再会
根こそぎ奪い取るような夏だった。
あの日。
人生で一番愛した人が、死んだ。
わたしたちは、まだたったの17歳だった。
それまでさほど意識していなかった墓参りを、憎らしく感じるほどきらいになった。
会いに行っても、どうせ会えない。話しかけても、何も返ってこない。
そこに在るのは、堅く閉ざされた石と、その中に仕舞いこまれた遺骨だけ。会いたい気持ちをもてあました花束を飾り立てれば、ここぞとばかりに蜂たちが群がってくる。むなしさが募っていく一方だ。
はなからこれが代わりになるはずがなかった。
魂なんか感じない。
わたしに霊感はないのだから当然だ。そもそもオカルトは昔から信じていない。前世の徳なんか知ったこっちゃないし、生まれ変わりを想像するのは疲れるだけだ。
ただ、会いたかった。
会えるなら、それだけでよかった。
わかっている。会えはしない。方法があるとするならば、もうこれしか残されていないのだ。
普段できるだけ考えないようにしている現実を、容赦なく突きつけられる。たちまち心がすり減っていく。
だから、きらい。
きらいだった。
ここに来るのは、何年ぶりだろうか。
もう9年……いや10年も経つ。
彼の葬式に参列したときも、墓参りに行ったときも、何ひとつ理解できず、涙も出なかった。気づいたら家にいた。思い出そうとしても脳がそれを拒み、いつしか足を運ぶことすらあきらめるようになった。
10年振りにここに来てみると、あぁ、やっと少しずつ記憶がよみがえってきた。
そうだ、あのときも、蒸し暑かった。
太陽が照りつけ、生い茂る樹木にお香の匂いがしみこみ、いやに冷たい汗をかいていた。いつの間にかセミの抜け殻が靴裏にひっついていて、なぜかそこで、はじめて、泣きそうになった。
今のわたしは、どうだろう。
自分でもどんな感情なのか、言葉にできない。
昔と代わり映えのない墓石に、持ってきた花束で色を添える。
銀の花立てはきれいに磨かれていたわりに、肝心の主役はおらず、花を差し入れた瞬間にステンレスの表面が生き生きときらめいた。
その花束の中で名前を知っている花は、ひまわりくらいだったが、どれも午後一番の太陽に焦がれていて、きれいだ。
きれいだよ。ほんとうに。
なんて。
「……あなたにきれいだなんて、言ったことないのにね」
変な感じだ。
ひまわりに惹かれた蜜蜂が一匹、羽音をおそるおそる立てながら、花弁に降り立った。
ひとしきり戯れると、満足したのか、背よりも高く飛んでいく。
やがて音がしなくなった。
「ねえ、知ってる? 神様ってね、きれいな花から先に摘んじゃうんだって」
神様は知っていたのだろうか。
彼がバカで、お人好しで、落ち着きがなくて、涙もろくて、寝坊助で、よく約束を忘れてしまうところ。
でも、本当は、真っ直ぐで、やさしくて、行動力があって、感情豊かで、安心感をくれて、「ごめん」と「ありがとう」を惜しみなく送ってくれるところ。
知ってしまったから、あの日突然、何の予兆もなく、連れ去ってしまったのだろうか。
わたしだって知っていた。
彼の心がこの世の何よりもきれいなこと。
できることなら、ずっと、わたしのものになっていてほしかった。
「略奪だこんなの」
彼が隣にいたら「バカだなあ」と笑っていただろう。
そうだよ、バカだよ。
こんなの迷信だし、神様だってきっといない。けどこんなしょうもないことを本気で考えるくらいには、まだしばらくは本調子には戻れないみたい。
だってね?
天を仰ぐ笑い方も、人目を気にしない泣き方も、今でも鮮明に憶えてる。
人類みな兄弟のように誰とでもすぐに仲良くなって、きっとわたしより何倍も笑って、泣いていた。
彼が花を愛でるところを見たことはなかったけれど、彼自身を華のように想っていた。
大好きだった。
だからよくわかる。そばに欲しいと思ってしまう、その気持ち。
きれいな花を見つけたら、四六時中飾りたくなるもの。
わたしもきれいになりたかった。
彼に似合う人に、なろうとした。
今日はいつもより気合いを入れておしゃれした。
新作の赤リップ、くびれ巻きにしたヘアセット、その隙間から顔を出す軟骨ピアス。
あなたがくれたイヤリングも、ちゃんと付けてるよ。飴細工のような花びらのチャームがついたピアリング。ずっとかわいがっていたいから、耳たぶには一生穴を開けないと決めている。
どうかな? きれいに見える?
