蛍⑴
朝のルーティーンは変わらない。
泡で出てくる炭酸洗顔を終わらせたあと、コスパのいい大容量の化粧水、セラミド入りの美容液、しっとりタイプの乳液を順にしみこませていく。冬は乾燥がひどくなる。下地とファンデも保湿力の高いものを選び取った。肌の調子がいいのでコンシーラーを抜かし、主張の強いシェーディングを先にしこみ、毎日使ってもなくなる気配のないデパコスのパウダーでおさえる。チークとハイライトは肌なじみのよいものを、アイブロウとアイシャドウはダークな色味のものを使い、黒のアイライナーとマスカラで締める。コテを160度にあたためている間に、プランパーリップで唇をふっくらさせておく。お休みだった昨日、へそあたりまで伸びた長さを胸下に切りそろえた髪の毛を、S字を描くように外に跳ねさせた。
お、まだ起きてから2時間経ってない。コーヒーを飲みながら余裕をもってアクセサリーを選ぶ。カットのついでにカカオブラウンに染めた髪に、いいアクセントをくれるゴールドの軟骨ピアスとネックレス。そして最後に、元カレからのプレゼントも。
耳元に咲く、淡い花。気合いを入れるときは必ずつけるようにしている。今の現場では基本毎日。思えば、仕事でつけていくのは、『オンステージ』の現場以来だった。
鏡の前で、ニィと口角を上げる。うん、いい笑顔。
わたしはネイビーのボストンバッグを担ぎ、家を出た。
新年が始まって、早くも半月が経とうとしている。
年末年始の休みが幻だったかのように早朝の電車は人であふれかえり、人ひとり乗るのもやっとな状態だ。寒さはしのげても、むわっとたちこめる人肌の暖流に具合が悪くなる。乗ったばかりだけどもう降りたい。
元気なのは、ドア横に固まる女子高生くらいだ。季節関係なしにさらされた生足で余分にスペースを確保しながら、重圧のかかる車内に笑い声を響かせる。
「ねねっ、昨日のドラマ観た!?」
「やばかったよね!」
「1話からボロ泣き!」
女子高生の背にある角席で眠りこけていたサラリーマンが、甲高い騒音に目を覚ました。女子高生のほうをちらりと一瞥し、あからさまに不機嫌になる。
どこからか舌打ちまで聞こえた。
当の女子高生は知るよしもなく、大人たちの逃がした幸せを吸いこみ、はしゃいでいる。ドラマの話の次は、今日の宿題、部活、新作コスメ……話題がめまぐるしく変わっていく。恋バナになると、各々の好きな人や彼氏を自慢げに話しだした。
ガタンッ。足場がひどく震えた。
電車を3回乗り継ぎ、赤坂駅に降り立った。
マップアプリにあらかじめ登録しておいた目的地へ歩いていく。
ビル群から一歩引いた位置にそびえる、高さも幅もある建物にたどり着いた。乾いた雲のたゆたう空を反射させ、広大な存在感を放つ建物は、国内のみならず海外にも事業を展開している民放テレビ局である。その取り組みもかねて放送された『オンステージ』は、無事に二度目の成功を収め、狙いどおり国外から多大なる反響を得た。
集合場所である入り口前に行くと、待ち合わせの目印のように黒のロケバスが停まっている。その近くには撮影機器を持った人々がすでに集まっていた。
「あ! さあちゃーん! こっちこっち!」
機械と群衆の狭間から、豆粒のように小さな顔がひょこっと覗いた。
「おはようございます、きょうちゃ――今日華ちゃん」
「ふふ、おはよーう。朝早いねえ。あたしめっちゃ寝不足」
目が半開きでもかわいい少女、今日華ちゃんは、わたしがお世話になっているファッション雑誌『milky』の姉妹誌にあたる『chay』の看板モデルだ。
今にも着せ替え人形として製品化可能なプロポーションをしているが、パーマがかった髪の毛は人形のそれとは天と地ほどのなめらかさがあり、肩甲骨をくるむ毛先に至るまで手入れが行き届いている。
電車にいた女子高生と同様にダウンコートの下から伸びた脚は、余分な肉を削ぎ落とし、必要最低限の筋肉のみをきゅっと引き上げている。
月に1,2回ほど『chay』の現場に助っ人として呼ばれることがあり、そのときはたいてい彼女の表紙や企画の撮影をしている。今月号のカバーガールも彼女だった。
助っ人のたびに、ヘアメイクの雑務をしながら2個下の彼女とコスメトークをしているうちに親しくなり、今や「さあちゃん」「きょうちゃん」と呼び合う仲だ。
一応わたしは公私をわきまえ、ふたりきりのときだけあだ名とタメ口を使うようにしている。
対して彼女は取り繕うことなく、マイペースに接している。それでいてマナーやフォローはばっちりだし、距離を縮めるのもうまい。きっと世渡り上手なのだろう。
