炎症⑶
街に半袖の人がうじゃうじゃと湧き始め、羽目を外す声がところせましとひしめく。
ドラマ撮影がオールアップした。
俺とタイヨウさんの歌うドラマ主題歌も無事に納品できた。
残るは……俺にとっての最難関、ミュージカル。
今日からは、舞台稽古に専念することになる。とはいえラジオやバラエティー番組などほかにも仕事はあるのだが、万全に稽古に臨めるよう、雪さんがスケジュールを組んでくれた。
丸一日稽古も不可能ではなくなったからか、稽古場が炎谷さん所有の武道場のような建物に変更にされた。今までのよりも倍以上の広さがある。私有地だから予約も時間制限も必要ない。演劇初心者の俺にはもってこいの場所だった。
午前9時。全体練習開始まで、あと30分。
昨年開催したソロライブのオリジナルTシャツに着替えた俺は、いつかの黒ジャージをまとうタイヨウさんとストレッチを始めた。
ほかのキャストも続々と稽古場にやってくる。運動したり、発声練習をしたり、朝食を摂ったり、思い思いに過ごした。
ガラガラと扉がスライドされた。
現れたのは、使いこまれた台本を持った……あれ? 炎谷さんだ。いつもは開始時間直前に来るのに、めずらしい。
「失礼しますぅ……」
炎谷さんのほうから控えめな挨拶が聞こえ、一瞬室内が静まり返った。
腕をつかみ合って体をほぐす俺とタイヨウさんは、きょとんと視線を合わせる。
やせ細った老体に目を凝らすと、その背後に男前な顔が覗いた。
「みなさん、おはようございます」
ひげの生えた渋みのある顔つきの男性が、うしろ手に扉を閉め、にこやかに会釈をした。炎谷さんに臆することなく連れ添って歩き、片手には三ツ星ホテルの紙袋を提げている。
気づいたら俺の目は、品位の高い彼に刺さって抜けなくなっていた。タイヨウさんに両腕をぐいぐいと引っ張られても、棒立ちの体はびくともしない。
「り、龍様だ……」
壁沿いに置かれた、明らかに特注品の椅子に炎谷さんが腰かけると、龍様――芸歴も役としても大先輩である晴家龍儀さんが、まるで宰相かのように椅子の横に立った。
「はじめまして、晴家です。本日は炎谷監督のご厚意もあり、『SIESTA』の舞台の感じを少しだけ拝見しにまいりました。これ、差し入れです。よければみなさんで食べてください」
金糸に近しい髪をうしろに流した彼は、おだやかにほほえみ、紙袋を近くのテーブルに置いた。
俺の頬をつねる代わりに両腕を引きちぎりにかかった、タイヨウさんの手が、ついに力をなくした。
「こんなに早く会うことになるなんて……」
独白が声に出ていることに気づかないほど、タイヨウさんは動揺していた。
俺は心の中でそれはもう激しく共感した。
業界を牽引する名優、晴家さんは、年中繁忙期な印象が強く、スケジュールにない現場にふらっと立ち寄るなんてまずないと思っていた。
だって、先月まで連続ドラマでタイムリープした大学生役で主演を張っていたし、先々月は時代劇で主人公の仇となる武将を熱演、来月末に公開されるノンフィクション映画ではキーマンとなる研究員役を務めるらしい。
カメレオン俳優と絶賛される彼の活躍ぶりを知っていれば、ここに少し顔を出すことがどれほど貴重なことか、痛感せざるを得ないのだ。
ここに来たのも番組の企画か何かだろうか、サプライズで突撃してみた的なやつではなかろうか。周囲にカメラを探すが見当たらない。
正真正銘、オフの龍様だ。
来るとしても公演間近を予想していたが、今は2ヶ月も前。そうとうな作品愛だ。やはりシリーズを何年も背負ってきた人は心構えからしてちがう。
「僕のことはどうぞおかまいなく。体育の授業の見学者くらいに思ってください」
無茶言うなあ……。
「あ、炎谷監督も食べます? 差し入れ」
「中身は?」
「プリンです。なめらかでおいしいって、月乃さんに聞いたんです。炎谷さん、プリンお好きでしたよね」
「……ああ、あとでもらおう」
本当に晴家さんを気にしていないのは、彼以上の大御所である炎谷さんだけだ。
晴家さんは炎谷さんの手がける舞台によく出演していて、交友が深い。おそらくこの私有地に来たのもはじめてではないだろう。
あのふたりの周りだけ別世界に見える。
「挨拶、いきますか」
隣で立ちつくしていたタイヨウさんが、腹を決め、俺に言う。
「そ、そうだね」
返答の選択肢は、それしかなかった。
そもそもストレッチどころではない。
俺とタイヨウさんは晴家さんの元へ近寄った。
紙袋から何十個ものプリンが包装された箱を取り出す晴家さんは、俺たちに気づくやいなや、律儀に手を止めて待ち受ける。25年以上芸能界に身を置く彼も例外なく、優れた外見をしたタイヨウさんを一番に目に留めた。かすかに喜色を滲みらせている。
「ひさし――」
「はじめまして、晴家さん」
晴家さんの声が聞こえなかったのか、タイヨウさんは矢継ぎ早に名乗った。
「アイトウエンターテイメント所属、タイヨウです。今作ではバク役を務めます。よろしくお願いします!」
明瞭な滑舌、ぴったり45度に曲がった腰。それらがかえって堅苦しく、事務的な雰囲気をほのめかす。
晴家さんはこころなしか困惑していたが、仕方なさそうに肉付きのない頬をゆるませた。
「はい、よろしくお願いします」
「……」
「タイヨウ、くん」
