14_丘陵の南麓
三日目の朝は、霧が出ていた。
丘陵の南麓に沿って西へ向かう道は、草が膝まで伸びた不整地だった。普段の交易路ではない。通った隊商がほとんどいない場所だ。
馬が草を踏む音だけが、霧の中に響いている。
コウキは荷車の横を歩きながら、感覚を——ほんの少しだけ開いていた。
蛇口を一滴分だけ回す。漏れてくる気配を拾い、異常がなければそのまま歩く。異常があれば閉じて、報告する。渡し場を発ってからずっと、そうしている。
鼻血は出ていない。頭痛もない。この「漏れを拾う」やり方は、体への負担が軽い。遠くまで探ろうとすると感覚が暴走するが、近くだけを薄く感じている分には、息をするのと同じくらい自然にできるようになってきた。
南西——何もない。風だけ。
西——草原。遠くに水の気配。川か、湧き水か。
北——丘陵の向こう側に、獣がいくつか。動いている。だが、こちらには向かっていない。
大丈夫だ。今のところは。
道の脇に、低い灌木の群れが続いている区間があった。荊棘だ。棘が鋭く、馬が近づこうとしないやつだ。
「止まれ」
アレクが声を上げ、隊が立ち止まった。トメが灌木を覗き込み、実のついた枝を確かめる。
「実がついている。種が採れる」
全員で手分けして、棘に気をつけながら実をもいだ。量は多くないが、布袋にひと握り分ほどになった。
「次の集落は、柵を育てたがっていた」トメは布袋を荷車に積みながら言った。「これで少し足しになる」
隣を歩くナクロが、小さく息を吐いた。
「腹が減ると、人は静かになるんだな」
コウキは周りを見た。確かに、隊の誰もが黙って歩いている。朝の配食は干し肉と、水で溶いた穀物粉の粥だった。渡し場を出る前にトメが行程を計算し直した結果、質より量を優先した構成だ。
「迂回で三日分の日程が延びた」とトメは言った。「食料は問題ない。ただ道中で狩りの機会が減るから、保存食を早めに消費することになる」
「ナクロは——大丈夫か」
「飢えてるわけじゃないけど。——でも、馬が可哀想だ」
ナクロが前を歩く馬の背を見た。荷を積んだ馬は、黙々と歩き続けている。
「馬は偉いよ。文句も言わずにちゃんと歩く」
「人間も歩いてるだろ」
「人間は文句を言う。馬は言わない」
コウキは少し笑った。ナクロも笑った。
* * *
昼過ぎ、ダグが前方から戻ってきた。
「報告。西に七、八町ほど先——集落の痕跡がある」
アレクの顔が引き締まった。
「集落? この辺りに集落があるとは聞いていない」
「小さい。柵があるが、壊れている。人の気配はない」
沈黙が落ちた。セレナが口を開いた。
「水場は?」
「未確認。だが、集落があるなら井戸はある可能性が高い」
アレクはトメを見た。トメが頷いた。水は食料以上に切実な問題だった。
「寄る。全員、警戒を緩めるな」
その距離を、隊商は慎重に進んだ。
コウキは感覚を少し広げた。前方に——人の気配はない。温かさがない。生活の匂いがない。
代わりに、獣の痕跡がある。古いものと新しいものが混ざっている。ここを通り道にしている獣が、複数いる。
「……人はいません。獣の痕跡が多いです」
アレクに小声で報告した。アレクは頷いただけだった。
集落は、丘陵の裾野にあった。
木と石で組まれた柵が、半円形に集落を囲んでいる——いた。今は、あちこちが崩れている。木の杭が折れ、石が散乱し、柵の外側には獣が体当たりした跡がいくつもあった。
門は開いたままだった。蔓が絡みついている。
「入るぞ」
アレクが先に入り、ルウとダグが続いた。コウキは隊列の中ほどから、感覚を広げたまま歩いた。
集落の中は——静かだった。
家屋が七つ。石の土台に木の壁と草の屋根。小さな集落だ。半分の家屋は屋根が落ち、壁が傾いている。残りの半分は、まだ形を保っていた。
中央に広場があり、その奥に井戸があった。ダグが覗き込み、石を落とした。数秒後、水音がした。
「生きている」
隊のあちこちから、安堵の息が漏れた。
セレナが柵の壊れた場所を調べていた。
「外からだ。内側じゃない。——何度も、繰り返し押されている」
折れた杭を手に取り、断面を見る。
「一度壊して、直して、また壊された。これを三回は繰り返している」
「守ろうとしたんだ」ナクロが呟いた。
ナクロは柵の石積みの部分に手を触れていた。銀崖で石工の仕事を見て育った目で、積み方を読んでいる。
「最初の積み方と、後から直した部分で、石の選び方が違う。最初は丁寧だ。後になるほど——急いでいる。何でもいいから積んだ、という感じだ」
その声に、悔しさが滲んでいた。
* * *
井戸の水を汲み、水筒を満たした。馬にも水を与えた。
その間に、トメとディンが集落の中を調べていた。
「五十人から八十人くらいだろう。家屋の数と広場の大きさからして」
