#4 ロマネスク⑴
人は、存外、笑わない生き物だ。
コンビニでアルバイトをしていると、否応なしに理解させられる。
全女子生徒の憧れの的である生徒会長は、学校では誰にでもやさしいのに、店では会計にもたついただけで舌打ちする。
先生が自慢の嫁だと惚気ていた奥さんは、世話好きで朗らかと聞いていたのに、混雑するレジに横入りし、あれもそれもと注文をつける。
毎朝バス停で見かけたサラリーマンは、いつもスマホではなく啓発本を読んでいたのに、レジに来るときに限って怒鳴り声で電話している。
目の前でもてなすアタシに、笑顔を向けることはない。
気遣いも配慮もどこにもない。
アタシがまだ16の小娘だから侮っているのか。もしかしたら人間だとも思ってないのかもしれない。
彼らが神様だったら、きっと、アタシにも笑いかけてくれるのに。
田舎町のコンビニには、見覚えのある人が来やすい。
町の隅に追いやるようにしてできた当店は、中心部にある店舗より規模も認知度もかなり劣っているうえに、交通の便も悪い。客数は平日100いくかいかないか程度。
そのなかでも、アタシが顔を知っていて、なおかつ癖が強い客は、いやでも記憶にも残りやすい。
はじめは、怖かった。
知ってる人など来ないだろうと高を括っていた手前、いざ来てしまったとき、どうすればいいかわからなくなる。バックヤードに逃げこんでしまおうか、いっそそのまま飛んでしまおうか、本気で悩んだ。
しかし、あっちはアタシのことなんか覚えちゃいない。あれ? と既視感を持つことすらなかった。それどころか、やさしさまでどこかに置いてきてしまったらしい。
いらっしゃいませ、にこり。沈黙、無視、拒絶、命令。ありがとうございました、にこり。返ってくるのは、何もない。
入りたてのころは1週間くらいへこんでいたけれど、今となってはどうでもいい。
正常に上書きされた習慣と習性。アタシも営業の面を繕わなくなった。
といっても、ワンサイズ大きな白いマスクと、目にかかるぎりぎりを攻めたぱっつん前髪で、表情はほとんど見えないようにしてあるのだけれど。
それでも、笑えない。笑ったって意味がない。
高いところから見下している彼らは、今日も今日とて、30坪もない狭い店内で自我を出す。アタシが彼らの上っ面を知っているとも知らずに。
そっちがその気なら、アタシもそうする。怒るでも泣くでもなく、ただ見下した。
人間そんなもんなんだって、学校ではいつ教えていたんだろう。
「――あっ」
午後8時半。
ただでさえ少ない客足がぱたりと途絶え、やることもなく、ぼうっとレジ画面を眺めていると。
自動ドアが開き、猫の鳴き声のような微々たる声がすり抜けた。入口のセンサーが反応し、無情な音楽がかかる。
「い、いらっしゃいませ」
「……うす」
入店したのは、角刈り頭の少年だった。
色黒な肌。肩幅より大きなエナメルバッグ。梅雨明けとはいえ肌寒い夜に、半袖半ズボンのジャージ姿。あのヨモギ色は、まちがいなく、アタシの在籍する中央高校のものだ。胸元には茶色の刺繍で「渚」と縫われてある。何度見てもダサすぎ。あれ着て帰るとか正気じゃない。
……ていうか、え、渚?
