生存
ウー! ウー!
外からこだまするサイレンで、俺は我に返った。
「やっと正気に戻ったか」
ため息混じりの声に、はっと振り返れば、眼鏡をかけた白髪の老人が呆れ顔で部屋の扉にもたれかかっていた。
「炎谷さん……!」
「居残りも大概にしなさいと言っただろう」
「す、すみません」
御歳70歳を超える炎谷さんは、ミュージカル界の生きる伝説として有名な舞台演出家だ。
現在も現役バリバリ。現場では今のようにぴしゃりと指導をし、その貫禄を十二分に発揮している。
秋葉原にあるこの稽古場は、彼の私有地のひとつだ。
ほんの3時間前まで熱気であふれかえっていたが、今ではたったふたつの息遣いしか残されていない。
わずかに開けた窓ガラスの向こう、黄金の三日月がセンターに立つ。
汗ばむ肌をつんと刺す冬の匂いに、頭までのぼっていた熱がぐんと冷えこんでいくのを感じた。
音を吸収する板の厚み。顎先を滴る汗の感触。膝のこすれたジャージのほつれ。
静寂を切り裂く、けたたましい赤いランプ。
みるみる五感が冴えていく。情報の濁流に飲み込まれ、頭がくらくらした。
「役への理解を誤解するな。気絶同然の没入はただの病気だ」
「はい……」
「来週にはゲネだ。こんなところで無茶をしたら元も子もないぞ」
「……はい……」
厳格な口調とは裏腹に、声音はどこまでもあたかかかった。
かつて、稽古場の戸締りは炎谷さんの担当と決まっていたほど練習の虫だったそうだ。最近は年齢的に厳しくなり、稽古後、一番に見送るのが暗黙の了解になっている。
今の戸締り担当は、俺だ。
寝る間も惜しんで自主練をし、そのまま朝になることもめずらしくない。やってもやっても足りなかった。
先週ついぞ「練習のしすぎだ」と叱られた。それでも日付が変わるまで稽古場に居座った。
だから炎谷さんは痺れを切らし、引き返してきたのだろう。
俺もバカじゃない。先週まで何も言わないでくれたのも、今もぎりぎりまで見守っていてくれたのも、全部やさしさだ。俺の気持ちを尊重してくれているのだ。
でも……。
ぐっと拳を握ると、持っていた台本がくしゃりと歪んだ。
あずき色の表紙はすでにぼろぼろだが、印字された毛筆書体のタイトルは今もなお黒く光っている。
『花一匁』
炎谷さんが手がける、完全オリジナルの新作ミュージカル。
舞台は、刀狩が試行されなかった現代日本。身近に武器がありふれたとある高校で、ひとりの少女をめぐって争う、青春アクションストーリーだ。
来週から約2ヶ月間に渡り、都内きっての大型劇場であるコスモシアターで公演する。
主演は――俺だ。
「君に座長は荷が重かったか」
その言葉に思わず歯噛みした。
ミュージカルに出演するのは、これが2回目。今回の演者の中で一番のひよっこだ。
けれど、主役に選んでくれた。
オーディションはなく、ほかでもない炎谷さんからのご指名だと聞いたとき、どれほど驚いたことか。
どうして、俺なんだろう。
その答えをいまだに見い出せずにいる。
「できるか、今の君に」
わからない。
それが正直な気持ちだった。
芸歴8年目。アーティストデビューから2年、俳優としても出始め、さらに6年が過ぎた。
ドラマや映画にはよく呼ばれるようになったものの、主役の座には及ばない。せいぜい花の一番近くで支える花瓶ほどだった。
しかし、知識も経験も乏しいミュージカルで、俺ははじめてセンターに立つことになる。
ずっと、憧れていた場所。
ずっと、あと一歩のところで逃してきた場所。
たやすく悪夢になり得る、夢のような場所に、俺はいる。
喜びよりも先に不安が勝ったこの身体が、たくましいわけがなく、だからこそ鍛えなければならないという使命感でいっぱいだった。
「お、俺、は……」
「悪いな」
沈黙を断つように謝られた。意図を汲み取れず顔を上げれば、強靭な眼光が俺のど真ん中を射抜いた。
「君が何と答えようと、今さら降ろすことはできない」
ドク、ドクドク、ドクドクドク。
心臓が飛びかかる勢いで加速する。
俺だってここから降りたくはない。
できないと言いたくない。
でも……。
その続きが、いつも喉に引っかかる。
すべて見透かしているのか、炎谷さんは続けて話す。
「私はね、懸けたんだよ」
「懸けた……?」
「去年の『SIESTA』の舞台、憶えているだろう?」
忘れられるわけがない。俺の、ミュージカルデビュー作。炎谷さんとの出会いも、そこだった。
