蛍⑷
テレビ局には仮眠室が数種類設けられている。部屋ごとに設備が異なり、学校の保健室のような部屋からビジネスホテルを模した部屋まである。
わたしは比較的新しい、ホテル造りの部屋に入った。
部屋の中にはさらに10の個室が備わっている。そのうち使用中の札のかかった扉はひとつしかなかった。
仮眠室に入ってすぐの扉をノックする。鍵の外れる音がし、内側から開かれていく。
「あ、向井さん。どうぞ」
天井すれすれにタイヨウくんの顔が覗いた。体の向きを変え、わたしを中へ入れてくれる。
「きょうちゃ……あ、今日華ちゃんの具合はどうですか」
「まだ意識はありません。おそらく貧血かと」
「貧血……」
ふかふかのベッドに寝かせたきょうちゃんは、布団と毛布で顎下まで包みこまれ、できる限り熱を閉じこめている。
マネージャー陣が見当たらず、聞いてみると、事務所やYOURSチームなど各所に連絡を入れているらしい。
こんなことになるなんて誰も想像していなかった。
……本当に?
彼女の青ざめた顔に、コンシーラーがいやに浮いていた。ハイライトの粉をふりかけた頬は、少し痩せ、本来の艶を失っている。
撮影外はいつも眠たそうにしていた。でも疲れを見せることはなかった。
大丈夫だと、思いこんでいた。
彼女は女優だ。
それも2クール連続で主演を務める、すごい女優さんだ。
わたしには見抜けなかった。
なんてことなく笑う姿に安心すらしていた。
あぁ、わたしはバカだった。
「……たいよう、くんは」
「はい?」
「タイヨウくんは、大丈夫?」
「あ、僕は、全然。元気っすよ」
「そう……」
彼の肩に帰還したジャケットがぴんと張り、健やかな肉質を誇示する。
室温湿度をコントロールされた部屋は少し暑く、わたしの縮まっていた身体を否応なしにほぐしていった。
じわりと目頭がゆるむ。反射的に顔をしかめた。
「タイヨウくんはすごいですね」
「え、すごい、ですか?」
「わたし、何もできなかった」
ずっと近くにいたのに。
誰よりも顔を見てきたのに。
支えることさえできなかった。
あろうことか、手を、離してしまったの。
「わたしにも何かできたはずなのに……」
後悔ばかりが積もっていく。
いつまでも変わらない。
あの日――あの夏に、囚われたまま。
「こんなんじゃだめですね。もっとできる大人になりたいんですが」
「んー、大人とか関係ないと思いますよ。僕がたまたまこういうことに慣れていただけです。ふつうはパニックになりますよ、大丈夫です」
大丈夫。
それが万能薬でも魔法でもないことを、わたしは知っている。
けれど、自分に暗示させるのと、他人に伝えられるのとでは、明らかにちがう感触があった。
エイジを演じる彼もきっと知っていることだ。だからなおさら、心にするするとしみこむのだ。
伏し目がちに彼を見やる。彼はほんのわずかに首を傾げ、口を広々と結び上げた。一点の曇りもない笑顔。黄色い後光が射して見えた。
きれいだと思った。でもやっぱり元カレと似た雰囲気を感じ、ちょっと、涙腺にキた。
わたしは細々と息を掃きながら、視線を枕元に滑らせた。
彼女を刺激しないよう気をつけながら、はちみつ色の髪の毛を手ぐしで梳かす。編みこんである頭からヘアピンやゴムを取り除いていく。
メイクも落としてあげたいが、今手元にスキンケア一式はない。あのネイビーのボストンバッグを今からでも持ってこようか。と悩んでいると、ブラウンのグラデーションが崩れかけた瞼がぴくりとこわばった。
「今日華ちゃん?」
小声で呼ぶと、固く閉ざしていた瞼がひくひく震えながら押し開かれた。
うつろな瞳がベッド横にいるわたしを見つける。
「……さあ、ちゃん……?」
やっと返事をもらえた。わたしは気が抜けて頬を垂らした。
彼女はぼうっとしながら周囲を見渡す。
「あれ……? ここどこ……?」
「仮眠室よ」
かみんしつ、と彼女は舌足らずに繰り返す。
「収録後に倒れたあなたを、彼が運んでくれたの」
「たおれた……あたしが?」
「そう。だからまだ安静にしてて」