バレないように顔だけ盗み見た。
やっぱり。
アタシと同じ、1年3組の生徒だ。
彼と話したことはない。こうして顔を合わせるのも、ひさしぶりだ。
だけど、入店したとき、彼はアタシに気づいたようだった。
どうして? 今までこんなことなかったのに。
長らく凍りついていた心臓が、悲鳴を上げて暴れ始める。
「……えっと、肉まん。いっこ」
「あ、は、はい」
手ぶらでレジに来た彼は、ななめ下に視線を泳がせ、ぶすっと人中を曲げている。
できたても同然に湯気を出す肉まんを、慎重に包み紙にくるむ。平静を装って「袋は?」と訊けば、無言で首を横に振られた。
「に、肉まんひとつでお会計」
「ん」
「えっ」
銀のトレーに、100円玉が2枚。ちょうどだった。
レシートは、と訊く前に、彼は肉まんを鷲掴みにした。頭をほんのわずかに上下させると、足早にこの場を去っていく。
自動ドアが閉まる。音楽が止む。
静けさを取り戻してやっと、アタシはマスク越しに息を吐き出せた。
なんかすんごい疲れた。
ひさしぶりに他人の顔を見た気がする。
ちゃんと、人間だった。それでも最後まで笑顔はなかった。目が合ったのも最初だけ。アタシと知っていても、そんなもん。結局、そんなもんなんだ。
すっかりヨモギ色になじんでいた彼に、負けず劣らずのダサい制服を着たアタシは、どう見えただろう。
明日教室で何か言うのだろうか。尾ひれのついた噂が出回るのだろうか。
別に、どうでもいいことだ。
どうせ彼はもうここには来ない。
アタシも、学校には行かないのだから。
・
高校ではじめての定期テストを乗り越えた、翌日。
アタシは学校に行かなくなった。
ずいぶん前に廃れた田舎は、教室と一緒だ。規模が変わっただけ。プライバシーなどあってないようなもの。
市内の学校だからなのか、噂はその日中に知れ渡り、野次馬根性のある近所のおばさんおじさんにとって都合のいい餌食にされた。
一歩外に出るだけで、心がぐちゃぐちゃになる。
アタシを女手一つで育てるママは、基本放任主義で、学校に行かなくなっても叱らなかった。ただ金銭面だけは気にしていて、行く気がないなら学校やめろ、働け、とだけ言う。
退学する勇気はまだなかったアタシは、ひとまずママの知り合いが切り盛りしているコンビニに世話になることにした。
日中は周りの目がうるさいから、日が暮れてから、法律で許されているぎりぎりの夜10時まで。たいてい社員とアタシの2人体制で回している。
いくら人気のないお店でも、当然客は来るし、帰り道で近所の人とすれちがうこともある。人と会うこと、話すことすら苦しいアタシにとっては、拷問のようなものだ。相手がアタシだと判別できていないから、なんとか耐えられているだけであって、いつ異常をきたしてもおかしくはない。
どうしてアタシばっかりこんな目に遭っているんだろう。
みんなが敵に見える。
いやだな。ひどいな。きらい。だいきらい。全部、消えてほしい。
なのに。
「……うす」
午後8時半、かの敵はふたたび現れた。
「……な、渚……」
いらっしゃいませ、と言ったつもりが、無意識に名前をつぶやいていた。
もう来ないと思っていたのに。
まさかの2日連続の来店。動揺を隠せない。
なんで?
なんで来んの?
気まずくないの?
アタシは会いたくなかったよ。
こころなしか体調が悪くなった。血の気の引くアタシとは裏腹に、彼はいかにも気にしてないふうに店内をうろついている。
恰好は昨日と同じ、ジャージ。どこの部活か知らないが、練習終わりなのだろう、ちょっと汗の匂いがする。それとも、雨の匂いだろうか。外はどしゃ降りなのに、彼の手に傘はない。当然、体はびしょ濡れ。髪の毛がほとんどないのが唯一の救いだろう。
彼は店内を一周し、入口近くに戻ると、置いてあるビニール傘を1本手に取った。そのままレジまで一直線に向かってくる。
「……おねしゃす」
「……はあ」
地元といえども、学校からこのコンビニまでは、バスを3本乗り換えなければたどり着けない。時間もお金もかかる辺境の地。だからこそ、噂が出回ろうとわざわざからかいに来ない自信があった。
ところがどっこい、彼は来た。
家がこっちだとしても、昨日以前に来店していた覚えはないし、急に連続で来るのもいささか怪しい。怪しすぎる。