あれがダメ、これもダメと散々叱られたっけ。きらわれてるんだと思ってた。俺も、自分のことがきらいだった。
……怖かった。
「公演が終わって、私が一番に思ったことがわかるか?」
黙ってかぶりを振ると、ふ、とはじめて彼の表情がゆるんだ。
「また君とやりたい」
「えっ……」
「本当だ。本当に、そう思った。君の可能性に、懸けたくなったんだ」
目頭に熱が灯る。おだやかな痛みがこみあげる。
変な気分だ。
めったにほめてもらえることなんかない。
なのに、どうして、どうしようもなく、喜びより不安を感じてしまうんだろう。
──なにためらってんだよ。
あのとき。
すくいあげてくれた手があった。
──怖い? いいことじゃん。
そう言って他人ごとのように笑っていながら、とてもやさしい温もりを分けてくれた。
だから、俺は。
「こう言うとまたプレッシャーになってしまうかな」
ひとりごちる彼の表情は、すでに抑揚のないものに戻っていた。出入口の扉へ踵を返すと、電気のスイッチに手をかざす。
「今日はもう休みなさい」
返事をする前に、パチン。稽古場の明かりを消された。
今もなお窓の奥でめぐる赤い警告が、この薄暗闇に満ちていく。
目が、痛い。ずっと。
・
稽古場から秋葉原駅まで、徒歩20分。
マネージャーが送迎してくれる予定だったが、居残り練習をしたいがために断った。代わりにマネージャから借りた自転車は、先週チェーンが壊れてしまった。タクシーを呼ぼうかとも思ったが、待っている時間が惜しい。ウォーキングがてら歩く習慣がついた。
ウー! ウー!
パトカーが急ぎ足で走っていく。
23時を過ぎているというのに、町が明るく見える。赤く、燃えているようだ。
体が熱い。
練習で使ったエネルギーが、ものすごい速さでうごめているのがわかる。
分厚いダウンジャケットを脱いでしまおうか。いや、中は練習着の半袖Tシャツ。2月も終わりが近づいてきたが、世間ではまだインフルエンザが流行っている。舞台に支障をきたすわけにはいかない。ぜったいに。
そういえば、と、カバンに入れっぱなしだったマスクを付けた。
「――はっくしょん!!」
そのとき、絵に描いたようなくしゃみが、後方から飛んできた。
視線だけ向けると、俺と似た背格好の人影が、電柱の影に潜んでいた。
キラリ、何かが光る。カメラのレンズだと理解した瞬間、すぐさま正面を向き直し足を速めた。
ガムを吐き捨てるような舌打ち、次いで、差し迫る足音。直後。ダウンジャケットのフードを、うしろに引っ張られた。
転倒しかけ、あわてて足腰に全体重をかける。
首元の苦しさに抗えば、
「す、すみません……あの……ゲホッゲホッ!」
俺よりも苦しそうに咳きこむ男が、おれのフードからぱっと手を離した。
その反対側の手には、やはり、一眼レフカメラ。
記者か、ファンか、ストーカーか。
ふしぎと怖くはなかった。肉弾戦なら稽古後の体力でも余りあるほど、その男は軟弱に見えた。
「ゲホッ……ンンッ、あ、あのですね」
「な、何か?」
「わ、わたくし、『ティーンナイト』の者ですが」
その名前に思わず眉間にしわが寄る。
Web媒体のゴシップ誌である『ティーンナイト』は、業界では有名な札付きマガジンだ。
アクセス数稼ぎのために、おもしろおかしく盛った編集をし、騒ぎ立てるのだ。情報の精査もままならない10代に、まんまと刺さり、あっという間に広がっていく。
ただ、あることないことでっちあげるのではない。火のないところに煙は立たない。どこからか嗅ぎつけたネタを、真偽問わず根掘り葉掘り煽り立てるからたちが悪いのだ。
事務所の先輩も被害を被っている。
俳優の雨ヶ谷さんは、ドラマの打ち上げにスタッフ含め全員でごはんに行ったら、ヒロイン役を務めた女優との隠密デートとして拡散された。
ごはんに行ったことは事実だが、ふたりではないし、ましてや恋仲でもない。けれどそこに付随された写真は、あたかもはじめからふたりきりだったかのように切り抜かれていた。
単なるネット記事だと割り切れないほどにティーンへの影響力があるせいで、当の女優に対する誹謗中傷が殺到し、一時期SNSが荒れに荒れていた。
事務所が訴えたものの、火消しはむずかしい。油を一滴でも注がれれば、ところかまわず燃え上がってしまう。負った火傷は簡単には治らない。痕になっても、そちらはおかまいなしだ。
「す、少しお話よろしいですか?」
事務所を通してください。
いつもの断り文句で、さっさと帰ってしまいたかった。が、彼は俺と似たような面をしていて、なんだか良心が痛む。