トメが言った。帳簿ではなく、腕を組んで集落を見渡している。
「畑がある。裏手だ」ディンが戻ってきた。「荒れているが、完全には枯れていない。雑草に負けかけている。——半年から一年前には、まだ誰かが手入れしていた」
家屋の中にも入った。食器が棚に並んでいる。織りかけの布が織機に残されている。隅には、木を削って作った小さな人形があった。子どもの玩具だろう。
争いの跡はなかった。血の痕も、壊された家具もない。
「荒らされたんじゃない。——出ていったんだ」トメが静かに言った。
「どこへ」
「わからん。だが、食器を残して布を残して——身一つでは出ていかない。ある程度の準備はしたはずだ」
コウキは感覚を広げた。
集落の周囲に——獣の通り道が、三本ある。北から南へ、東から西へ、そして丘陵の裾を沿うように。どの道も、新しい痕跡がある。
「ここは——獣の道の真ん中にある」
声に出して言った。
アレクが振り向いた。
「三方向から、獣が通っています。集落を避けて通っていたのが——いつからか、集落の方に寄ってきている。柵を押して、通り道を広げようとしたんだと思います」
セレナが腕を組んだ。
「獣にとっては、ここが道の途中にある邪魔な壁だったわけか」
「そうです。だから——何度も押した」
誰も何も言わなかった。風が壊れた柵の隙間を通り抜けて、乾いた音を立てた。
* * *
日が落ちる前に、柵の応急修理を済ませた。
完全には直せない。だが、一晩だけ持てばいい。荊棘柵も併用して、集落の入口を塞いだ。
焚き火を囲んで夕食を取った。水が確保できたおかげで、穀物粥はいつもより多めに炊けた。干し肉も少し増やした。
「井戸の水で炊ける。明日の朝も温かいものが食べられる」
トメが帳簿に書き込みながら言った。その声は淡々としていたが、顔には安堵が見えた。
夜の見張りはルウと二人だった。
壊れた柵の上——かろうじて登れる場所に腰かけて、暗い草原を見ている。星明りが薄い。雲が出ている。
コウキは感覚を広げた。薄く、広く。
北の丘陵の向こう——獣の帯が、まだある。以前と同じ、北東へ向かう流れ。だが、密度が少し増している気がした。気のせいかもしれない。感覚の精度では、そこまで正確にはわからない。
南——静か。西にも大きな気配はない。
「ルウ」
「ん」
「ここの人たち——どこに行ったんだろう」
ルウは暗闇を見つめたまま答えた。
「近くに別の集落があるなら、そこに移ったんだろう。一人で草原を歩いて生き延びられるわけがない」
「生きてるかな」
「さあな。——生きてればいいが」
風が吹いた。草の擦れる音。遠くで、何かの獣が鳴いた。低く、長い声だった。
ルウは膝の上に手を置いて、暗い草原を見ていた。しばらくして、言った。
「落ち着かないなら——落ち着かない理由を知ったほうがいい。知ったら、対処できるかもしれない」
「ルウは強いな」
「強くない。——ただ、ここにいるだけだ」
翌朝、出発の準備をしていたとき、コウキは気づいた。
集落の門柱——柵が壊れた中で、唯一まっすぐ立っている太い柱。その表面に、何かが刻まれている。
近づいて見た。
矢印だった。南西を指している。その横に、短い刻み文字。読みにくいが——集落の名前のようだった。
「アレクさん」
呼ぶと、アレクが来た。刻み文字を見て、目を細めた。
「……知っている。南西にある集落だ。ここから五日ほどの距離だったはずだ」
「逃げたんじゃない」コウキは言った。「移ったんだ。行き先を残して」
アレクは門柱に手を触れた。
「そうだな。——最後の一人が、これを刻んだんだろう」
しばらく、二人とも黙っていた。
最後にこの集落を出た人間が、門柱の前に立って、矢印を刻んでいる姿を想像した。振り返らなかったのか。それとも、何度も振り返ったのか。
門柱から手を離し、アレクが隊に向かって声を上げた。
「出発するぞ。——水筒は満タンにしたな」
隊商は歩き出した。壊れた柵の集落が、背中の向こうに遠ざかっていく。
コウキは前を向いて歩いた。感覚を——少しだけ開いたまま。
隊商が来なくなった集落は、こうなるのだ。
渡し場のゲンタの言葉が蘇る。「隊商が来なくなったら——この集落は終わる」
終わったのか。それとも——場所を変えて、まだ続いているのか。門柱に刻まれた矢印が、そう信じさせてくれる。
南の空は晴れていた。風はほとんどなかった。馬の蹄が地面を踏む音と、車輪の軋む音が、静かな草原に響いている。
あと何日で、次の中継所に着くだろう。獣の帯は、これ以上近づいてこないだろうか。次に水場を見つけられるのはいつだろう。
わからないことばかりだ。
でも、歩くしかない。歩いて、感じて、報告して。今の自分にできることを、続けるしかない。
コウキは荷車の横を歩きながら、丘陵の南麓に続く草原を見つめた。