ただ雨宿りのためだけにここを選んだとしたら、どうかしている。傘なんかどこにでもあるし、学校から借りることもできるのに、どうしてここで? 意味がわからない。
やっぱり、この人も、人間として当たり前の機能が故障しているのか。
「覚えてたんだ」
「……え?」
「僕のこと。覚えてたんだな」
「……」
ビニール傘をスキャンすると、無口だった彼が急に饒舌になり、アタシは一瞬頭が真っ白になった。
身体にしみついたマニュアルが、硬直状態の手を機械的に動かしてくれる。レジ画面が進み、会計モードになる。
「その、元気、か」
「……610円、です」
アタシは無理にでも息を吸った。レジだけを見つめる。
「学校、来ねえの」
話しかけてくるな。
「610円です」
「……」
取り付く島もなく、彼は渋々財布を出した。
現金を預かり、レジの受け口に入れる。印字されたレシートを、プラスチックの小さな箱に捨ててやった。
「ありがとうございました」
さっさと帰れ。
彼は仏頂面でビニール傘を手に取った。しかしそこから動こうとしない。
店内の時計の音につられ、アタシは右足を小刻みにゆする。
「…………江ノ上、ごめん」
静止していた反動か、彼はそう言うとそそくさと店を出ていった。叩きつけるように傘が広げられ、白く透けた皮を曇らせる。
ストレスをためる雨風が、店の入口に浸食した。
マスクの中に湿気がこもる。不快だ。
アタシはモップを取りにバックヤードに移動した。
・
午後10時まで働けば、バスはもうない。大雨のなか、30分歩いて家に帰った。
築50年のおんぼろアパート。水玉模様の傘をすぼめながら、外付けの階段をのぼる。カンカンカンと、アタシの足音とは別に足場を弾く音が響く。梅雨真っただ中は、もっとけたたましく、なかなか眠れなかった。
アタシの家は最上階……というと聞こえはいいが、アパートは2階建て。上も下もほとんど大差ない。
右から2番目、「江ノ上」の手書きの表札のある扉に鍵を差した。ぐるりと回し、扉を引く。軋みながら開いた先は、暗黒だった。
下を見れば、靴はない。
ママはまだ仕事か。それか、カレシのところか。
アタシは鍵を閉め、電気を点け、閉じた傘を立てかけ、びっしょりと重たくなったスニーカーを脱いだ。
店長にもらった期限切れのコンビニ弁当をチンしている間に、手を洗って、マスクを取って、水道水を飲む。
テーブルの上に乱雑する、ごみとママの化粧品と学校からの便りを強引にかき分け、あっためた弁当と麦茶を入れたグラスを置いた。無味の割り箸を歯でおさえ、二本に裂き、弁当の焼き魚をほぐした。塩気が強い。こういうのがおいしいのかな。麦茶をひと口飲んだ。
外の轟音が、ひとりきりの部屋を支配する。壁も屋根も今にもひび割れてしまいそうだった。雨漏りしていないだけいいほうだ。玄関の扉を突き抜けて金属音が絶え間なく走っている。もしかしたらママが帰ってきたのかも、と子どものころは過度に期待したものだ。
米粒をすくい、口に運ぶ。自分の咀嚼も、雨のおかげで気にならない。
ふと、さっき腕でどかした学校の便りが、目に留まった。たまりにたまって教科書ほどの束になった再生紙が、崩れて床にも何枚か散らばっていた。中央高校、連絡、体育祭、江ノ上さんへ、登校、テスト返却、成績、クラスのみんな、心配、家庭訪問、日程希望、電話……。体のいい言葉の数々に、食欲が失せた。奥歯に魚の骨が挟まり、噛むたびに痛覚が震える。
角刈り頭の姿がうつろな意識に浮上する。ごめん。彼はたしかにそう言った。あろうことか、ごめん、と。アタシに向かって。
「あーもう!」
アタシは頭をかきむしり、卓上にある折れ目のついた便りを力任せに床に投げ落とした。下に隠れていたリモコンをとっさにつかみとる。テレビの電源を入れた。目の毒になる光に、神経をのめりこませる。
ティッシュ箱3個ほどの小さなテレビ画面に、高値でしつらえたような顔立ちの少年が映った。黒目黒髪、つんとすました風貌は、死神に遣う黒猫を彷彿とさせる。こうすればいいんだろ、と言わんばかりに口角が上げられた。
『好きだよ』
リモコンを投げつけてやろうかと思った。
思いとどまったのは理性に制御されたのではなく、リモコンを振り上げた拍子に、ガシャンッ! とグラスが倒れたからだ。ほぼ水でできた麦茶が、テーブルにこぼれる。幸い弁当にはかからなかったが、卓上から滝のように滴った水害をすべて着古したズボンが被った。太ももになめくじを飼っているみたいで虫唾が走る。
