炎症⑷
駐車場のある建物裏に来た。雪さんの送迎用のハイブリッド車が停車されてある。
防音性の高い壁にもたれかかり、ずるずると下がっていく。あっけなく尻がコンクリートに落下し、骨に響いた。
膝を抱え、持ってきたペットボトルを無心で眺めた。ラベルの少し上あたりまで減った無色透明の液体に、灼かれた砂が透けて見える。
日差しが強い。
意識が飛びそうだ。
「……『クピド』と、今では、歌い方が、変わった……」
炎谷さんの言葉を噛んで、噛んで、噛み砕いて。
味気のない笑いを吐き捨てた。
炎谷さんに言い訳は通用しない。
ああ、そのとおりだ、昔とは何もかもちがう。状況、人、感情。同じなものなんてひとつたりとも存在しない。
俺はただの子どもではいられなくなった。
『クピド』
運命を信じ、一途に愛する歌。
清廉潔白に紡いだ、無償の声。
もうあんなふうに歌うことはできないだろう。
俺は、あのとき、逃げてしまった。
あのとき――『オンステージ』最終審査前日、通しリハーサルが行われる1時間前のこと。
デビューを賭けた最後の岐路を目前に、神経質になっていた俺は、閑散とした非常階段で気持ちを落ち着かせていた。
いざリハーサル会場へ赴こうとした、そのとき、下のほうから煙たい匂いがした。そうっと下方を覗き見ると、覚えのある声が聞こえた。
――すみません! 病院に行かせてください!
それは、ついさっきまで俺を励ましてくれていた先輩の声だった。
先輩の目の前には、タバコを吸っている根津さんがいた。
そういえば先輩が根津さんを探していたことを思い出す。病院という単語に怪我でもしたのかと心配したが、そうではないようだった。
――さっき、幼なじみがやばいって聞いて、いてもたってもいられなくて……。あいつのそばについていてやりたいんです!
オーディション参加者は携帯を没収される代わりに、合宿所の電話で朝晩の2回連絡を取れる。おそらく先輩は今朝、幼なじみの容態を聞いたのだ。
合宿所に常駐する撮影班や、リハ会場行きのバスを連れて指揮する都さんに、先輩はたびたび話しかけに行っていた。その際、根津さんに取り次ぐように言われたのだろう。
俺の前ではいつもと変わりなかった先輩は、ひどく切羽詰まった状態で根津さんに申し立てている。
はじめは反対していた根津さんだが、やがて手のひらを返した。
――はあ……。わかった。その代わり、君ははじめからいないものとする。
携帯灰皿にタバコの火をこすりつけ、優秀な先輩を棄権させようとした。
『オンステージ』無印版は、第2回とちがい、全審査および合宿が終了したのちに地上波放送や配信がなされる。すなわち、今棄権してしまえば、これまでの努力が水の泡。番組放送時には、存在を殺されてしまう。
そうと知れば意見を変えるだろう。と、考えての脅しだった。が、先輩には効かなかった。
――わかりました。夢はまた別の形で追うことにします。今までありがとうございました!
最敬礼をとってさっさと立ち去ろうとした。根津さんは泡を食い、あわてて先輩の腕をつかみかかった。
口論めいた声が飛び交った。
俺は思わず逃げた。
先輩を庇うことも、棄権を反対することも、ましてや最終審査をともにがんばろうと引き留めることもせず。
逃げてしまった。
なぜそんな行動を取ったのか、自分でもよくわからない。
聞いていたくなかったのだろうか。パニックだったのだろうか。
俺は……失望していたのだろうか。
非常階段から廊下に出る寸前、遠くのほうで鈍い音が反響した。ガンッ! と。殴ったような、割れたような、脳を揺さぶる音だった。
俺は怖くなって、急いでリハーサル会場へ向かった。
リハーサル開始時間になっても、当然、先輩は来なかった。
参加者とスタッフ全員に、根津さんから先輩の棄権が発表された。諸般の事情だと。仲間はみんな動揺していたが、先輩の分までがんばろうと鼓舞し合った。
俺は非常階段でのことを誰にも打ち明けられなかった。
逃げてしまった後悔が、あとになって襲ってくる。世話になった人に、何もしてやれなかった。あんなにやさしくしてくれたのに。
血の気が引き、頭痛がした。悪寒もあった。吐き気もした。微熱は超えていただろうと思う。
先輩の穴を隠して予定どおり遂行された最終審査は、リハの時点で結果が見えた。
それでも俺は、性懲りもなく芸能界に居座っている。
「……どうしたらいいんだろう」
雲は晴れない。
天然光は屋根や木々に遮られ、俺の元には届かない。
膝に額を押しつければ、いつの間にか汗が滴り、黒ずんだ地べたのみが視界を塞ぐ。
「……先輩……。先輩……」
せんぱい せんぱい
こんなこと いって いいのか わからない けれど
せんぱい せんぱい
ぼくは あなたに であえて よかった
なんて都合のいい詩。
今の俺に心から詠めるのか。
シンプルな芝居ではなく、歌い踊りながら。
……どうだろう。わからない。できれば歌えると思いたいけれど。
あのときから、自分を信じられない。
「こんなことしてる場合じゃないのに……」
不意に、ガチャリ、と頭上に音が降った。
気候をガン無視した、心地よい冷気が、べたついた前髪を撫でる。
「どうしましたか、晴家龍儀さん」
音漏れの心配のいらない建物から、突然、誰かの声がすり抜けた。明朗とした声質、きっとタイヨウさんだ。
見上げると、頭上の窓が半開きになっていた。
あの窓は、ロッカールームにつながっている。
全体休憩に入ったのであろうタイヨウさんともうひとり、晴家さんが、なぜか、壁一枚隔てた向こうにいるようだ。
「急に僕と話がしたいだなんて。二者面談か何かでしょうか」
「……やめてくれないか」
うわ、本当に晴家さんの声だ。だけど、さっきまでと様子がちがう。
「やめてって、何をです?」
「その話し方だよ。どうして他人行儀なんだ」
俺なんかにも敬語を使ってくれていた晴家さんは、歯がゆさの入り混じる砕けた口調で言い詰めた。
「僕は君の叔父なのに」
えっ、叔父!?