「そうですよ。もう少ししたら救急車が来ますから」
扉前にいるタイヨウくんが子守唄のトーンで声をかける。
ただオウム返ししていた彼女は、急に覚醒したように目をむいた。
「き、救急車!? い、いいよそんなの! あたしこのあと雑誌の……」
「いけません!」
あわただしく起き上がろうとすると、彼がぴしゃりと雷を落とす。
案の定、彼女の頭はぐわんと揺れ、蓄えた熱をあっという間に逃がしていく。
「おとなしく病院に行ってください! 大事になってからじゃ遅いんですよ!?」
「は、はい……」
聞いたことのない彼の鬼気迫る声に、彼女は否応なしにベッドに身を預ける。
どっちが年上かわからないな。わたしは苦笑しながら毛布をかけ直してやった。枕にうずめられた彼女の頭を、障らない程度に撫でる。
柔軟剤の香りのする枕カバーに紅をかすめながら、彼女は半べそをかいていた。
「ごめんね? あたしのせいで迷惑かけて」
「ううん、ちがうよ。そんなこと言わないで」
わたしは間髪入れずに否定した。
あたしのせいだなんてセリフを言わせたくなかったし、聞きたくもなかった。
元カレがいなくなったときも、散々耳にした。
俺のせい、私のせいだと。
わたしも、わたしのせいだと思った。
そうやって無責任に責めれば、死してなお、彼を近くに感じられた。
とんだ勘違いだ。
どこかの誰かは本当だったかもしれないけれど、わたしのはまちがいなく嘘だった。
そんなことで楽にはなれない。
過ぎたことは返ってこない。
わたしのせいだと思っても、空いた穴は塞がらなかった。
人というのは、愚かで、弱い生き物だ。
「意識が戻ってよかった」
わたしが毛布の裾を握りしめると、枕に伏せていた彼女の顔が半分だけこちらに向けられた。顔色はまだよくない。それでも表情は幾分かやわらかかった。
「ありがとう……さあちゃん、たあくん」
「もう無理しちゃだめだからね」
「はあい。気をつけます」
彼女は赤子のような笑い声をこぼす。笑う元気があるなら安心だ。
数分後、彼女のマネージャーと『ミュージックハウス』のスタッフが救急隊員を連れ、部屋を訪れた。
病院に搬送された彼女を見送ったわたしは、仮眠室の後片付けをする。彼女のマネージャーは救急車に付き添い、タイヨウくんは衣装を戻しに控室へ移動した。
枕カバーを替えていると、内ポケットに入れている携帯がひとりでに振動した。片手間に画面をチェックする。通知が何件もたまっていた。不在着信2件、メッセージ4件。すべて柳先輩からだ。教育期間を卒業してからはじめての連絡だった。
最新のメッセージが表示される。
『今日華ちゃんのこと聞いたよ。大丈夫だった? いつでも連絡してね』
さすが先輩、情報が早い。
先輩も仕事で忙しいだろうに、合間を縫って連絡をくれたのだろう。
やさしいな。すごいな。……みんな、かっこいいな。
取り外した枕カバーに、黒く透けたしみがついた。
ありがとうございますとだけ、スマイルの絵文字付きで先に返信しておく。
ベッドメイキングを済ませ、使用中の札を裏返し未使用に変えた。汚れた枕カバーを個室の前の廊下に置かれた専用のかごに放り入れた。
さてと。次は仕事道具を回収しに行かなくちゃ。
何気なく右耳に髪をかける。するりと指が流れていく。
ん? と個室の扉の前で立ち呆けた。
耳たぶを指先でなぞる。おかしい。引っかかりを感じない。
「イヤリングが、ない」
左耳もつまんでみれば、そこにはたしかに金具とガラスの感触があった。
片方だけ、なくなっている。
足元を一周凝視したが見当たらない。もう一度個室に入り、整えた布団を自らの手でひっくり返した。枕の下、ベッド周り、自分の服、考えられる限りの場所を調べた。しかし、それらしき影はなかった。個室を出て、廊下もひととおり探してみる。枕カバーの内側、かごの底も確かめた。ない。ない。どこにもない。
「どうしよう……」
いったいどこでなくしてしまったんだろう。
今にも押しつぶされそうな胃をさすりながら、必死に記憶を振り返る。
わたしは最後に、いつ、イヤリングを触った?
