13_筏と荊棘
朝靄の中、川面が鈍く光っていた。
コウキは筏の上に立ち、縄で縛った荷の束を足元に固定していた。筏は丸太を八本束ねた素朴なもので、川の流れに合わせてゆっくりと揺れている。
隣でゲンタが櫂を構えた。
「いいか。流れが速い場所がある。合流点の手前だ。そこでは動くな。俺が操る」
「はい」
「返事はいい。体で覚えろ」
ゲンタが岸の杭から繋ぎ縄を外した。筏が流れに乗り、静かに動き出す。
対岸まではそう遠くない。だが、川の水は灰色に濁り、渦が不規則に巻いている。昨日よりも水量が増えている気がした。
「ゲンタさん。昨日より流れが——」
「ああ。昨夜から増えた。上流で何かあったんだろう。雨か、それとも——わからんが」
ゲンタは櫂を巧みに操った。水の流れを読み、筏を斜めに構えて横からの圧力を受け流す。六十年の川の経験が、腕の一振りに凝縮されていた。
合流点に近づくと、水が跳ねた。二つの流れがぶつかり合い、白い波頭が立っている。
「動くな」
コウキは膝を落として重心を低くした。筏が大きく揺れる。荷がずれかけて、咄嗟に手で押さえた。水飛沫が顔にかかる。冷たい。
ゲンタが叫ぶように櫂を水に突き刺し、筏の向きを変えた。合流点の渦を避け、一気に対岸の緩やかな流れへと滑り込む。
筏が静かになった。
「……うまいもんだ」
コウキは息を吐いた。ゲンタは何でもない顔で櫂を引き上げている。
「昔はこんなもんじゃなかった。もっと穏やかだった。合流点の渦が大きくなったのは、ここ二年だ」
「水の量が変わったから、ですか」
「量だけじゃない。流れ方が変わった。以前は二本の川が合流するとき、ゆっくり混ざった。今は——ぶつかる」
ゲンタは対岸の船着き場へ筏を寄せながら、川面を見つめた。
「川の下の何かが変わったんだ。地面の下を流れる水の道が——ずれたんだろうな」
コウキは川面に目を落とした。灰色の水。その下に——何があるのだろう。
不意に、感覚がざわめいた。
水の流れの下に、もっと深い流れがある。目には見えないが、確かにそこにある。温かくもなく冷たくもない、ただ動いている何か。地面の奥を這うように、ゆっくりと——方角を変えている。
以前と違う方向に、流れようとしている。
コウキは慌てて感覚を閉じた。頭の奥がじんと痺れた。
「どうした」
「いえ——少し、揺れに酔ったかもしれません」
ゲンタは怪訝そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
「若いのに船酔いか。まあ、慣れだ」
荷を降ろし、対岸の畑に運ぶ。集落の人々が待っていた。隊商が運んできた塩と、畑で採れた野菜の交換だ。
帰りの筏の上で、ゲンタが静かに言った。
「隊商が来なくなったら——この集落は終わる」
コウキは顔を上げた。
「対岸に畑はある。川魚も獲れる。だが、塩がなければ保存食が作れない。火打ち石がなければ火も起こせなくなる。この集落には、それを自前で賄う術がない」
「隊商は——来ます」
言ってから、自分の言葉の軽さに気づいた。
ゲンタは微かに笑った。
「ああ。来てくれた。それだけで、十分だ」
* * *
昼前、集落の広場で交易が始まった。
トメが荷車から商品を降ろし、地面に敷いた布の上に並べていく。塩の袋。荊棘の種が入った小さな革袋。火打ち石が十個ほど。数は多くないが、この集落にとっては命綱だった。
集落の側からは、川魚の燻製が積まれた籠と、小さな布袋が差し出された。
「川魚と、顔料鉱物だ。上流の岩場から採れる。量は少ないが、質はいい」
集落の男がそう言うと、トメが袋を開けて中を確かめた。赤みがかった細かい粉。指で擦ると、鮮やかな朱色が肌に残った。
セレナが川魚の籠を持ち上げた。
「今夜の食事が楽しみだな。保存食ばかりじゃ飽きる」
「確かにいい。……だが、これで塩と火打ち石と荊棘の種の全部は——足りないな」
集落の男の顔が曇った。