うん、きれいだよ。
そう言ってくれるのは、いつも、彼だった。
もらった言葉も、声も、いつか奪われてしまわないだろうか。
わたし、自分で自分をきれいだと思えっこないのに。
胸のあたりが苦しくなる。朝飲んだカフェインが暴れているようだ。
どうしてくれよう。
どんどん苦みを増してくる。
何も理解りたくない。
あぁ、だからか。
だからわたしは、ここに来たのか。
「おーい! 水くんできたよー!」
ふと、ひときわ元気な声が駆け抜けた。
ポニーテールの女の子が、水いっぱいのバケツをよいしょよいしょと運んでくる。
足元に置くと、ぴちゃんっと水面が波打った。
「ふぅー。お兄ちゃんのとこ遠いね」
「ありがとう、助かったわ」
ハンカチで汗を拭いてあげると、彼女はンフフと鳴きながら擦り寄せてくる。
ふわりとなびくアイボリーのワンピース。わたしも似た形のワンピースを着ているからか、僧侶の方に姉妹と間違われた。やむなく否定しようとしたら、彼女に止められ、笑ってごまかすしかできなかった。
彼女と会うのも、10年ぶりだった。最近はよく連絡を取りあっていたから、なんだかそんな気がしない。
墓参りに行くと決心した1ヶ月前。ご家族には前もって伝えておきたくて、連絡先を消さずに取っておいた彼女へ、勇気を出してメッセージを送った。
すると電話がかかってきて、涙ぐんだ声で『おかえり』と言ってくれた。
彼女はわたしたちより3つも下だけれど、こう見えて3人の中では一番思慮深く、懐が深い。
一緒に行こうよと誘ってくれたのも、彼女のほうだ。独りでは心もとないわたしを気遣ってのことだろう。
約1ヶ月、ほぼ毎日やり取りした。せっかくならと、お互い有給を取った。昨晩は生きた心地がせず、電話をしたまま寝落ちした。
そして、命日である今日。
7月31日、わたしたちは再会した。
「お兄ちゃんとお話できた?」
「どうだろうね」
「えー?」
彼女は含み笑いしながら墓石の周りを見渡す。
「雑草とかあんまりないね。もしかして、もう掃除してくれた?」
「わたしは何も。花をお供えしただけよ」
元々墓石やその周辺に汚れはなく、清潔に手入れされていた。お盆の時期に訪れた人がやってくれたのだろうか。2週間ほど経過した今でも保たれているとなると、そうとうなきれい好きか、一度やり始めると止まらなくなるタイプか。あるいは、それほどの思いがあったのか。
彼女は軽く一礼したあと、墓石に水をかけた。花立ての中にもそっと注ぎ入れる。
降り注ぐ雫が、黄色い花弁を艶めかせる。光が乱反射して、目がチカチカした。
「お花、めっちゃしっくりくるね!」
「きれい?」
「うん! すっごくきれい!」
振り向きざまに見せた笑顔に、どきりとした。
少し上を向いた頬がやわくほぐれ、熱を帯びていく。
……やっぱり、兄妹だ。
ひまわりと同じくらいまぶしく見える。
夏が終わっても、きっと変わらず笑ってくれるんだろう。
変わりゆくのは、心の広さだろうか。連絡はまめに取ってくれるし、朝イチの待ち合わせには先に来ていたし、花束を用意してくれたのも彼女だった。
10年。けっして短くない。
ただの記号だった昔とはちがう。
彼女は正しく歳を重ね、オトナになった。わたしなんかよりよっぽど。
「お兄ちゃん。お兄ちゃんも、ひまわり好きでしょ? そうだよね、うれしいよね?」
相変わらず一方通行なはずなのに、彼女が語りかけると、まるで石の向こうから本当に声が返ってくるかのように会話が弾んでいく。
「うん、うれしいね。ひさしぶりに会えたもんね」
彼女は笑顔で首肯し、慣れた手つきで線香を焚く。鼻の奥にするりと入り込む、くすぶる匂い。高発色の緋色が融けていく。
わたしたちは静かに手を合わせた。
ひとときの静寂。少し落ち着かない。その心の微弱な波紋に共鳴するかのように、目の前のポニーテールが揺れた。
「あのさ、ひとつ訊いてもいい?」
当たり前にあった笑顔が、消えていた。
「ずっと訊こうと思ってたんだけど……なんで、会いに来てくれたの?」
いつかは訊かれると思っていた。
始まりのメッセージを送ったあの日からずっと、なんで、どうして、と責められる準備も、覚悟もしていた。
そのはずなのに、いざそのときが来ると、頭の中が真っ白になる。用意していたセリフが、出てこない。
「あ……えっと……」
「……きらいになっちゃったのかと思ってた」
「きらい? わたしが?」
「うん」
「どうして」
「だって……」
途端に歯切れが悪くなる。なんとなく察しがついた。
「お兄ちゃんが……フっちゃったから……」
