第26話 静かな宮
雪は、夜のうちに薄く積もっていた。
朝の庭は白く、音がない。
明鈴は廊下へ出た瞬間、 「わぁ」と声を上げた。
「見て雪瑶! 初雪よ!」
「……そんなにはしゃぐもの?」
「はしゃぐわよ! 寒いのは嫌だけど、最初の雪は別!」
明鈴は子供のように笑いながら、欄干へ身を乗り出した。
その隣で、静雲は無言のまま庭を掃いている。
雪の上へ箒の跡が真っ直ぐ伸びていた。
「静雲も少しくらい嬉しそうにしたら?」
「足元が悪くなります」
「もう、夢がない……」
明鈴は小さく息を吐いた。
恵玉宮へ来てから数日。
ここは奇妙な場所だった。
怒鳴り声もなく、 誰かが怯えて泣くこともない。
明鈴はよく喋り、 静雲は淡々としていて、 恵玉妃は穏やかに笑う。
——まるで、本当に平穏な宮のように。
「雪瑶?」
振り返ると、恵玉が立っていた。
淡い色の衣をまとい、手には白い毛皮の肩掛けを持っている。
「寒いでしょう。これを使いなさい」
「……私は大丈夫です」
反射的にそう答える。
こんな風に気遣われることに、まだ慣れない。
「身体が冷えるわ」
恵玉は困ったように笑い、雪瑶の肩へそっと毛皮を掛けた。
柔らかく、温かい。
雪瑶はわずかに目を伏せる。
——優しい人だ。
そう思う。
けれど同時に、 その優しさへ気を許しかける自分を、 どこかで警戒していた。
この後宮で、 理由もなく人へ優しくする者などいない。
「恵玉様は雪がお好きなのですか?」
何気なく尋ねると、恵玉は少しだけ目を細めた。
「……ええ。静かでしょう」
その声はどこか遠かった。
「雪の日は、音が消えるの」
庭を見る横顔は綺麗だった。
だが雪瑶は、 その顔を見るたび時折不安になる。
何かを待っている人の顔。
あるいは、 もう戻らないものを見つめ続けている顔。
「昨夜は冷えましたものね」
明鈴が明るく言った。
「陛下もきっと、お渡りが大変だったでしょうね!」
その瞬間。
空気が、止まった。
静雲の手が止まり、 恵玉の睫毛がわずかに伏せられる。
ほんの一瞬。
それだけだった。
「……そうね」
恵玉は微笑んだ。
穏やかな、いつもの笑み。
「お忙しいお方だから」
明鈴もすぐに口を閉じた。
失言だったと気づいたらしい。
雪瑶は黙ったまま庭を見る。
誰も、“昨夜どこへ渡ったか”を聞かない。
聞けない。
この宮には、 皇帝の話題へ触れてはいけない空気があった。
その時だった。
静雲が廊下へ上がってくる。
「恵玉様」
「何?」
「文が届いております」
静雲が差し出したのは、深い紅の紐で結ばれた文だった。
雪瑶は気づく。
静雲の声が、ほんの少しだけ低い。
恵玉は文を見るなり、 わずかに指先を止めた。
ほんの小さな反応。
けれど見逃せなかった。
「……部屋へ戻るわ」
恵玉は柔らかく笑ったまま言う。
「雪瑶、今日は無理をしないでね」
そうして去っていく背を見送りながら、 雪瑶は静雲を見る。
静雲はいつも通り無表情だった。
だが。
雪の白さの中で、 その瞳だけが妙に冷たく見えた。