ほかの方々にも順々に挨拶していく。同業のヘアメイク、スタイリスト、テレビ局スタッフ……その中に柳先輩の姿はない。
アシスタント歴4年目を控えたわたしは、この現場を機に独り立ちすることになった。
事務所の方針として5年目まではアシスタントの予定だったが、先輩の計らいで卒業が早まった。
実力も気遣いも一人前だと、教育係として最後の激励をもらった。仕事の前後によく、実践的なスキルや業界人との付き合いを惜しみなく教えてくださったおかげだ。
隣にはもう先輩はいない。寂しくないと言ったらうそになる。だけどこの現場は、先輩がわざわざわたしの門出にコネクションしてくださった手向けだ。先輩の名に恥じないようにがんばらないと。
挨拶に回っていると、ひときわ背の高い少年が立ちはだかった。
「向井さんじゃないですか。おはようございます!」
「お……おはよう、ございます」
美人ランキング(当社比)で1位をキープし続ける魔性の男――タイヨウくん。
彼の笑顔は、相変わらずまぶしい。
わたしは反射的に視線を地に落とした。しかし頭を下げたと勘違いしたのか、彼はにこやかに会釈した。
『オンステージ 2nd』終了から約半年。
最終回でHEROという名誉ある賞を獲得し、ソロアイドル兼俳優として華々しくデビューした彼は、毎日何かしらのメディアに名を刻み、芸能界を席巻している。
現場で直接会うのは、オーディション終了直後に行われた、受賞者による雑誌『milky』の表紙・カバーストーリーの撮影ぶりだった。
再会がこんなに早いとは思わなかった。
正直、素直に喜べずにいる。
忘れもしない『オンステージ 2nd』の2次審査。
わたしは結局、彼の評価を空欄にしたままアンケート用紙を提出してしまった。
彼は審査には合格したけれど、雑誌の特集を組む選抜メンバーに指名されることはなかった。
わたしが責任を感じる必要はない。3次審査に進めてよかったじゃないか。何度もそう思った。思うたびに、罪悪感のようなものが胸につっかえた。
あのときのことを思い返すと、同時に17のころの後悔もよみがえるからたちが悪い。情緒が乱れまくりだ。朝そうなるともう大変、メイクが濃くなり、すぐによれてしまう。仕事に行く気も失せ、現場でもいまいち集中できない。
何ひとついいことがない。
だからといって彼に謝るのはちがうし、仕事に私情を挟みたくない。会わずにいるのが一番いい。彼は売れっ子だし、めったに会う機会なんてないはずだ。あるとしても『milky』でくらいだろうか。
……と、たかをくくっていた。
それがどうだ。
ここはテレビ局で、雑誌とはまったく別の現場。そんなところで朝っぱらから顔を合わせている現実。
はあ。生理が予定日より遅れているのはこのせいだろうか。
「向井さんは観ました? 昨日の、第1話」
まさか会話が続くと思わず、えっ、とオーバーにおどろいてしまった。
「あーその反応、観てないんですね」
「あ……は、はい」
「あたしも見逃したあ。たあくんは観たの?」
思考が働かないまま成り行きでうなずくと、きょうちゃんが舟を漕ぎながら会話に入ってくる。タイヨウくんと身長10センチ差の彼女は、うるうるとした上目遣いで問いかける。
「僕は観ましたよ。ちゃんとリアタイで」
「いいなあ。どうだったあ? いい感じ?」
「はい、とても! 自分が出ているのに見入っちゃいました」
「わあ~あたしも早く観たいなあ。あとでチェックしよう」
ぼんやりまどろむように笑む彼女は、スタッフから高視聴率だったことを聞いたとたん、ドーパミンの弾ける満点の笑顔に様変わりした。無邪気な声を上げ、タイヨウくんとハイタッチする。
入口横に掲示された広告にも、ふたりの笑顔が大きく写っている。
額縁を模した黄金の枠の中、油絵で描かれたふたりが寄り添っている。多彩に塗り重ね、鮮やかに輪郭を捉えながらも、どこか哀愁にあふれている。
広告にしては珍しく文字の情報はない。
けれど、知る人が見れば一目でわかるだろう。
昨日、木曜夜9時に放送スタートした、新ドラマ『YOURS』の広告だと。
きょうちゃん演じる財閥のお嬢様が、タイヨウくん演じる病を抱える少年と出会い、心惹かれていく純愛ストーリー。
恋愛を主軸に据え置きながら、それぞれの生き方についても深く掘り下げ、ひとりの人間としての成長も丁寧に語られていく。
そんなドラマを作っているのが、この場に集う我々、制作チームだ。
