18_旧街道の先
中継所跡を発つ朝、空は白く明るかった。
掲示板に書き込まれた黒い文字が、湿った風に晒されてゆっくりと滲んでいく。トメは立ち止まって振り返り、その文字を見つめる。
「誰かが読むかな」
ルウが訊く。トメは肩をすくめた。
「読む奴がいるかどうかじゃない。書き残したかどうかだ」
荷車の列がゆっくりと動き始める。柵の修復跡と、石組みの井戸が小高い丘に残っていく。ナクロが最後まで振り返っていた。
「また来ますか?」
アレクが頷いた。
「使えるなら、使う。道は誰かが通らなければ消える」
旧街道は、草原の中をゆるやかに西へ続いていた。
道標の石積みは規則正しく並び、時折、崩れかけた塚をナクロが黙々と積み直す。トメが歩幅を数え、距離を記録している。西の空には標塔が一本、巨大な金属の柱として天に伸びている。あの標塔を目印に、旧街道は西へと続いている。
コウキは荷車の横を歩きながら、常時弱感知を続けている。周囲の獣の気配——密集する北西の沼地の重たい塊と、南へ散っていく小さな点。そしてもう一つ。
西。
人の気配。
昨夜よりもはっきりしている。何十という数ではない。百、いや、二百ほどか。小さな集落。生きている。
「どうだ」
アレクが横に並んで訊く。コウキは目を閉じて、もう一度遠くを辿った。
「西に、人の気配です。集落だと思います。昨日より近い」
「距離は」
「……半日」
アレクは短く頷き、前方を見た。ダグがすでに先行偵察に出ている。
昼を過ぎたあたりで、ダグが戻ってきた。
「集落、あります」
短く報告する。アレクが身を乗り出した。
「状態は」
「生きてます。柵も、人も。規模は小さい。二百くらいか。石と木の混在。見張りもいます」
セレナが眉を上げた。
「旧街道沿いなのに?」
「ええ。二十年前から、そのままいたんでしょう」
トメが息を呑む。
「孤立してたのか……」
三つの巨大な岩を目印に、集落は旧街道沿いの窪地に築かれていた。背後には標塔が聳え立ち、集落を見下ろしている。二十年間、この集落を見守り続けた巨大な柱。
柵は低いが補修の跡が見える。家屋は平たく、風を避けるように地面に這いつくばっている。見張り台に立つ人影が、隊商の荷車を見て何度も手を振っている。
門が開いた。
長老らしい白髪の老人が、杖をつきながら歩み出てきた。顔は皺に刻まれ、目の奥に深い疲労が宿っている。だがその目は、明るかった。
「隊商か……」
老人は呟き、声を震わせた。
「二十年……二十年ぶりだ」
アレクが荷車から降り、深々と頭を下げた。
「風渡りの商隊、隊長アレクです。この道がまだ使えることを知りませんでした。遅れて申し訳ない」
老人は首を振った。
「来てくれた。——ユラという。この集落、三つ岩の長だ」
集落の広場には人々が集まり、子どもたちが荷車の周りを走り回っている。大人たちは隊商を遠巻きに見つめ、中には涙ぐんでいる者もいた。
トメが広場の中央に立ち、声を張った。
「塩、鉄、荊棘の種、火打ち石、乾燥保存食を持っている。交換で譲ろう。何か出せるものはあるか?」
集落の人々は顔を見合わせた。ユラが前に出る。
「麻布がある。それと、薬草の乾燥粉末。あと……」
老人は少し躊躇い、続けた。
「骨甲細工の半製品が少し。昔、隊商と交換するために蓄えていたものだ」
トメは頷いた。
「見せてくれ」
夕刻、交易は静かに進んだ。
コウキは広場の端で荷物の整理を手伝いながら、集落の人々の顔を見ていた。どの顔にも、安堵と喜びが混ざっている。
ナクロは集落の井戸を見に行き、戻ってきた時には目を輝かせていた。
「井戸、生きてます。水脈、戻ってきてる」
「戻ってきた?」
コウキが訊き返す。ナクロは頷いた。
「石組みの跡を見ると、昔は枯れてたんです。でも今は、水が湧いてる。半年くらい前からじゃないかな」
コウキは立ち上がった。
「井戸を見せてもらえますか」
集落の井戸は、広場から少し離れた場所に築かれていた。
石組みは古く、ところどころに補修の跡が見える。コウキは井戸の縁に手をかけ、深く息を吸った。
感覚を、開く。
地下深くに、水脈が走っている。
青い線——冷たく、静かな流れ。以前、コウキが感じ取った北西の沼地への一本の太い流れとは違う。この水脈は、細く、だが確かに南から北へ流れている。
