもしれない。手を振られた」
トメが笑った。
「手を振られるのは、歓迎されてるのか、珍しがられてるのか」
「どっちでもいい。殺気はなかった」
ダグは素っ気なく言い、水筒の水を飲んだ。
午後、草原の中に不自然な地面が現れた。
ナクロが最初に気づいた。馬を止め、地面にしゃがみ込む。
「石の基礎です」
草の間から、整然と並んだ切石が覗いていた。自然のものではない。人の手で切り出され、水平に組まれた石組み。風雨に晒されて角が丸くなっているが、構造は崩れていない。
「何の建物だ?」
セレナが訊く。ナクロは石の表面を指でなぞった。
「古いです。百年以上。——でも石の質がいい。銀崖のものとも違う」
トメが記憶を辿るように目を細めた。
「測量隊の中継拠点だ。大昔——二百年以上前に、世界の測量を行った集団がいた。その拠点の跡だろう」
「測量隊?」
コウキが訊き返す。トメは頷いた。
「世界の大きさを測り、地図を作ろうとした人々だ。今はもういない。組織は崩壊し、記録もほとんど残っていない・・・と聞いたことがある」
コウキは石の基礎に手を触れた。冷たく、硬い。百年以上前の人々が、ここに拠点を構え、世界を測ろうとした。その石だけが残っている。
感覚を向けると、石の下に——何もなかった。ただの地面。だが、この石を積んだ人々がかつてここにいたことは、確かだ。
西の空に、標塔が何本も聳えていた。午後の光を受けて銀色に輝く巨大な金属の柱が、天を支えるように並んでいる。近いものほど太く、遠いものは細い線のように霞んで見えた。何千年経っても変わらないその姿を、測量隊もきっと目印にして旅をしたのだろう。
「あの標塔の手前だ。もう少し進めば見えてくる」
ダグが、西に聳える一本を指さした。
それから半刻ほど歩いたころ、草原の先に石造りの建物が見え始めた。
* * *
石積みの里は、古い石の基礎の上に木造の家屋を載せた、不思議な集落だった。
基礎だけは測量隊時代のもので、壁と屋根は木と草で新しく作られている。古いものと新しいものが、継ぎ接ぎのように共存していた。
門は開いたままだった。柵は低く、草壁集落のような二重構造ではない。獣の脅威が比較的少ないのか、それとも別の理由があるのか。
門の前で、白髪混じりの男が待っていた。六十代。穏やかな顔だが、目だけは鋭い。
「来ると思っていた」
男は静かに言った。
「遠くから見えていた。七台も荷車を連ねた一行は、この辺りでは珍しい」
アレクが頭を下げた。
「風渡りの商隊、隊長アレクです」
「カシマ。この里の長をやっている。——中へ」
広場は測量隊時代の石畳がそのまま残っていた。隙間から草が生えているが、足元はしっかりしている。
集落の人々が家屋から出てきた。三つ岩のような涙ぐむ反応ではなく、静かな好奇心。子どもたちは遠巻きに荷車を見つめている。大人たちは隊商の荷を確認するように目を走らせた。
「三つ岩と違って、落ち着いてるな」
ルウが小声で言った。
「完全に孤立してたわけじゃないんだろう」
コウキが答えると、ルウは眉を上げた。
「よくわかるな」
「勘です」
「いつもそれだ」
トメが広場の中央に荷を降ろし、交易の準備を始めた。カシマが近づき、静かに品物を見渡す。
「塩があるのか」
「ある。他にも鉄釘、荊棘の種、火打ち石。何が必要だ?」
「塩は——ありがたい。うちは海水を煮詰めて塩を作っているが、手間がかかる。他は……」
カシマは少し考えた。
「こちらから出せるものがある。見てくれ」
カシマが案内したのは、広場の隅にある石造りの小屋だった。中には木箱がいくつか積まれている。
箱を開けると、中に薄い石板が並んでいた。表面に細かい文字と図が刻まれている。
トメが息を飲んだ。
「これは——」
「測量隊の記録だ。この里が中継拠点だった時代のもので、先代が保管していた。読める者はもういないが、価値はあるだろうと」
トメは石板を一枚、慎重に持ち上げた。指で文字をなぞる。
「古い字体だが……読めなくはない。これは——地形の記録か。数値が並んでいる」
コウキは石板に目を落とした。細かい線と数字。世界を測ろうとした人々の、記録の断片。
ルインなら読めるだろう。地図屋の彼女なら、この記録がどんな意味を持つか、すぐにわかるはずだ。
「これは——値がつけられない」
トメが静かに言った。
「だが、それでは交易にならない。塩二袋と鉄釘十本。それでどうだ」
カシマは微かに笑った。
「十分だ」
* * *
夕食は、広場の焚き火を囲んで行われた。
ダグが狩った山鳥と、ルウが道中で見つけた野生の根菜を煮込んだ汁物。それに集落の女たちが焼いた平たいパン。保存食ばかりの日が続いていた隊商にとって、温かい汁物は格別だった。
ナクロが集落の石造建築を見て回り、興奮気味に戻ってきた。
「すごいです。基礎の石組みが二百年以上持ってる。接合部に何か特殊な詰め物がしてあって、それが石同士を固定してるんです。銀崖にはない技術です」