「わかっている。だが、今うちにあるのは——」
トメが手を上げて遮った。
「足りない分は——次に来たとき、でいい」
男が目を見開いた。
「いいのか」
「掛けだ。帳簿には書く。次にうちか、別の隊商が来たときに返してくれればいい。——荊棘の種は今すぐ必要だろう。柵を育てるなら、早いほうがいい」
トメは渋い顔のまま帳簿に何かを書き込んだ。コウキはその横顔を見ていた。
いつもの計算高い商人の顔ではなかった。もっと深い、何かを噛みしめるような顔だった。
荷を運びながら、コウキはトメに聞いた。
「掛けで渡して——大丈夫なんですか」
トメは歩きながら答えた。
「大丈夫じゃない。帳簿上は赤だ。——だがな」
少し間を置いた。
「こういう時に利益を考える商人は、長く続かない」
「どういう意味ですか」
「この集落が潰れたら、交易の相手が一つ減る。渡し場がなくなれば、この川を渡る手段もなくなる。巡り巡って、困るのは俺たちだ」
トメは帳簿を腰の袋にしまった。
「だからこれは慈善じゃない。投資だ。——そう思っておけ」
最後の一言だけ、少し照れくさそうだった。
広場の反対側では、ナクロが柵の補修を手伝っていた。
新しい木材を継ぎ足し、割れた部分に石を詰める作業。銀崖で石工の仕事を見て育ったナクロにとって、石の扱いは慣れたものだった。
「ここの隙間——石を楔に使えば、もっと丈夫になります」
集落の男がナクロの手元を覗き込んだ。
「なるほど。こう入れるのか。——お前、石の扱いがうまいな」
「銀崖の出です。子どもの頃から石には触っていたので」
「銀崖か。遠いな。——だが、ありがたい。うちには石を知る者がいない」
ナクロは少し誇らしげに笑った。隊商に入って初めて、自分の技術が誰かの役に立った。その実感が、顔に出ていた。
* * *
日が傾き始めた頃、アレクがコウキを呼んだ。
集落の端にある見張り台の下。柵のすぐ内側で、二人きりだった。
「明日の朝、ここを発つ」
「はい」
「次の中継所まで、通常なら八日の行程だ。だが、今の状況では——読めない。獣の動きが変わっている」
アレクはルインの地図を広げた。赤い点が散っている。三叉路の町を出てから、コウキが報告した獣の気配がいくつか書き加えられていた。
「コウキ。頼みがある」
「はい」
「周囲の状況を——感じてほしい。明日の出発前に、できる範囲でいい。どの方角に何がいるか。遠くまでわからなくても構わない。近くだけでもいい」
静かな声だった。命令ではなく、頼みだった。
コウキは頷いた。
「やってみます。——でも、正確かどうかはわかりません」
「わからなければ、わからないと言え。それでいい」
アレクは地図を畳んだ。
「お前の感覚と、ダグの偵察と、トメの地図と、俺の経験。全部を合わせて判断する。お前一人に任せるつもりはない」
コウキの胸の中で、何かがほどけた。
一人で背負わなくていい。そう言ってくれている。
夜になった。
コウキは柵の上の見張り台に登り、暗い草原に向かって座った。
星明りの下、風が草を揺らしている。川の匂い。遠くの虫の声。
目を閉じた。
感覚を——開く。
昨夜より少しだけ慎重に。蛇口をゆっくりと回す。
集落の温かさが広がった。眠っている人々の気配。焚き火の残り火。馬たちの穏やかな呼吸。
その外側へ——。
南西。帰り道の方角。昨日までは比較的穏やかだった。
今夜は——何かがいた。遠いが、確かに。二つか三つ。大きくはない。だが、以前はこの方角にはいなかった。
西。空白。風だけ。
北。獣の気配がいくつか。距離は——柵から三千歩ほど。じっとしている。
北東——。
コウキは息を飲んだ。
濃い。以前より、ずっと濃い。
獣の気配が、帯のように連なっている。一頭や二頭ではない。十以上。いや、数えきれない。大小様々な気配が、ゆっくりと同じ方角に流れている。川のように。
