第25話 来ない夜
瑞蓉妃の宮は、今夜も明るかった。
金糸を織り込んだ帳。 香木を焚いた甘い香り。 卓には手のつけられていない料理が並び、燭台の火だけが静かに揺れている。
侍女たちは皆、息を潜めていた。
「……まだなのか」
瑞蓉妃は鏡台の前で呟いた。
腹へそっと触れる。 薄衣の下、まだ目立たぬ命。
皇帝の子。
その事実だけで、この後宮では価値になる。
「もう一度、門を見て参りますか」
侍女の一人が恐る恐る尋ねる。
「必要ないわ」
瑞蓉妃は鏡越しに冷たく言った。
「陛下はお越しになる」
その声音に、侍女はすぐ頭を下げた。
誰も逆らわない。 誰も“今夜も来ないかもしれない”とは言わない。
言えるはずがなかった。
瑞蓉妃は、白蘭皇后に次ぐ権勢を持つ妃。 そして今は、皇子を宿している。
皇帝が渡る宮。
その事実だけで、人は頭をさげる。
来なくても構わない。 来たことになっていれば。
「湯殿の湯は冷まさぬように」
「……はい」
「灯も消さないで。陛下がお休みになられるまで」
侍女たちは静かに頭を下げた。
その顔に浮かぶ怯えを見て、瑞蓉妃は苛立つ。
弱い者は嫌いだ。
すぐ顔色を窺い、怯え、泣く。 踏まれる側の人間。
そんなものに価値はない。
瑞蓉妃は簪へ手を伸ばした。
翡翠と金で作られた豪奢な簪。 光を受けるたび、誇らしげに輝く。
醜いものは、踏まれる。 選ばれることに意味がある。
それがこの場所だった。
「……恵玉妃の宮へ移った娘は、どうしている」
不意に問えば、侍女が顔を上げる。
「雪瑶、でございますか」
「ええ」
「目立った動きはないかと……」
瑞蓉妃は鼻で笑った。
「つまらない娘」
そう言いながら、なぜか少しだけ引っかかった。
白い肌。 静かな目。
怯えているようで、何かを見ている女。
あの香事件の時も、最後まで取り乱さなかった。
——気に入らない。
その時、外から控えめな声がした。
「皇后様より、お届け物にございます」
空気が変わる。
侍女たちが一斉に膝をついた。
運ばれてきたのは、赤子用の小さな衣だった。
淡い絹に、金糸で縁取りがされている。
柔らかく、上質で、非の打ち所がない。
瑞蓉妃は無言で文を開いた。
『お身体を第一になさいませ。 心を乱せば、お子にも障ります』
短い文。
責める言葉などどこにもない。
むしろ慈しみに満ちている。
だが。
瑞蓉妃の指先が、わずかに止まった。
——騒ぐな。
——余計な真似はするな。
そう告げられている。
白蘭皇后は、いつもそうだった。
優しい顔で、人を沈める。
瑞蓉妃は文を畳む。
「下がっていいわ」
侍女たちが静かに去っていく。
一人になった室内で、燭火だけが揺れた。
外は雪だった。
今夜も皇帝は来ない。
けれど明朝になれば、侍女たちは皇帝用の食器を下げる。 湯殿は使われたことになる。 この宮には、帝が渡ったことになる。
そうしなければならない。
瑞蓉妃は鏡を見つめた。
鏡の中には、美しい女がいた。
皇子を宿した女。
誰より上へ行けるはずの女。
——負けるものか。
瑞蓉妃はゆっくり微笑む。
「……陛下も、お忙しいのね」
誰もいない部屋で、ただ雪だけが降っていた。




