16_西風の草原
風が変わった。
草壁集落を出て二日目の午後。西からの乾いた風が、草原を横殴りに吹き抜けていた。草の穂先が一斉に東へなびき、波のように揺れる。だが、その波は低い。膝丈にも届かない。
「この辺り、昔はもっと草が高かったはずだ」
セレナが馬の背の上から辺りを見回して言った。
「腰まで埋まるような草原だった。十年前にこの辺りを通ったとき、視界が利かなくて苦労した覚えがある」
「今は見通しが良すぎるくらいですね」コウキは答えた。
「草が低いのは水が減っている証だ」
ディンが荷車の横から口を挟んだ。馬の手綱を引きながら、足元の土を靴の先で軽く蹴る。表面は乾いて白っぽく、ひび割れている。
「土が乾いている。ここ数年で水の流れが変わったんだろう」
水脈の変化——地図屋のルインが指摘し、渡し場のタケルが証言したことだ。それがここでも起きている。
コウキは感覚を薄く開いたまま歩いていた。
息をするように自然にできるようになった常時弱感知。遠くの気配がかすかに伝わってくる。草の下を走る小さな獣の動き。上空を旋回する鳥の影。そして——進路上には大きな獣はいない。少なくとも、今のところは。
だが、北のほうに、何かがある。
ぼんやりとした塊。獣の気配が集まっている場所。帯状に流れているのではなく、一箇所に留まっている。これまでに感じたことのない形だった。
「どうした」
隣を歩いていたルウが、コウキの顔を覗き込んだ。
「……いや、まだわからない。北のほうに、何かいる。いつもと違う感じがする」
「いつもと違う?」
「獣が——流れていない。溜まっている」
ルウは眉をひそめたが、それ以上は聞かなかった。コウキの言葉を、そのまま受け止めている。
* * *
三日目の朝、ダグが斥候から戻ってきた。
「北西に沼地がある。大きい。……そして、その周囲の獣の痕跡が尋常じゃない」
ダグの報告は簡潔だった。だが、その顔は険しい。
「足跡が重なりすぎていて、地面が踏み荒らされている。一種類じゃない。角顎、棘背、走り牙——少なくとも三種類は確認した。それが全部、沼地の周りに集まっている」
アレクは地面に棒で簡単な地図を描いた。現在地。北西の沼地。予定していた西への直進ルート。
「直進すると、沼地の南端をかすめる」
「かすめるだけでも危険だ」ダグが言った。「あの密度は、見たことがない」
アレクがコウキを見た。
「感じているか」
「はい」コウキは頷いた。目を閉じて、感覚をほんの少しだけ広げる。普段の弱感知よりも、もう一段だけ。
北西の方角に——重い。
獣の気配が、固まりになっている。個々の輪郭は読めない。だが、その総量は、これまでに感じたどの集団よりも大きい。
「……たくさんいます。二十——いや、もっと。数えきれない。沼の周りに固まっている」
感覚を閉じた。頭の奥がわずかに痛む。広げすぎないように。
アレクの判断は早かった。
「南に迂回する。沼地には近づかない」
セレナが頷いた。トメが帳簿を開き、食料の残りを確認する。
「南回りで何日延びる」
「半日から一日。食料はまだ持つ。草壁で補給した分がある」
「ならば惜しむ理由はない」
隊商は進路を南に変えた。
* * *
南に逸れて半日。
荒れた草原を黙々と進む中で、ナクロが足を止めた。
「あれ——何だろう」
草の中に、小さな石の塚があった。膝ほどの高さ。平たい石が三段に積まれ、一番上の石に矢印のような刻み目がある。風雨で半ば崩れかけていたが、人の手によるものだということは明らかだった。
「道標だ」
トメの声が、後ろから聞こえた。足早に近づいてきて、石の塚の前にしゃがみ込む。刻み目を指でなぞった。
「南の旧街道の道標だ。知っている。——二十年前まで使われていた交易路だ」
「二十年前?」
「ああ。この辺りに水場があったんだが、枯れてからは使われなくなった。もっと北の、今の主要の道に移った」
トメは立ち上がり、西の方角を見た。
「だが、道自体はまだ残っているはずだ。旧街道は石を敷いた場所もあった。草に埋もれてはいても、地面の下には残っている」
アレクが足元を踏んだ。確かに、草の下の土が周囲と違う。硬い。踏み固められた跡。二十年分の草が覆っても、まだ消えていない。
「旧街道に沿って進めるか」
「方角は合っている。この先にもう一つ道標があるはずだ。そこから次の中継所——今は使われていないが——跡地まで三日」
ルウが息を吐いた。
「使われなくなった道が、今になって役に立つとはな」
「道は消えない」トメが言った。「使わなくなるだけだ。必要になれば、また見つかる」
旧街道を辿り始めると、確かに歩きやすくなった。
草の下に石を敷いた跡がところどころ残っていて、荷車の車輪が泥に取られにくい。獣の痕跡も少ない。沼地に引き寄せられた獣たちは北西に集まっていて、この辺りには降りてきていないようだった。