そして、その流れは動いている。
ゆっくりと、少しずつ、枝分かれしながら。
「……戻ってる」
コウキは呟いた。
「水が、分かれ始めてる」
ナクロが隣で頷いた。
「やっぱり」
夜、焚き火を囲んでアレクとユラが向かい合った。コウキとルウ、トメ、セレナも同席している。
「水が戻ったのは、半年前です」
ユラが語る。
「それまでは、井戸は枯れてはいなかったが、ぎりぎりでした。塩も——集落から北に半日歩いた岩山に岩塩の層があり、そこを削って何とか凌いできました。隊商が来なくなってから、ずっとそうしてきた。だが、ある日から、水の量が増え始めた。最初は気のせいかと思ったが……今ははっきりとわかる」
「獣は?」
アレクが訊く。ユラは頷いた。
「前は、柵の外で見かけることはほとんどなかった。だが半年前から、増え始めた。ただ……」
ユラは言葉を探すように間を置いた。
「柵を襲ってくることは、ない。通り過ぎていく。北西へ」
コウキの胸に、仮説が形をとった。
「水が移動している途中なんです」
コウキは静かに言った。
「北西に集まっていた水が、また元に戻ろうとしている。だから、獣も移動している。水を追って」
トメが眉をひそめた。
「じゃあ、沼地の獣の密集も……」
「一時的なものだと思います」
コウキは続ける。
「水が分散すれば、獣も散るんじゃないか」
アレクは腕を組み、しばらく黙っていた。
「……そうなれば、道も戻る」
ユラが訊く。
「この道は、また使われるようになりますか」
アレクは真っ直ぐにユラを見た。
「使います。次に来る時は、この道を使う。そして、他の隊商にも伝える」
ユラは目を閉じ、深く息をついた。
「ありがとう……」
焚き火が小さくなり、周囲が暗く静まった頃、ユラが不意に言った。
「あなたがた、東へ行くつもりはあるか」
アレクが顔を上げる。
「東?」
「ええ。この旧街道は、かつて東の森へも繋がっていました」
ユラは遠い目をした。
「森の奥には、伝承があります。神代の船が眠っている、と」
コウキの背筋が凍った。
神代の船——銀の船。
故郷の森の端で聞いた、禁域の伝承。
「銀の船、ですか」
コウキが訊く。ユラは頷いた。
「ええ。空から落ちた銀の船。森の奥深く、誰も近づかない場所に眠っていると言われています」
コウキは、自分が捨て子として見つかった経緯を思い出した。一歳の時、森の端の近くに置かれていた。誰が、なぜ。
そして、今、自分の体の中にある「何か」。
遠くを感じ取る、名前もわからない力。
もし、それが船と関係しているのだとしたら。
アレクがコウキの顔を横目で見た。
「東の森は、どこから入れる?」
「かつては、この集落から北東へ三日ほどの場所に入口がありました。だが、今はどうか……」
ユラは静かに続けた。
「森へ行く者は、いません。禁域ですから」
見張りに立った夜、コウキは西の空を見上げた。
星が静かに瞬いている。
ルウが横に立った。
「神代の船、か」
「ええ」
「お前、気になってるだろう」
コウキは頷いた。
「自分の中の……この力が、どこから来たのか。もしかしたら、船に関係しているんじゃないかって」
ルウは腕を組んだ。
「アレクに言うか?」
「……まだ、わからない」
コウキは呟いた。
「でも、いつか……知りたい」
ルウは肩を叩いた。
「お前が知りたいなら、俺もついていくさ」
翌朝、隊商は三つ岩を発った。
ユラと集落の人々が門の前で手を振っている。子どもたちが走ってきて、荷車に手を伸ばした。
ナクロが井戸の石組みを最後まで見つめていた。
「また来る」
彼は呟き、荷車に乗った。
道標の石積みが、草原に点々と続いている。
コウキは振り返り、三つ岩の集落が遠ざかるのを見た。
そして、東の方角に目を向けた。
森の端。
神代の船。
自分の出自。
まだ、遠い。
だが、いつか——。
荷車の揺れの中で、コウキは目を閉じた。
地下深くで、水脈がゆっくりと枝分かれしていく。
北西の沼地へ集まっていた流れが、少しずつ、元の形に戻ろうとしている。
それはまるで、世界が息を吹き返そうとしているようだった。
そして、その変化の中で、コウキ自身も、何かに近づいている。
まだ見えない答えに向かって。