その流れの先に——何があるのか。コウキにはまだわからない。だが、引力のようなものがある。獣たちが引き寄せられている。あるいは、押し出されている。
怖くなって、感覚を閉じた。
頭の奥が鈍く痛む。鼻の奥に鉄の味がした。
「……やりすぎた」
両手で顔を覆い、呼吸を整えた。閉じろ。もう十分だ。
数分かかって、感覚が体の内側に収まった。薄い膜の向こうに世界がまだ透けているが、昨日よりは——少しだけ、うまく閉じられた気がした。
見張り台を降り、アレクのところへ行った。
焚き火の前で、アレクとセレナとトメが地図を広げていた。
「報告します」
三人の目がコウキに向いた。
「南西——帰り道の方角に、獣が何頭かいます。昨日まではいなかったと思います。大きくはないですが」
トメが地図に印をつけた。
「北にも何頭か。柵から三千歩くらい。動いていません」
セレナが眉を寄せた。
「待っているのか?」
「わかりません。ただ——じっとしています」
「北東は」
アレクが聞いた。
コウキは少し間を置いた。
「……多いです。十以上。数えきれませんでした。大きいのも小さいのも混ざっていて、同じ方角に流れています」
沈黙が落ちた。焚き火が爆ぜる音だけが響いた。
「帰路は——南西回りが安全だったが」
セレナが腕を組んだ。
「そこにも出始めた、か」
トメが地図を開いた。
「次の中継所まで通常八日。獣の動きが読めない今、慎重に行けば十日はかかる」
アレクは地図を見つめていた。赤い点の間を、指でなぞっている。
「南を回る。丘陵の南麓を抜けて、草原の合流点を経由する」
「遠回りだ。三日は余計にかかる」セレナが言った。
「北東を避ければ、獣の密度は下がるはずだ。コウキの感覚と、ダグの偵察で確認しながら進む」
アレクはコウキを見た。
「助かった。よく報告してくれた」
「……はい」
「鼻血は出ていないか」
コウキは鼻の下を拭った。指先に、かすかに赤いものがついた。
「少しだけ」
「無理をするなと言ったはずだ」
「すみません」
「謝るな。——ディンに診てもらえ。それと、今夜は見張りを外す。寝ろ」
隊長命令だった。コウキは素直に頷いた。
* * *
翌朝、隊商は出発の準備を始めた。
荷車に商品を積み直し、馬に飼葉を与え、水筒を満たす。集落の人々が手伝ってくれた。
門の前で、ゲンタが待っていた。
「行くか」
「はい。ありがとうございました」
「礼はいい。——また来い。川は待っている」
ゲンタの手が、コウキの肩を叩いた。硬い手だった。櫂を握り続けた四十年の手。
「塩と種がある。しばらくは持つ。——その間に、荊棘を育てる」
「育ちますか」
「育てる。それしかないからな」
コウキは頷いた。
集落の門が開き、隊商が歩き出した。馬の蹄が地面を踏む音。車輪が軋む音。聞き慣れた旅の音。
門の向こうで、人々が手を振っていた。ゲンタは振らなかった。ただ立って、見ていた。
門が閉まった。重い木の音。
コウキは振り返った。柵の向こうに、小さな集落がある。川に守られ、木と石の壁に囲まれた、三百人の暮らし。
その壁の外に——獣たちがいる。昨夜感じた気配が、まだ薄く残っている。
大丈夫にするために動くかどうか。
ルウの言葉を思い出す。
まだ何もできない。感覚を広げて、報告することしかできない。鼻血を出しながら。
でも、それが今の自分にできることだ。
隊商は南へ向かった。丘陵の南麓を目指して、草原を歩く。コウキは荷車の横を歩きながら、時折、遠くへ意識を向けた。
感覚の蛇口を——ほんの少しだけ、開いたまま。
漏れてくる気配を拾い、閉じて、また拾う。
少しずつ。少しずつ、制御を覚えていく。
風が吹いた。
草原の匂いと、かすかに川の匂いが混ざっている。背中の向こうに、渡し場の集落がある。荊棘の種が蒔かれるだろう。やがて棘の壁が育つだろう。
それまで、持ちこたえてくれ。
コウキは前を向いた。南の空は薄曇りで、風はほとんどなかった。