上半身を起こしたタイヨウさんは、達成感に満ちた顔をしていた。中空をすくうように右手の先端を俺に向ける。
「そして、こちらが……」
「わ、ワクナイ芸能事務所の、ヒノデと申します」
ヒノデくん、と晴家さんはスムーズに復唱する。
「以前、特番でご一緒でしたよね」
「は、はい! 覚えていてくださって恐縮です。本作では僭越ながら、晴家さんと同じくボンスケを演じさせていただきます。よ、よろしくお願いいたします」
「こちらこそよろしくお願いします。ボンスケのことであれば、何かお役に立てるかもしれません。なんでも聞いてくださいね」
「あ、ありがとうございます……!」
言葉の節々から社交辞令ではないであろうことが伝わってくる。挨拶する前より心拍数が上がっていた。
ひとしきり感謝を表し、ストレッチに戻ろうとすれば、あっ、と晴家さんが名残惜しそうに声を上げる。
「どうかしましたか?」
「は、晴家さん……?」
タイヨウさん、俺の順に、晴家さんの視線が泳ぐ。息を吸った唇がきゅっと真一文字に引き結ばれ、そうしてまた、水面に映る山の端を描いて開かれた。
「け、稽古、がんばってくださいね」
俺とタイヨウさんはそろって返事をした。
機能性の高そうな監督専用チェアのそばに、パイプ椅子が用意された。即席の見学者席とはいえ、あそこに並んで座っていると、稽古というよりオーディション審査のように見えて少し足がすくんだ。
ゆっくりと時間をかけて体をほぐしたにもかかわらず、ふくらはぎの筋肉やら神経がピクピクとこわばっている。
演技指導が始まっても、足取りは重かった。
「せ、先輩……!」
「なっ……なんで来た!?」
俺はべたべたと上履きを鳴らして、窓際からタイヨウさんのいる中央へ駆け寄った。
「先輩、大丈夫ですか!?」
「テメェ誰の心配して……」
「だって先輩は! 犯人じゃないでしょ!」
「――ストップ。動きが雑。もう一回」
炎谷さんのひと声で、場面はただちに巻き戻される。
窓際に引き返す俺の後頭部めがけ、槍のように鋭い炎谷さんの眼が投じられる。ジクジクと頭皮を打ち破る尖鋭さだ。
動きが雑。あれは俺宛だ。絶対そうだ。
役の解釈はドラマ撮影をとおしてインプットできた、と思う。が、ミュージカルでドラマのとおりに演じてもうまくいくとは限らない。同じ板の上であるライブともまったくちがう。
動きはどんなふうに観える? 声はどこまで届く?
舞台経験がないなりに台本にメモを書きため、ミュージカルの研究をし、演技レッスンを増やした。でも肝心なところで、全部、頭の中から消えていく。新雪みたいに真っ白だ。
せっかく晴家さんがいるのだ、いいところを見せたいのに。
失望されていないだろうか。
俺は、何を、おそれているんだろう。
セリフや演習を細かく修正したあと、ミュージカルの醍醐味である、歌唱と舞踊をかけ合わせたパフォーマンスの練習に移った。
セット代わりの木箱ふたつに、俺とタイヨウさんがそれぞれ腰かける。
バクに扮するタイヨウさんのやつれた顔を見つめながら、俺は鍛えた喉を震わせた。
「先輩。先輩。こんなこと言っていいのかわからないけれど」
ビブラートを響かせながら立ち上がり、身振り手振りをつけて歌う。
「先輩。先輩。ボクは、あなたに、出会えてよかった」
「ストップ。タイミングが遅い。やり直し」
「は……はい」
炎谷さんの手厳しい鞭は、なおも俺を叩き続ける。声量が足りない。アクセントがちがう。間をわかってない。ダメ出しは、曲をフルで10回以上やっても尽きない。
俺に充てられた指導時間は、カンパニー内でダントツだ。タイヨウさんを筆頭に演者それぞれの成長を妨げてしまっている。どうしようもなく肩身が狭かった。
「ヒノデ」
「は、はい……」
炎谷さんは曲を停止させた手で額を覆った。
俺のぬめついた背に、ライブTシャツが張り付く。首周りはびっしょりと湿り、汚らしく変色している。
「『クピド』のときの君は、いったいどこへいったんだ」
いつもとちがうダメ出しの仕方、なによりその内容に、俺は耳を疑った。
「え……クピドって、あのクピドですか……?」
「ほかに何がある」
「……ご、ご覧になったんですか」
「『オンステージ 2nd』に携わるにあたって、過去の映像にざっと目を通しただけだ」
だとしても、直接言及されるとは思いもしなかった。少なくとも、あのステージが炎谷さんの記憶に残っている。その事実に目が潤んだ。
「『クピド』と今では、歌い方が変わったな。あのときの、産まれたてのような声はよかった」
「あっ、ありが……」
「だが今は苦しそうだ」
「……っ」
「なぜだ。君は歌手だろう」
目頭に涙がにじむ。いやちがう、これは汗だ、汗が目に入ったのだ。でなければおかしい。痛覚を刺激されるのも、周りが見えなくなるのも。
うつむく俺に、炎谷さんはため息をついた。
「ヒノデ、君は先に休んでいなさい」
「…………はい」
俺は意気地なく部屋の隅に下がった。
壁沿いに整列する長テーブルに放置していた、いつもの天然水は、ひと口飲んだだけで空っぽになる。近くで待機していた雪さんが、新品のペットボトルを渡してくれた。
汗を流した分、体内に水を浴びせながら、タイヨウさんひとりとなった歌劇を観察した。しばらくして無性にひとりになりたくなり、雪さんにひと言告げて稽古場をあとにした。




