15_南西の煙
煙が見えた。
薄く、白く、丘の向こう側から立ち上っている。焚き火の煙ではない。もっと太く、もっと安定している。調理の煙か、窯の煙か。どちらにせよ——人がいる。
コウキは感覚を細く開いたまま、その煙の根元を探った。温かさがある。生活の気配がある。廃集落で感じたあの空っぽの冷たさとは、まるで違う。
「アレクさん」
小声で呼んだ。アレクは前方を見つめたまま、頷いた。
「ああ。見えている」
ダグがすでに駆けている。半刻もしないうちに戻ってきた。
「集落がある。門柱に名前が刻まれている——『草壁』」
コウキの胸が跳ねた。あの門柱。廃集落の、最後まで立っていた太い柱。南西を指す矢印と、刻まれた名前。
「——あの集落の人たちが、移った先だ」
アレクが低く言った。隊の中に、小さなざわめきが広がった。
* * *
草壁集落は、丘の南斜面に築かれていた。
最初に目に入ったのは、柵だった。二重になっている。外側の柵は明らかに新しく、木の色が周囲と違う。杭の打ち方も荒い。急いで作ったのだろう。内側の柵は古く、手入れされた跡がある。こちらが元からの集落の境界だ。
見張り台が三基。丘の上に一つ、東西にそれぞれ一つ。いずれも木組みで、上に人影がある。こちらを見ている。
コウキは到着する前に、感覚を少し広げていた。
集落の安全圏が——感じ取れる。温かい空気の層のようなもの。人が暮らし、柵を築き、獣を追い払い続けることで生まれる、目に見えない壁。
だが、その壁は——狭い。
渡し場の集落でも感じたことだ。安全圏が縮んでいる。境界線の外側に、獣の気配が近い。待っている。柵を試すように、境界の縁をうろついている。
「止まれ!」
門の前で、若い男に止められた。手には木の槍。顔は緊張している。
「隊商だ。風渡りの商隊、隊長アレクだ」
アレクが前に出て名乗ると、若い男の顔が変わった。緊張が崩れ、その奥から安堵が溢れ出してきた。
「隊商——本当に隊商か」
「見ての通りだ。馬と荷車がある」
門番は振り返って、大声で叫んだ。
「隊商だ! 隊商が来たぞ!」
声が集落の中へ伝わっていくのが聞こえた。何人かが走ってくる足音。門が開かれ、中から五人、六人と人が出てきた。みな痩せていて、日に焼けて、目の下に隈があった。
だが、表情は——明るかった。
「やっと来てくれた」
白髪まじりの男が、アレクの手を握った。「半年ぶりだ。半年、誰も来なかった」
* * *
集落の長はハギという名の五十代の男だった。
痩せていて、顔の線が鋭い。だが、目の奥に芯がある。疲れ切ってはいるが、折れてはいない——そういう顔だった。
「北東の集落から、五十人以上が移ってきた。半年前だ」
ハギは集落の広場に設けられた木のベンチに腰を下ろし、アレクに説明した。
「食料は——何とかなっている。畑を広げた。だが、獣が増えた分だけ、柵と見張りに人手がいる。耕す者を減らして見張りに回している。綱渡りだ」
アレクは黙って聞いていた。セレナとトメが隣に座り、ハギの言葉を一つも漏らすまいとしている。
「移住者の代表に会ってもらいたい」
ハギが手を上げると、奥から一人の女性が歩いてきた。四十代。背筋が伸びていて、表情は穏やかだが、どこか張り詰めたものがある。
「タエです。北東の集落——あなたたちが通った廃集落の、元長老の娘です」
コウキの呼吸が止まった。
「門柱の矢印を刻んだのは、私です」
アレクが頷いた。「見ました。あの矢印がなければ、ここには来られなかった」
タエの表情がほんの少し揺れた。すぐに戻したが、目の縁が赤くなっていた。
「——ありがとう。見てくれた人がいたんですね」
コウキは何も言えなかった。あの集落を思い出していた。壊れた柵。残された食器。織りかけの布。子どもの人形。
ここにいる。あの集落を出た人たちが、ここにいる。
* * *
トメは集落の必要物資を聞き取りに回った。コウキもついていった。
「塩が足りない。荊棘の種も。——でも、一番切実なのは鉄だ」
ハギの補佐役の男が言った。
「柵の補強をしたい。今の木杭と石積みでも持ちこたえているが、鉄釘で骨甲板を固定すれば強度が段違いになる。移住したばかりで手持ちの鉄がなくて——鉄が手に入らない」
トメは帳簿を繰った。
「鉄釘は……少しならある。銀崖で仕入れた分の残りだ。多くはない」
「少しでもいい。今は少しが全部の差になる」
トメが頷いた。値段の交渉はしなかった。
集落を歩くと、二つの文化が混ざり合おうとしている跡が見えた。
ナクロが柵の石積み部分に手を触れて、目を細めた。
「……面白いな。元の集落の積み方と、北東から来た人たちの積み方が混ざっている。石の選び方が違う。向こうの人たちは硬い石を好む。こっちの人たちは平たい石を重ねる。それが交互に出てくる」
「うまくいっているのか」
「石積みは——うまくいっている。人間のほうは、わからないけど」
ナクロの声は淡々としていたが、目は真剣だった。二つの集落が一つになろうとしている。それが石積みの中に、そのまま現れている。
* * *
夜、歓迎の食事が用意された。
質素だった。穀物の粥に、干した野菜を戻したもの。川魚の塩焼きが少し。だが、温かかった。器も、人の手も、言葉も。