「……あ、そうだ。スタジオっ」
きょうちゃんが倒れたときには、イヤリングはあった。……はず。
ちがうかもしれなくても、じっとしていられない。
衝動のままに仮眠室の扉を開ける。
「うお!?」
「えっ!」
誰かとぶつかりそうになり、急ブレーキをかけた。
「あっ、向井さん! やっぱりまだここにいたんですね」
眼前には、私服に着替えたタイヨウくんがいた。前髪を乱し、胸を上下させている。
「あーよかった、すれちがわなくて」
「え……ど、どうして……」
どうして彼がここにいるのか。
きょうちゃん同様、彼のスケジュールも毎日ぱんぱんに詰まっている。このあとはラジオの仕事があるのだと、控室でメイクをしたときに話していた。仮眠室どころかテレビ局にももう用はないだろうに。
イヤリングのことも相まってひどい混乱状態に陥るわたしに、彼は涼やかに笑って右手を差し出した。
「これ、探しているんじゃないかと思って」
拳に折りたたまれた細長い指が、華麗に開かれる。
隙間から漏れ出る、金の光沢。
わたしが両手を伸ばすと、カラン……と彼の手から小さな輝きが舞い落ちた。
涙をハートに生まれ変わらせたような、ガラス製の花びら。内側から白、外側から黄色が儚げにしみこみ、手のひらにぽつぽつとした光彩を点す。
それは、なくしたと思っていた、わたしの宝物。
「わたしの、イヤリングだ」
「やっぱり! スタジオ前に落ちてましたよ」
「あ、ありがとうございます……!」
イヤリングをぎゅっと握りしめ、深々と頭を下げた。わああやめてくださいよ! と彼は本気であわてふためいていたが、わたしの気持ちはおさまらなくて二度三度礼を重ねた。
「ちょうど探していたんです。見つからなかったらどうしようかと」
「すぐに届けに来て正解でしたね!」
「本当にありがとうございます。でもよくわかりましたね? これがわたしのだって」
「いつもつけてらっしゃいましたから」
言われてみれば、『オンステージ 2nd』『YOURS』……イヤリングをつけて行った現場には、必ず彼がいた。
「とてもきれいです」
羽のように軽く言ってのけた彼に、わたしの心臓が否応なしに高鳴る。
暑い。今、2月なのに。
どうしようもなく思い出してしまう。
元カレを好きになったのも、そんな簡単な言葉だった。
――沙夜? きれいな名前だな。
たった一瞬。
たったひとこと。
13歳、春。わたしは恋に落ちた。
中学3年間ずっと片思いだった。同じ高校に行くことがわかって、バカみたいに喜んだ。卒業式に告白され、もっと喜んだ。喜びすぎて、式のときより泣いてしまった。都合のいい夢かと思った。
それからずっと夢のようだ。
いいことも、
――ごめん沙夜、別れよう。
悪いことも。
理解の追いつかない速度で景色が流れていく。
それでも夏だけは異様に長く感じた。
何がきれいなのかわからなくなった。
メイクは“きれいな顔”の見本がわかりやすく、のめりこむのにちょうどよかった。彼と付き合っていたころよりも知識をつけ、技術を磨き、やがてわたしだけの鎧ができあがる。
きれいなものに、似合う自分になりたかった。
「きれいだからつい見ちゃうんですよね、そのイヤリング」
あっけらかんと継がれた言葉に、わたしはうまい返答が思い浮かばず口ごもった。
「向井さんのお気に入りですか?」
「は、はあ」
「これからも大事にしてあげてくださいね。僕もそれ気に入っちゃったんで」
タイヨウくんはいたいけに瞳を細め、わたしの左耳あたりを見つめた。幅の広い肩をきゅっと上げ、犬の鳴き声のような笑みを漏らす。
駐車場にマネージャーを待たせているらしく、彼はあっさり別れを告げて踵を返す。駆け足で去っていき、あっという間に姿が消える。
何事もなかったように辺りは閑散とする。
仮眠室の空気に慣れてしまった肌が、端っこから冷めていく。
手の中に封じ込めていたイヤリングを、右耳に飾り付けた。手のひらの温もりを帯びた金具で、いつもよりきつめに耳たぶを引き締める。
たしかな痛みが神経を律する。
「ふぅー……よっし!」
気合いを入れて、一歩踏み出した。