好きだよ。
きれいだよ。
言葉はどれも、彼からだった。
別れようも。全部、全部。
わたしはそれを受け入れた。
もう二度と会えなくなるなんて思わなかったから。
葬式に同級生のひとりとして参加したとき、一番遠くの席から見届けるしかできなかった。繋がりが何もかも消えてしまったような気がした。
いっそきらいになれたら、どれだけよかったか。
「きらいじゃ、ないよ」
「ほんと?」
「ぜったいに届かないのに、気持ちは強くなる一方だったから。……だから、来るのが、怖かったの」
宙をたゆたう煙が、細い線となり、ゆらりゆらりと天へ伸びていく。すぐに景色に溶け込んでも、匂いは鮮明に残る。ここに、ずっと。
鼻をすすった。最奥が震えた。
「ならどうして、会ってくれたの?」
わたしはまた少し考えて、
「……確認、かな」
曖昧につぶやいた。
「気持ちが変わってないか、変わらないままでいいのか、知りたかったのかも」
仕事がひと区切りつき、ようやくまとまった休みが取れることになり、今しかないと思った。
メッセージを送ったときの勇気は、仕事終わりの達成感とお酒の力を利用しただけだ。本当は怖くて仕方なかった。
めまぐるしく変わっていくニュースが、恐怖を煽っていた。逮捕されたタレント、活動休止したアイドル、契約終了の若手役者。簡単に、あっけなく、さよならが来る。
そのとき、猛烈に、会いたいと思った。
もしもわたしまで変わっていたら、本当の別れになってしまう気がして。
「ここに来て、いろいろ実感できた。ありがとう。おかえりって言ってくれたこと、本当にうれしかったよ」
「あたしもあたしも! あたしもうれしかった!」
ぱあっと彼女にまた笑顔が戻った。太陽が頭上まで昇っていくにつれ、頬のてっぺんが黄色く焼け、広がっていく。
線香の煙に混じり、どこか温かみのある香りを感じた。
来てよかった。はじめてそう思えた。
「お兄ちゃんのこと、忘れないでいてくれて、うれしかった。あたしだけじゃなかったんだなあって」
だからいてもたってもいられなくて電話かけちゃったんだ、と照れくさそうに鼻を掻く。その声音は、電話越しに聴いたあの日を彷彿させた。
身を粉にする線香を横目に、そういえば、と彼女は思い出したように話す。
「幼なじみからの連絡も突然だったなあ」
「わたしと一緒だ」
「ふふ。そう、一緒。お兄ちゃんのこと大切に思ってくれてるところも一緒だったよ。あ、でも、幼なじみのほうが上かな」
「上?」
「ずうっとお兄ちゃんのこと考えてくれてた。ほんとにずっと。あたしが立ち直れずにいたときから、ずっと。たぶん、誰よりも早く動いてくれた人」
気持ちなら負ける気ないけれど、行動も伴っているとなると、素直に認めざるを得えない。
わたしが10年かけてやっとできたことを、その人は長い時間かけてやってきたんだ。
心を体に起こすって、そう簡単なことじゃない。泣きたくても泣けない、やらなきゃいけないことがあるのに手につかない、何もかもためこむ……わたしはそんなことばっかりだ。
どうしたらそうなれるのだろうか。しかもずっとだなんて、よほどの覚悟がなければできない。忍耐力よりも根深く絡みつき、情熱よりも炎々と焼き尽くす――復讐心のようなものがなければ。
「あたしが今こうして向き合えてるのは、幼なじみのおかげ。何もかも過去形で終わらせないでいてくれたから、モヤモヤが全部吹き飛んだの。あいつがいなかったら、あたし……。って、こんなこと言うと恋人が嫉妬しちゃうかも。3人だけのないしょね?」
そう言って彼女は、ひまわりの葉をちょんとつついた。返事をするように雫が跳ね返り、彼女の鼻先に飛びついた。彼女はくすぐったそうに小さく顔を振る。
彼は、愛されている。
愛さずにはいられないんだろう。
彼も、愛してくれていたから。
別れてからも、10年経っても、褪せることはない。
気持ちはあのころのままだ。
「せっかくだし、ないしょ話もっとしちゃお。今しかできないもん!」
「そうね、たとえば?」
「お兄ちゃんの好きなところとか、今までどんなふうに過ごしてきたのかとか、いろいろ! たくさん!」
話は尽きない。
時間が足りない。
耳たぶに少しずつ圧がかかっていく。イヤリングの重さを、ふと思い出す。金属の冷たい感触で、痛みは麻痺していく。
汗ばむ背中に、あの羽音が帰ってくる。そよ風に運ばれ、あちこちから音が広がっていく。
蜜蜂が仲間を引き連れ、供えた花束の蜜を盗み出す。ひときわ背の高いひまわりに降り立つと、ゆらりと大きく芯が揺れた。
いまだ猛暑は続く。