「すまないな。もっと出したいんだが」ハギが苦笑した。
「十分です」アレクが答えた。「腹が減っていたのはこちらも同じだ」
焚き火を囲んで、二つの隊——隊商と集落の人々が、向かい合うように座った。
食後、ハギがアレクに声を落として話した。
「獣の異変は、半年前から急激に悪化した。以前は柵の外で鳴き声がする程度だった。今は——柵に体当たりしてくる。月に二度、三度。先月は一晩に五頭が同時に来た」
「同時に?」
「そうだ。申し合わせたようにだ。別々の方角から」
アレクの表情が険しくなった。
「柵を二重にしても——いつかは破られる」ハギは焚き火の炎を見つめた。「問題は柵の外にある。獣が何に動かされているのか。それがわからない限り、俺たちは柵を積み続けるだけだ」
コウキは食事を終えたあと、集落の外壁に登った。
見張り台の横に、人ひとりが座れる場所がある。ルウが隣に来た。
夜の草原は暗く、静かだった。星は多いが、月は細い。
感覚を、薄く開いた。
集落の安全圏が——見える。温かい空気の壁。だが、それは円ではなく、いびつな形をしている。南側は丘に守られて厚い。東と西は柵でかろうじて保っている。北側が——薄い。
そして、その薄い北側の外に、獣が三頭、じっとしている。動かない。柵のすぐ外で、待っている。
「……いるな」
ルウも感じているのだろう。声が低い。
「三頭。北側。動いていない」
「お前の目は便利だな」
「目じゃない。——うまく説明できないけど」
しばらく黙って、暗い草原を見ていた。
「なあ、ルウ」
「ん」
「安全圏って——永遠じゃないんだな」
ルウは答えなかった。しばらくしてから、静かに言った。
「永遠のものなんてない。柵も、道も、集落も。——だから、続けるんだろう。壊れたら直して、直したら守って」
コウキは頷いた。言葉にならない何かが、胸の奥にあった。
見張りを交代する前に、足音がした。
振り向くと、タエだった。毛布を肩にかけ、暗い中をこちらに歩いてくる。
「——眠れなくて」
タエは外壁の下に立ち、コウキを見上げた。
「あなたは、あの集落を見たんでしょう」
「はい」
「……どんなふうだった」
コウキは少し考えた。嘘は言いたくなかった。
「柵は壊れていました。家屋も半分は傾いていた。——でも、食器は棚に並んでいて、織りかけの布が残っていて。争いの跡はなかった」
タエは目を閉じた。
「最後の日のことを覚えています」
声は静かだった。
「柵を直しても、直しても、三日と持たなくなった。父が——長老が、もう限界だと言いました。移ろう、と。みんなで荷をまとめて、朝に出発しました。私が最後でした」
「門柱に矢印を刻んだ」
「はい。——振り返りませんでした。振り返ったら、歩けなくなると思ったから」
風が吹いた。タエの髪が揺れた。
「でも——見てくれた人がいた。矢印を読んで、ここまで来てくれた人がいた。それだけで」
言葉が途切れた。タエは毛布の端を握りしめていた。
コウキは外壁から降りて、タエの前に立った。
「あの集落の井戸は——まだ生きていました。水が出ました」
タエが顔を上げた。
「隊のみんなで水を汲みました。馬にも飲ませました。——あの集落は、まだ誰かの役に立っています」
タエは何も言わなかった。ただ、ゆっくりと頷いた。目の縁が光っていた。
* * *
翌朝、隊商は出発の準備を始めた。
トメが帳簿を閉じながら言った。
「鉄釘を二十本。塩を一袋。荊棘の種を三握り。——掛けだ。次に来たとき、清算する」
ハギが深く頭を下げた。
「必ず返す」
「返さなくていい。——次に来たとき、水を一杯もらえればそれでいい」
トメの声は淡々としていたが、帳簿を閉じる手が少し震えていた。
門の前で、タエがアレクに声をかけた。
「西の方に向かうなら——気をつけてください。ここに来る途中、西の草原で獣の群れを見ました。半年前のことですが」
「わかった。ありがとう」
コウキは門柱の横を通りながら、その表面に触れた。ここの門柱にも、刻み文字がある。「草壁」という名前と、人口と、そして——最近刻まれたらしい数字。五百五十三。移住者を含めた、今の集落の人口だろう。
数字は正確で、深く刻まれていた。ここにいる、という宣言のように。
隊商は西へ向かって歩き出した。
振り返ると、門の前にタエが立っていた。手を上げて、振っている。その横に、何人かの子どもたちがいた。
コウキも手を上げた。
門柱に刻まれた矢印は、もう必要ない。この集落は、生きている。壊れた柵を直し、新しい柵を築き、二つの集落が一つになろうとしている。
安全圏は縮んでいる。だが、その中で人は暮らしている。暮らし続けようとしている。
それだけで、十分だと思った。
まだ足りないものはたくさんある。鉄も、塩も、荊棘の種も。そして何より——情報が足りない。獣が何に動かされているのか。安全圏が縮んでいる理由は何か。水脈の変化と、獣の移動と、集落の孤立。それらは全部つながっているはずだ。
コウキは前を向いた。感覚を、少しだけ開いたまま。
次の中継所まで、あと何日かかるかわからない。だが、歩き続ける。感じて、報告して、運んで、つなぐ。
隊商が運んでいるのは、物資だけじゃない。
トメの言葉を思い出す。隊商が運んでいるのは——つながりだ。