ということは、タイヨウさんと晴家さんは血縁関係? そんな話、聞いたことないけど……。
俺はまた、聞いてはいけない会話を、聞いてしまったのではないだろうか。
「姉さんたち、心配してたよ」
晴家さんの声にやさしさが戻る。
「何年も家に帰らないで何を」
「叔父さん」
晴家さんの案じる気持ちを拒むように、言葉を断ち切られた。
大先輩相手に物怖じせず鼻で笑えるタイヨウさんは、本当に甥の続柄のようだ。
「あなたは立派な役者なのに、どうして母の道化には気づかないんだ」
「え?」
「あれは心配してるふりだよ、ふり」
「ふり?」
「叔父さんの恩恵にあやかろうと、世間体を気にしているだけ。家を出るとき泣きつかれたけど、あれもうそ泣き。あるいは、小間使いを失うことを嘆いていたのかも。現に、捜索願のひとつも出されていないでしょ?」
「それは……君から絵はがきが届くからで……」
「定期連絡は人として最低限のマナーだ。本当に警察に行かれても困るしね」
極寒に突き放す話し声。タイヨウさんは今、どんな表情をしているんだろう。
「俺なんて死ななきゃいいんだよ。せっかく晴家龍儀という金の成る木を身内に持っていながら、息子を見殺しにしたら、悪評が広まって生活できなくなるからね。世間体を守るためだけに、俺は生かされた。……本人たちはごくふつうの一般人なのに。何を勘違いしているんだか」
晴家龍儀の姉は、世間ではわりと知られた存在だ。晴家さんに関するメディアにたびたび登場している。弟大好きなお姉さんとして記事の協力をしたり、バラエティー番組でインタビュー出演したり、幼少期の思い出を一冊の本にして出版したりもしている。
家族愛ゆえの働き。そう見せかけておいて、その実、金に目がくらんで謀ったこと。
本を出したあたりから、その説を唱える少数派もいたが、晴家さん自身は疑いもしなかったのだろう。タイヨウさんの話をやみくもに否定していた。
「ち、ちがうよ、姉さんはそんなつもり……」
「信じられないよね? でも事実だ」
「何か、誤解を」
「俺がこうしてデビューしたら、事務所に母から連絡が来たよ。俺のことも利用しようと思ったんだろうね。俺について一切公表しなければ毎月仕送りしてやるよって言ったら、ぱったりと音沙汰がなくなった。叔父さんも口止めされてたんじゃない?」
「……し、心配だけど、騒ぎになっちゃまずいからって」
「ほらね。つくづくわかりやすくて助かるよ」
昔からそうなんだよ、叔父さんってば鈍感だね。タイヨウさんは他人ごとみたく憐れむ。
「あまり俺の見舞いに来てくれたことはないし、手術が成功したら早く退院しろの一点張り。もしも、まともな親だったら、俺はもっと早く健康になっていたかもしれない。あいつが、死ぬことも、なかった……かもしれない」
淡々とした語りがよどんでいく。
俺の右手にかかる、心臓ひとつ分くらいの液状の重みがゆらり揺らめいた。
「だから、俺は、俺のしたいようにすると決めたんだ。親不孝者だと言われてもかまわない」
――さっき、幼なじみがやばいって聞いて、いてもたってもいられなくて……。あいつのそばについていてやりたいんです!