半刻ほど進んだところで、もう一つの道標が見つかった。こちらはさらに崩れていたが、トメは刻み目を読み取った。
「合っている。次の道標まで半日。中継所跡まで三日だ」
隊の中に、少しだけ安堵が広がった。見えない道を手探りで進んでいた不安が、道標の存在によって和らいでいる。
* * *
日が傾き始めた頃、旧街道沿いの小高い丘で野営の準備を始めた。
荊棘柵を巡らせ、荷車を並べ、馬を繋ぐ。もう何十回と繰り返してきた手順だ。コウキの手も、もう迷わない。
焚き火を囲んで夕食を取った。干し肉と穀物の粥。草壁で分けてもらった干し野菜が少し。質素だが、温かい。
食後、ナクロが黙って立ち上がった。
崩れかけた道標のところまで歩いていく。しゃがみ込んで、散らばった石を一つ拾い上げた。
手のひらで石の面を確かめる。平たい石を選び、崩れた塚の土台に据える。二つ目の石を重ね、三つ目を乗せる。石工の手つきだった。丁寧で、迷いがない。
コウキは近づいて、隣にしゃがんだ。
「直すのか」
「ああ」
ナクロは手を止めなかった。石と石の間に小さな石片を噛ませて、ぐらつきを抑えている。
「なぜ」
「俺たちが通ったことを残す」
ナクロの声は淡々としていた。
「次に誰かがこの道を通ったとき、道標があれば迷わない。——俺たちが沼地を避けて南に来たように、これからも北を通れなくなる隊商が出るかもしれない」
コウキは黙って見ていた。
タエが門柱に矢印を刻んだのと、同じだと思った。
後から来る者のために、痕跡を残す。振り返らずに歩いた人が、それでも刻んだ一本の矢印。崩れた道標を積み直す石工の手。
それが、道になる。
「手伝うよ」
コウキは地面から平たい石を拾った。ナクロが手を伸ばして受け取り、塚の四段目に据えた。
元の三段よりも、一段高くなった。
* * *
夜の見張りは、コウキとルウの番だった。
星が多い。月は半分ほど。風は止んでいて、草原は静まり返っている。
コウキは感覚を薄く広げた。
旧街道沿いの近くには、獣はいない。南の草原にも気配は薄い。だが、北西——沼地の方角には、あの重い塊がまだある。動いていない。大勢の獣が、水辺に居座っている。
「まだいるのか」ルウが聞いた。
「うん。動いていない。沼の周りに、ずっと」
「何であんなに集まるんだ。獣同士は普通、縄張りを争うだろう」
「……わからない。でも」
コウキは考えた。渡し場のタケルが言っていたこと。水位の変動。魚種の変化。ルインの地図に描かれた赤い点の分布——水源付近に集中していた。
「水かもしれない」
「水?」
「獣が水を追っているんじゃないかと思う。水脈が変わって、今まであった水場が枯れて、残った水場に集まっている。——あの沼地は、この辺りで一番大きな水源なんだと思う」
ルウは黙った。しばらくして、低く言った。
「水が減れば、獣が動く」
「獣が動けば、道が塞がる。道が塞がれば——」
「集落が孤立する」
二人は顔を見合わせた。
全部つながっている。水の変化が、獣を動かし、道を変え、集落を追い詰めている。ルインが地図の上で見ていたパターン。タケルが川で感じていた変化。ハギが柵の中で戦っていた脅威。それは全部、同じ一つの流れの中にあった。
見張りを交代する前に、コウキはアレクに報告した。
アレクは焚き火の傍で目を開けたまま横になっていた。眠ってはいなかったのだろう。
「沼地の獣は動いていません。水に集まっているみたいです。——獣が水を追っているのかもしれない」
アレクは体を起こした。
「水脈が変われば、獣が動く」
コウキが言おうとしたことを、そのまま言った。
「獣が動けば、道が変わる。道が変われば、集落が孤立する」
「……はい」
「お前が最初に嵐を感じたのは、いつだったか」
「"森の端"の集落を出て、三日目です」
「あのときお前は、空気の変化を感じた。今は水の変化を感じている。——お前の感覚は、少しずつ遠くを見るようになっている」
アレクの声は静かだった。
「旧街道の道標を直したそうだな。ナクロと」
「はい」
「いいことだ。道は——誰かが残さなければ消える。隊商が走る道も、門柱の矢印も、石積みの道標も。全部同じだ」
コウキは頷いた。
「明日も歩くぞ。旧街道を辿って、中継所跡を目指す」
「はい」
焚き火の炎が揺れた。風が戻ってきている。西からの乾いた風。だが、その風の中に——かすかに水の匂いがした。遠くの沼地から運ばれてきたのかもしれない。
コウキは毛布にくるまって目を閉じた。
感覚を閉じる。今はまだ、制御は完全ではない。だが、開くことと閉じること、その両方が少しずつ自分のものになってきている。
明日もまた歩く。道標を辿り、道を残し、つながりを運ぶ。
それが隊商の仕事だ。そして——今は自分の仕事でもある。