「測量隊の技術か」
アレクが訊く。ナクロは頷いた。
「今の集落の人たちが使ってる技術とは、明らかに違います。古い技術のほうが——高い」
沈黙が落ちた。失われた技術。かつてはもっと高度な知識と技術を持つ人々がいて、世界を測り、拠点を築き、そして消えた。
焚き火が小さくなり、子どもたちが寝静まった頃、カシマがアレクとコウキの傍に腰を下ろした。
「一つ、聞いてもいいか」
アレクが頷く。
「あんたたちは、西の方角から来た。旧街道を辿って。——なぜだ?」
「北の主要の道が獣で塞がれた。旧街道は代わりの道として使えると判断した」
「獣か」
カシマは頷いた。
「この辺りでも、半年前から獣が増えた。だが、不思議なことに——うちの柵は襲われない。通り過ぎていくだけだ」
「三つ岩でも同じことを聞きました」
コウキが言うと、カシマは目を細めた。
「三つ岩は生きていたか」
「ええ。長老のユラさんが」
「ユラか……。二十年前に最後に会ったきりだ。元気か」
「はい」
カシマは深く息をつき、焚き火の炎を見つめた。
「それを聞けただけでも、あんたたちが来てくれた甲斐がある」
間を置いて、カシマが続けた。
「この里には、もう一つ話がある。——森の人のことだ」
コウキの背筋が伸びた。アレクも静かに顔を上げる。
「森の人?」
「十年ほど前から、年に一度か二度、西の森から人が来る。一人だけだ。名前は名乗らない。薬草と——紙に書かれた何かを持ってきて、塩や保存食と交換していく」
「紙に書かれた何か?」
トメが身を乗り出した。
「数字と線が書かれている。測量隊の記録に似ているが、もっと新しい。——あの石板と同じ種類のものだと思う」
カシマは焚き火の向こうを見た。
「森の人は、人間だ。だが、普通の人とは何かが違う。世界のことを、よく知っている。水の流れがなぜ変わるのか、獣がなぜ動くのか。そういうことを、当たり前のように語る」
コウキとアレクが目を合わせた。
測量隊の生き残り。
言葉にはしなかったが、二人の間で同じ考えが通じた。
「森の人が最後に来たのは、いつですか」
コウキが訊く。
「三ヶ月前だ。——いつもより間隔が短かった。何か急いでいるようだった」
カシマは少し声を落とした。
「あの人は『世界が変わり始めている。気をつけろ』と言い残して帰った。それきりだ」
* * *
夜の見張りに立ったコウキは、西の空を見上げた。
星が静かに散らばっている。昼間見えていた標塔は夜の闇に溶け込んでいるが、月明かりの中に金属光沢がかすかに光っている。
コウキは西の方角に感覚を向けた。
集落の人々の温かい気配を通り過ぎ、柵の外へ。草原を越え、その先にある森の輪郭へ。
森は暗い。獣の気配がいくつか、木々の間に散っている。だが、その奥に——。
コウキは息を止めた。
金属の気配。
冷たくて、規則的で、ずっとそこにあるもの。生物ではない。水脈でもない。石でもない。
人が作ったもの。
測量隊の中継拠点の石の基礎とは違う。もっと複雑で、もっと——生きている、とでも言うべきか。動いてはいない。だが、止まっているのでもない。待っている。
何を?
コウキは感覚を閉じた。頭の奥がじんと痺れる。広げすぎた。
「どうした」
隣で見張りに立っていたダグが訊いた。
「……西の森の中に、何かあります」
「獣か」
「いいえ。獣じゃない。——人が作ったもの、だと思います」
ダグは眉を上げたが、それ以上は訊かなかった。斥候の流儀だ。「確認できないものは、保留する」。
「明日、アレクに報告しろ」
「はい」
コウキは再び西の空を見た。
森の奥に、何かがある。
森の人——測量隊の生き残りが、そこで暮らしている。
そして、その人が持っている知識は、この世界の秘密に繋がっている。
コウキの中の「何か」は、その金属の気配に反応した。まるで、同じ言葉を話す者同士が遠くで出会ったかのように。
自分の力がどこから来たのか。
この世界が何なのか。
答えが、あの森の中にある。
コウキはそう感じた。
ルウが交代に来た。
「何かあったか」
「森の中に……何かがあります。金属の、人工物みたいなもの」
ルウは口笛を鳴らした。
「森の人の家か」
「わかりません。でも——」
コウキは言葉を探した。
「自分の中の力と、何か繋がっている気がしました。初めてです。獣でも水脈でもなく、人が作ったものに反応したのは」
ルウは腕を組んだ。
「お前の力が、人間が作ったものと繋がってる。——それは、お前の力も人間が作ったもの、ってことか?」
コウキは答えられなかった。
だが、その問いは、胸の奥に深く刺さった。
東の空が白み始める頃、コウキは焚き火の前で目を閉じた。
自分の中の力。森の奥の金属の気配。測量隊の記録。神代の船。
すべてが、少しずつ繋がろうとしている。
まだ全体の形は見えない。だが、糸の端を掴んだ。
あとは、辿るだけだ。