なんで俺がこんな思いをしなきゃいけないんだ。
けれどもし、ここで無視をしたらどうなるか。態度がどうのと書かれ、来週の舞台に泥を塗るはめになる。俺は、看板だ。しっかりしないと。幸いにも、演技は領分だ。ここは、先手を打て。
「じゃあ、俺からいいですか?」
「っえ?」
「どうして俺のこと尾けてたんです?」
俺だって、この8年間それなりに場数を踏んできた。察しはついてる。
「つ、尾けてたなんてとんでもない! た、ただ……」
「ただ?」
「が、『GaoR』と接触しないか、うかがっていただけで」
やっぱり。
俺がこういう目に遭うときは、たいてい俺自身の問題じゃない。俺の周りで、何かが起きているのだ。
「アイトウエンターテインメントが来週記者会見をすることは、ご存知ですよね?」
彼の呼吸が落ち着いてきたとたん、記者スイッチが入った。前のめりにまくし立てる。
「内容は明かさず、『GaoR』が記者会見を開くことだけが告知されています。いったい何の会見なのか、あなたなら聞いているんじゃないですか!?」
瞬きを一切しないその目は、完全にイっていた。よく見れば、目の下には熟年のクマがある。一度でも目を閉じれば、永遠に開かなくなってもおかしくはない。
脳裏に、『GaoR』がよぎる。先月共演した『ミュージックハウス』で見せた、アイドルの顔。それしかぱっと出てこない。そういえば、最近飯に行けてなかった。
行く元気がなかった。
さっきまであんなに熱かったのに、汗が引く。血の気が引く。全部、引いて、冷えていく。
それでも、俺が言えることは、ひとつだけ。
「知りません」
「う、うそだ! 何か大きなことが動いてるってうわさですよ!」
「知らないものは知らないんです」
もういいですか、と軽く会釈をして去ろうとすれば、またフードを引っつかまれた。力は強くはない。歩き出せばきっとたやすく放せる。でも、できなかった。
「こ、ここで結果を出さないと、僕は……っ」
震えていた。手も、口も、瞳も。今にもこぼれ落ちてしまいそうな大粒の涙さえも。
俺も、ずっと、そっち側だった。
走っても走っても茨の道。帰ろうにもうしろに道はない。進まなきゃ生きるのも苦しかった。
これ以上の苦なんてないと、本気で信じていた。
ここまで来てみて、ようやくわかる。
ここは、断崖絶壁。どこを向いても、奈落の底。一歩でもはみ出せば、明日はない。何も信じられない。
孤独だ。
――なにためらってんだよ。
ごめん。俺には、あんなふうに笑ってやれない。
かといって振りほどけるほどの冷静さもない。夜は、脳が鈍くなる。
とりあえず涙を拭いてやろうかとカバンからタオルを取り出した。
ドンッ!
誰かと肩がぶつかり、タオルがひらりはらりと落ちていった。
「くそがっ! 邪魔だどけ!!」
中肉中背のおじさんが、生唾を吐き散らしながら睨んできた。
どこかで見たことあるような、ないような顔だった。記者の男にも衝突しながら、強引に突っ走っていく。
数秒もせず、駅の方角からパトカーも通り過ぎる。
音と光に意識が埋もれていく。
何なんだ、いったい……。
いかにもただごとではない。
情報量が多すぎて、恐怖心もまともに働かない。
記者の男はとうにキャパオーバーだ。すっこんだ涙の代わりに鼻水をたらしながら、遠ざかる丸い背中をぽかんと眺めている。
首からだらんと下がったカメラは、情けない足元を静かにおさめていた。
「あの、いいんですか?」
「……へ?」
「あっち追いかけなくて。ぜったい何かありますよ、あれ」
俺にとってはただのはた迷惑な偶然でしかないが、誰かにとってはまたとない好機になることもある。
雑誌の専門外かもしれないが、俺を張るよりよっぽど有益にちがいない。俺も晴れて自由の身になり、一石二鳥。ウィンウィンだ。
彼の間の抜けた顔が、みるみる驚きと焦りで広がっていく。鼻水を拭った手でカメラを抱きかかえると、サイレンの鳴る方向へと駆けていった。
静寂が戻る。
薄い雲の上で星が歌っていた。
落としたタオルには、泥にまみれた足跡がついていた。パンパンと軽く払い落とし、カバンの外ポケットに仕舞う。
赤く眩む街を背に、俺はひとり、また歩き出す。目指す先は、切れかけた街灯がぽつぽつたたずむだけの暗闇。褪せた影だけがひっそりとついてくる。
吐いた息が霧のように分散していった。
あぁ、たぶん、きっと。
死ぬときって、こういう感じなんだろう。