ドラマの顔として注目されるきょうちゃんは、今作で主演経験2回目。初主演はつい1クール前、深夜ドラマ『純喫茶いばら』でおちゃめな店員を演じた。各回のファッションが話題を呼び、雑誌『chay』で20ページにもわたる大解説が掲載された。
2クール連続の主演に加え、本業のモデルも波に乗っている彼女は、睡眠時間を削って仕事をこなし、それでも足りずに休日も返上してスケジュールを組んでいる。
人気ゆえの負担が、視聴率という目に見える形で報われたことは、わたしもうれしく思った。
タイヨウくんは特番のドラマでの主演はあれど、連続ドラマは出演自体がはじめて。
デビューから1年足らずで、ゴールデンタイムのドラマに初出演にして初主演。さらには主題歌も担当するという、なんとも輝かしい肩書きは、『オンステージ』を大ヒットに導いたプロデューサーの口添えによるものらしい。他局からも引く手あまたである彼の本当の初陣は、『オンステージ』と同局だからこそ引き立ち、直接的な功績につながる。これを逃してなるものかと、かなり無理をして枠をつくったと聞いた。さすが未来のトップスター、待遇がちがう。
ほかの主要キャラもフレッシュな若手を中心に固められている。ただ、今日の予定を確認すると、夕方ごろまで主演ふたりのみの撮影が続くようだ。
ドラマ撮影は、基本、朝早くから行われる。始発で直行も多いが、今日の集合時間は比較的遅めに設定され、通勤ラッシュの時間帯とかぶってしまった。それはそれで疲労がたまる。
入り時間がいつもとずれたのは、あの広告が理由だ。
実は、広告の本来の機能だけでなく、ドラマの小道具としても利用する。だからわざと文字を入れなかったのだ。
広告に使われた油絵の味が最大限に活きる、ちょうど陽の明るくなってきた時間帯を狙い、逆算して集合時間が定められた。それが終われば、すぐにロケバスで次の撮影現場へ向かう予定だ。
スタッフ全員が一日の流れを把握すると、まだ予定時刻前だが、撮影の準備に動き出す。
ここでの撮影は、6話の一場面。ひとりずつのソロカットで、タイヨウくん、きょうちゃんの順番で行われる。
現場到着後すぐに衣装に着替えた主演ふたりを連れ、わたしたちヘアメイクスタッフはテレビ局の1階にある一室へ移動した。
わたしはきょうちゃんのメイクを担当する。
ふたりとも高校生の役柄に合わせ、メイクは補正程度におさえる。ただ、きょうちゃんはお嬢様の役でもあるので、眉や唇など各パーツを凛と整え、素材の質を高めることで風格を引き出す。
使用するメイク道具は、せっかくなのできょうちゃんがミューズを務める化粧品ブランド『Dramaroll』でほぼほぼそろえてみた。数多くのヘアメイク事務所に備品として常備されているくらい優秀なアイテムを開発し、芸能界御用達とまで評されているブランドだ。加工要らずの美しさをアシストし、カメラ写りをワンランク上に高めてくれる。きょうちゃんはミューズなだけあり、肌との相性は抜群だった。
うしろの席でヘアメイクしていたタイヨウくんが早めに支度を終え、カメラリハーサルに出向いた。
それから10分後、きょうちゃんのメイクが完成した。
コールドパーマの施術をされたはちみつ色の髪の毛は、根本からストレートに変えていく。熱を与えて癖を伸ばしつつ、丁寧にブラッシングをする。フローラルな香り付きのヘアミルクで髪をつやつやに潤わせた。
うとうとしていたきょうちゃんを起こし、外に戻ってくると、通行規制をかけた入り口付近でタイヨウくんのリハーサルが試行されていた。
監督がきょうちゃんを手招く。
「今日華、いい? 彼の演技をよく見てるんだよ」
きょうちゃんの前髪の向きをメンテナンスするわたしの耳にも、自然と監督の言葉が入ってくる。
うのみにすれば、ちょっと失礼に感じる言い回しだった。
彼女は中学生のころからモデル活動をし、今年で芸歴10年目を迎えるし、演技経験も積んできている。にもかかわらず、半年前まで一般人だった彼を多とする言葉を、監督は平然と告げた。
彼女もまた平然と返事をした。台本を開き、撮影されるシーンとその前後を読み返しながら、真剣な面持ちでもうひとりの主演の出番を心待ちにする。
おそらく監督が言いたかったのは、演技力どうこうじゃなく、彼のシーンを見てどう感じるのか、その感覚を研ぎ澄ましておくことだ。次に来る彼女自身のターンにきっと役立つ。ドラマを俯瞰した監督の言葉は端的すぎる気もするが、撮影の順番や場面が頭に入っていれば理解するのはそう難しくない。