先輩のときと同じだ。四の五の言わせない、一直線さ。
彼の意志は、もう誰にも曲げられない。たとえ親戚でも。
「でもどうして僕と他人のふりを? 名前だってちがうし……。君の本当の名前は、晴家――」
「俺たちの関係を公表する必要がどこにあるの?」
「え……」
「あっ、一応言っておくけど、それと名前とは別だよ。まじの別件。本名と芸名がちがうのはよくあること、でしょ?」
「ま、まあ、そうだけど」
「タイヨウ――俺が、一番かっこいいと思っている名前だよ!」
いいでしょう? と自慢する甥っ子に、晴家さんは答えあぐねた。微妙な間を察して、タイヨウさんは子どもらしく甘えるように言った。
「叔父さん。理解できないなら、口出ししないで。お願い。悪いようにはしないから」
はっきりと一線が引かれた。
天高く昇った日の光が、分厚い窓を殴りつける。
俺は無意識に右手に力を入れた。ぐしゃりとペットボトルがつぶれた。
「そんなことより、そろそろ仕事に行かなくて大丈夫ですか? 晴家龍儀さん」
調子を切り替えたタイヨウさんは、水臭いアイドルスマイルを想起させる。
鼻を詰まらせたような息遣いが聞こえた。
「この話はまた。……タイヨウくん」
「はい。お気をつけて」
扉が開いて、軋轢を孕んで閉ざされる。
疲労感がどっときた。熱い壁に全体重を寄せ、脱力する。
くびれのできたペットボトルのキャップを開けた。ばふんっとリバウンドに成功した容器から、ぬるくなった水を喉の奥へ移し替える。
すると、眼前に影が差した。
「盗み聞きですか?」
半開きの窓からタイヨウさんの顔が覗き、思わず水を噴き出した。ペットボトルが地面に転がり、天然水の水たまりができる。
詫びを入れるタイヨウさんに、俺は咳きこみながら手のひらを出してタンマをかける。
「ゲホッゲホッ……。あ、謝るのは、俺のほうだから」
水の滴る顎を拭い、ペットボトルを立たせる。白色の飲み口に砂が入りこみ、もう飲めない。
「俺がいること、気づいてたんですか」
「ついさっきですけどね」
「そっか……。よかった。気づかれないままより気が楽だ」
俺は胸を押さえて息を細く吐く。
窓枠に肘をついたタイヨウさんは、その腕で頬を押し上げるように支えた。
「経験者は語るってやつですか?」
「ち、ちが! たまたま出くわすだけで!」
「やっぱり。初犯じゃないんですね」
「あ……」
「責めてるわけじゃないですよ。ヒノデさん、口固そうだし」
「……」
「秘密、たくさん持ってそう」
「別に……」
タイヨウさんは意味深に目をすがめる。
俺は膝を胸に近づけ、小さく丸まった。できたばかりの水たまりに右のつま先が浸る。
「あの晴家さんと血縁関係、だったんですね」
「どうかお忘れください。僕には関係のない事実ですので」
「関係のない、事実、ですか。七光りだとか二世だとか騒がられてしまいますもんね」
「まあそんなところです。ヒノデさんはここで何してたんですか」
「えっ? ええっと……ちょっと、その……は、反省会を」
「あぁ、炎谷監督にみっちり絞られてましたね」
「うっ……」
傷口がひりつく。
「すみません、いつも稽古を中断させてしまって」
「いやいや! やめてください! 謝ることじゃないですよ!」
「いえ、俺が悪いんです。俺が愚図で、だめだめだから、炎谷さんを苛立たせてしまっているんです」
何ひとつ解決しないまま、課題が積もっていく。誰も、自分自身すら、納得させられない。
俺は準主役なのに。長年愛されてきた、ボンスケ役なのに。
炎谷さんも呆れ果てていた。俺をきらっていてもおかしくはない。
「炎谷監督なりに、ヒノデさんのこと考えていると思いますよ」
タイヨウさんのなぐさめのひと言に、俺は自嘲げに一笑する。
「そうかな……?」
「そうですよ。じゃなきゃ『クピド』の話なんか出さないでしょう?」
「……? どういう……」
「『クピド』は三位一体となり、誰が誰かわからなくなるところが特徴のステージ。放送でも、ミスした箇所以外、正体には触れられていなかった。さて、どうして炎谷監督は、ヒノデさんがどれか見抜けたのでしょうか」
「ミスをしたのが、俺だけだったから……」
「本当にそれだけだと思いますか?」
「……」
わかってる。
炎谷さんの心眼は、すべてお見通しだ。それゆえに巨匠となったのだ。
3人でどれだけ似せても、声や動きの発生は別個体。それぞれの些細な特徴から含められた感情まで、明確に汲み取ってしまう。
現在との違い、欠損、心の奥で暴れる葛藤も、炎谷さんには隠し通せない。
「もうちょっと信頼してもいいんですよ。自分のこと。それがむずかしければ、まずは他人から」
日光に照らされたタイヨウさんが、金色に輝く。
俺は何も言わず、目を細めた。




