表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
切ない ―後宮に消えた忠誠と復讐の記録―  作者: 雪燈
第2章 欲と愛が交差する後宮
24/26

第24話 傷つける手

※本作には、心理的に重い描写や残酷な表現が含まれます。

苦手な方はご注意ください。


夜の知らせは、三日続けて来なかった。


皇帝は瑞蓉妃の宮へ渡り、 その翌日は政務、 さらに翌日は別の妃のもとへ。


恵玉の宮には、 静かな夜だけが残された。


その静けさが、 今日はひどく重かった。


朝から、空気が違う。


誰も口にはしない。


だが女官たちは皆、 恵玉の機嫌を測るように動いていた。


音を立てない。


視線を合わせない。


失敗をしないように。


雪瑶も、それを感じ取っていた。


昼過ぎ。


恵玉の支度部屋。


女官たちが衣や装飾を整えている。


その中央で、 恵玉は静かに鏡を見ていた。


美しい。


乱れはない。


けれど、その指先だけが落ち着かない。


机を、指先で二度叩く。


また沈黙。


誰も話さない。


その時だった。


「……っ」


小さな息。


続いて、硬い音が響く。


髪飾りが床へ落ちた。


空気が止まる。


落としたのは、新しく入ったばかりの女官だった。


まだ幼さの残る顔。


青ざめている。


「も、申し訳ございません……!」


慌てて拾おうとする。


だが、その前に。


「触らないで」


恵玉の声が落ちた。


静かだった。


だからこそ、部屋が凍る。


新人女官の手が止まる。


恵玉はゆっくり立ち上がった。


足音だけが響く。


床に落ちた髪飾り。


銀細工に、小さな白玉。


派手ではない。


けれど、それだけはいつも恵玉の傍にあった。


壊れた玉に、細い傷が入っている。


恵玉はそれを見つめる。


長く。


何も言わず。


やがて。


「……あなた、自分が何をしたか分かっているの?」


声は穏やかだった。


だが、優しくはない。


新人女官は震えながら頭を下げる。


「申し訳、ございません……!」


「謝れば戻るの?」


静かな声。


「壊れたものが?」


女官が息を呑む。


恵玉は髪飾りを拾い上げる。


その指先は、 痛むものを撫でるように、ひどく丁寧だった。


「……物を粗末に扱う者は、好きではないわ」


静かな声。


怒鳴ってはいない。


それなのに、 部屋の空気が凍る。


明鈴がそっと顔を上げた。


静雲も視線を伏せる。


誰も動かない。


恵玉の指が、 傷の入った玉をそっとなぞる。


まるで、 遠い昔を確かめるように。


「大切に扱うよう、教わらなかった?」


「……っ」


新人女官の目に涙が滲む。


「申し訳ございません……!」


「うるさいわ」


ぴたり、と泣き声が止まる。


雪瑶は黙って見ていた。


違和感があった。


恵玉は、怒っている。


だが。


本当に怒っているのは、 髪飾りに対してではない。


そう感じた。


恵玉は髪飾りを見つめたまま、 ぽつりと呟く。


「……これをつけているといつか」


誰へ向けた言葉でもなかった。


新人女官は意味が分からず、 ただ震えている。


だが明鈴は、 苦しそうに目を伏せた。


静雲だけが、 静かに恵玉を見ている。


その目には、 痛みを知る者の沈黙があった。


「恵玉様」


明鈴が慎重に口を開く。


いつもの軽さはない。


「細工師に頼めば、きっと……」


「明鈴」


遮る声。


低い。


明鈴が口を閉じる。


その瞬間。


恵玉の目が、一瞬だけ揺れた。


怒りとも、 悲しみともつかない色。


「……あなたたちには分からないわ」


小さな声。


ほとんど独り言のようだった。


その空気を切るように、 静雲が静かに進み出る。


「恵玉様」


淡々とした声。


「その者はまだ新人です」


恵玉は答えない。


静雲は続ける。


「恐怖だけでは、手は育ちません」


沈黙。


張りつめる。


やがて。


恵玉はゆっくり目を閉じた。


長い息を吐く。


そして。


「……下がりなさい」


誰へ向けた言葉か、 一瞬分からなかった。


新人女官が震えながら頭を下げる。


涙を堪えきれず、 そのまま部屋を出ていった。


静かな足音だけが残る。


恵玉は髪飾りを握ったまま、 鏡の前へ戻る。


その背は、美しかった。


けれどどこか、 取り残された少女のようにも見えた。


雪瑶は視線を伏せる。


胸の奥が、静かに冷える。


——優しいだけの人ではない。


それでも。


あの背を、 哀れだと思ってしまった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