リハを経て、監督が手を上げるとカメラが回り、カチンコが鳴った。
「よーい、アクション!」
首にチェックのマフラーをかけたタイヨウくんが、壁面に飾られた油絵に手を伸ばした。
青葉を焦がすまぶしさはまるきりなく、初雪の降るような静けさがあった。白い息のにじんでいく空に、横顔の細いラインが透ける。
やさしく目をうすめ、唇を解いた。
「……間に合って、よかった……」
瞼を閉じ、大事そうに絵を撫でた。
カット! と監督が終止符を打った。
「エイジくんだ……」
ぽつり、きょうちゃんはおぼろげにつぶやく。
彼の役名・エイジの名前が先に出るほど、カメラの向こうにいる彼は、普段とは打って変わって冬の空気によく溶けこんでいた。
彼女の握る台本にしわが寄る。
監督がにやりと笑った。
「今日華――いや、カホ。いけるね?」
「はい!」
役名に言い直した監督に、彼女はぐっと顎を引き、背筋を伸ばした。
リハーサルもなしに、彼女のソロカットを撮る気だ。
彼女のリアクションで確信を持った監督は、ノリノリで本番の手筈を進めていく。彼の演技をよく見るように言ったのは、これを見越してのことだったのかと、今さら本当の意味を知った。
建物入り口から公道沿いの通路に移動した彼女に付き添い、わたしはぎりぎりまでヘアメイクを直す。
彼女の顔が少しちがう。メイクが崩れたわけじゃない。むしろその逆。元からそうであったように、品よくまとめたメイクが引き締まった顔ときれいに調和している。
スタッフから導線の説明を聞きながら、彼女の意識はずっと広告のほうに注がれていた。
すでにスイッチが入っている。
厚手のダウンコートを預かったわたしは、ほかのスタッフとともにカメラの位置まで下がった。
ひとりぽつんと置き去りにされた彼女は、ハイブランドの衣装を背負った体を奮い立たせた。
アクションの声で走り出す。広告前まで行き、辺りを見渡す。どこを見てもほかに人はおらず、落胆の息を吐く。
「間に合わなかった……」
まつ毛を下げると、不意に光が差した。痛々しく瞬きをし、光に誘われるがまま顔を上げていく。
目の前には、朝日を浴びて虹色にきらめく、一枚の人物画。
笑っているふたつの顔を、彼女はよく知っている。
瞳が大きく開かれていくにつれ、笑顔に色をもたらす光を吸いこんでいった。
「この絵って、エイジくんが描いてた……」
という設定だ。
エイジがカホを想って作り上げた絵。
彼の見ている世界。
「これを見せるために、あたしをここに……?」
彼女の声は震えていた。
一歩ずつ、かみしめるように油絵に近づいていく。
触れようとして、ためらい、こぶしをつくって胸元を握る。
ぽろっと目尻から涙が落っこちた。ひとすじの線に、青く澄んだ日差しが反射する。
彼女は呼吸を整え、力なくほほえんだ。
「……会いたい……。エイジくん、会いたいよ」
「――カットォ!」
カチンッと音が切り裂いてもなお、彼女はしばらく絵の自分と見つめ合っていた。
北風が真っ直ぐに滴るはちみつ色の髪をくぐり、ひゅるりひゅるり、熱のこもる機材を通り抜けていく。わたしのカカオブラウンの髪もすくいあげ、りん、とイヤリングを鳴らした。
髪を耳にかける。冷気にさらされた耳たぶを揉むようにこすった。
花を散らす風の音がした。
寒さが和らぐのを待っていた。
待たずに動けばよかったのかもしれない。
だってずっと寒いままだ。
どうして立って居られているのか、わからない。
監督からOKサインが出てやっと、本来の「きょうちゃん」に戻った彼女は、顎先に伝う涙を拭って笑った。スキップでカメラ横まで寄っていき、監督やタイヨウくんに感想を聞いていく。
「さあちゃんはどうだったあ?」
たまたま近くにいたからか、わたしにも投げかけられた。
「よ、よかったよ、すごく。なんて言えばいいのかわからないけど、なんか、すごく、その、感情移入しちゃいました」
「ほんと!? やったあ。うれしい!」
マスカラが重く、彼女たちの顔をまともに見れなかった。
わざとらしく音を立てて広げたダウンコートを、彼女の肩にかけてやる。
黒いつぶてが落ちる。
そういえば今日のマスカラは、少し前にバズっていたコンビニコスメのものだ。ワンコインで買えるわりにダマにならず使いやすいとなかなかの高評価で、わたしも気になって買ってみたのだった。
あいにく長時間には向かなかったな。持ちが悪い。
空が明るくなればなるほど、目が痛くなった。
早く直さなくちゃ。早く。早く。