床に捨ててあったタオルで拭いている間にも、ほこりのかぶった箱型の媒体は、水出しの麦茶よりもうっすいドラマを放送している。顔がいいだけのブサイクに、テンプレートをなぞっただけの臭いセリフ。見るに堪えない醜さ。
あの日の、アタシみたい。
――こいつ、江ノ上に告られたんだって。
たったひと言で、アタシの人生初の告白は黒歴史に変わった。
みんなが、アタシを嗤った。
アタシもへらへら笑った。ブスのくせにとか、変な名前だとか、今まで散々いじられてきたから慣れている。
なのに、なぜだろう。人格もろとも否定されたようで苦しくて、恥ずかしくて、つい笑ってしまった。
消えてしまいたかった。
家に帰ると笑い方がわからなくなっていた。
アタシは、学校に行けなくなった。
『ごめん。わたしたち、別れよう』
『え? どうして』
告白シーンと思いきや、別れ話だったらしい。
鼻につくイケメンが自己肯定感の高そうな美女にフラれて、少しばかり溜飲が下がった。
美女のほうには見覚えがあった。夏凪音だ。春のベストヒット曲に選出されていた『染色』を歌うシンガーソングライターであり、女優でもある。最近では、連続ドラマ『SIESTA Ⅲ』で被害者の恋人役、映画『20分前の天使』でWヒロインのひとりを担当していた。
今季のドラマにも出ていたんだ。知らなかった。
と思ったが、そうではないようで。画面の右上に『オンステージ 2nd』というタイトルが固定されていた。
おんすてーじ……。
ああ、そういえば、クラスの女子が騒いでいたっけ。イケメンたちのアイドルオーディションとかなんとか。オーディションの審査に、この三文芝居があるわけか。なるほどね。
タイトルのある対角の位置には、少年の名前が表示されていた。シズ。へえ、かわいい名前。
アタシなんて、ひるねだよ。江ノ上 ひるね。昼寝しようと思ったら陣痛が始まったからって、ママが言ってた。漢字で書けなかったから、ひらがなで、ひるね。バカみたいでしょ。
この世は不平等だね。
『俺たち、ここで終わりってこと?』
『……ごめんね』
『謝るなよ。俺、好きになってよかったよ』
アタシは箸をグーで握りしめ、塊で残った魚の赤身に突き刺した。
好きになってよかった? 何を白々しい。
好きになんなきゃよかったのまちがいでしょ。
告白が玉砕したとき、アタシはそう思った。定期テスト終わりに笑いものにされて、時間を巻き戻したくて仕方なかった。テスト期間に入る前に戻れたら、告白しに行くアタシを、アタシの手で殺してやるのに。
アタシは箸からリモコンに持ち替えた。リモコンの矢印ボタンに従って番組を転換させていく。けれどどれもいまいちで、気づいたら一周していた。
望んでいなかった再会を果たした『オンステージ 2nd』には、例の少年はもう映っていなかった。彼の審査が終わり、次回予告に入ったらしい。こころなしか画面が広く感じた。
アタシはほっとしてリモコンを置く。
『来週も観てね! ……とか言ってみたり』
舞台裏だろうか、触り心地のよさそうな幕のそばで、茶髪の少年がカメラ目線でグッドサインを表した。親指を突き立てた手よりもうんと小さな顔は、正統派美人という言葉がよく似合う。柴犬を洋風に描き替えたら、きっと彼ができあがるだろう。
彼は冗談まじりに肩を上げ、へへっとほっぺを丸めた。犬のひげのようなしわに、やさしい色をした桜が咲く。
「かわい……」
ぽろっと、声が漏れた。
人は、存外、笑わない生き物だ。
それじゃあ画面の中で笑っている彼は、いったい何者なんだろう。
小学生みたいに能天気な笑顔、だけど外見はアタシと同い年か、ちょい上に見える。
彼の頭の中を覗いてみたい。雨の降ることのないきれいな青空の下、種別問わず、生きとし生けるすべてが手をつないで遊んでいそうだ。
彼が客なら楽しいだろうな。あぁ、もしかして、神様とは彼のような人を呼ぶのかな。
次回予告が過ぎ、フルーツジュースのCMが流れ出す。
ぼうっとしながら、割り箸の先端に魚と草と米粒を乗せて口に放った。ごはんはすっかり冷めてしまって、ほとんど噛まずに飲みこんだ。
弁当をもう一度温め直しに立ち上がった。




