DAYS
翌日は母と午前中に出かけ、御園座でお芝居を観賞。幕間に食事をする。
夕方には地下鉄で千種・今池方面に向かう。私立高のおとなしい子たちに英語と古典を講義する。ほとんどは教科書の解説である。もっとも彼らは学校でいい成績をつけてもらって、推薦で進学することが多い。だから、彼らなりに真剣である。
講義の後、速水が控え室に来た。
「あれっ、今日も来てたの?」
「うん、自習室に。ところでさ、今のクラスに前園慎一郎くんって来てるでしょ」
「知り合い?」
「いや、何か気になって」
「BLってやつ?」
「発言に責任持てよ!オッサン!あの子って美大行こうとしてるの?」
「そうだよ」
「美大って難しいの?」
「ペーパーテストは難しくない。実技が一番たいへん。あと、小論文があるけど、医学部と違って独創性やアイデアが大事なの」
「前園くんは合格判定は?」
「Aかな?」
「ちょっと観てみたいな前園くんの絵」
「いいよ、頼んであげる。木、金はたてこんでいるから、土曜日にね」
「頼むね」
速水は帰っていった。
木、金と受験生相手の仕事をする。
私は教卓に寄りかかって、話をした。
「大鏡は道長以外の藤原一族は批判しているって教科書に書いてあるでしょ。道長は礼賛しているって。でも、実際、通して読んでみると道長のことも批判しているんですよ。けっこう」
生徒たちがドッと笑う。
「例えば道長は紀貫之や白楽天より詩歌が上手いとか・・・ほめ殺しなんですよ」
文系で一番優秀な小島がふざけて言った。
「速水くんも浅倉先生にほめ殺されちゃいますね」
「あんなもん、道長と比べたら大物じゃないから駄目です」
皆がドワッと笑う。
木、金は控え室でコンビニのパンなどを慌ただしく食べることもある。もっとひどいと、珈琲と菓子など。非人間的生活だが、仕事はお声がかかるうちが華らしい。
土曜日、前園慎一郎に声をかけた。
「前園、速水って知ってる?」
「知ってます。今、人気の子ですよね」
「あいつ、前園の絵、見たいんだって。見せてやってよ」
「えー、僕の絵なんかたいしたことないですけど」
「漢文基礎の後、ちょっと控え室に来て」
漢文基礎で「反語」をやる。問題文は「十八史略」
「あっ、これ『三國志』の話じゃん」
「『十八史略』っていうのに載ってるバージョンのね」
「でも、だいたい分かるよ。呂布の死のところだね」
「名作を読んでおくと、つぶしがきくのです」
その講義の後、控え室で速水と前園を対面させた。
「聖イグナチウスの速水です」
「光が丘学院の前園です」
「スケッチブックの中身、見たいんだって」
前園ははにかみながら、中身を見せてくれた。
「すげえっ!これ前園くんが描いたの?」
「そうだけど、全然すごくないです・・・浅倉先生にいろいろ教えてもらって・・・」
「えっ!エロ倉って絵も描けるの?」
「いや、実技はダメだけど、美術史の勉強したから」
「けっこう操られています。お正月に細見美術館のコレクション、観に行かされたり、トリエンナーレ行ったり」
「美大合格したら、来年のゴッホ展、行く約束してるんだよね」
「俺、マンガは描けるけど、こういう芸術的な絵は」
和気あいあいとしていた。
ところが。
「先生」
須賀さんが困った顔で入ってきた。速水と前園にチラと目をやったが、重大な要件だったので、ためらわず告げてきた。
「野村くんが家出したらしくて」
私は片手で顔を覆った。
野村英治は二浪している子だった。岐阜市に住んでいて、中堅の公立高校に通っていた。家が歯科医で、歯学部を受験したのだが、少し体の弱いところがあり、受験に失敗してしまった。
気も弱いところがあり、一浪目はショックを引きずって、よく家出をして、また駄目だった。
私はカウンセリングの勉強もしていたので、小論文指導という名目で月一回ぐらい面談していた。
頭の中で一瞬のうちにいくつかの可能性を考える。多分、先週の全国テストが失敗したんだ。推薦入試に気をとられてて、気配りが足りなかった。それに年末年始の雰囲気になってきたのも、よくなかったのかも。精神的に悩みのある子にとって夏休みや年末年始の楽しい雰囲気も、心の重荷になることがある。
私は意外と果断なところがあり、英治に電話した。出ない。留守電を入れる。
「英治、どこにいるの?みんな、心配してるから、連絡して。講義始まるから、留守電かメール入れといて」
同じような内容をメールでも伝える。
あー、ちくしょう。次の講義が終わるまでに連絡して来なかったら、どうしよう?
「大丈夫?」
速水が心配して尋ねてくる。前園は意外と悠々としていた。
「大丈夫だよ。先生が迎えに行くとたいてい素直に従うから」
私は笑えなかった。しかし、虚勢を張って、「さ、古文やろ」と言った。
「野村、また家出したんだって」と生徒たちが話していた。私は動揺を隠して講義をやる。賢い子が多いので、みんな、協力的にしてくれる。
「井原西鶴は人間の欲望や愚かさ、醜さを徹底的に見つめました。『人ほど賢く、まただましやすきものは御座なく候』『人は欲に手足のつきたるものぞかし』西鶴はそう豪語して、伝統的文学の美を否定し、金や性欲を追い求める人間の悪の姿を描いたのです。ピカレスクです」
速水の怒りが爆発する。
「心の汚いジジイっすねえ。俺はこういう奴、大嫌いです」
「そうかなあ。こういうのこそ、真実の文学だと思うけど」
優等生の村上潤が言った。
「『家にありたきは桜梅松楓、それより金銀銭米ぞかし』『洛中洛外図屏風は銀山を掘り出す絵に描きかえさせる』『はかない朝顔は豆に植えかえさせる』そんな挑発的な表現がたくさん出てきます。しかし、西鶴は闘うべき伝統文学を十分理解していたことも見逃してはいけません」
「俺はこういう奴は大嫌いだぜ!!」
私は苦笑した。速水の一本気な性格は西鶴にカチンときたのだろう。
その日は少し早めに講義を切り上げる。控え室に戻り、ケータイの電源を入れた。
ホッとした。
野村からのメールがあった。
「アスナル金山にいます」とのことだった。
私はコートを羽織ると予備校を飛び出した。
中央線で金山駅まで行く。どちらが表か裏か分からないが、グランコートホテルやスターバックスのある方の反対側に、アスナル金山というスペースがある。中央にステージがあり、日中はいろんな行事をやっている。それを囲むように飲食店やショップがある。野村は野外ステージの席に座っていた。
「英治、何やってるの!?ずっと外にいたの?」
野村はうなずいた。
「どっかに入ろうよ。寒いよ」
野村はまたうなずいた。
私はデニーズが好きで、入った。
「私、急いできたから、何か食べていい?英治も食べたら?」
「俺は珈琲でいい」
私は和風ビーフシチュのセットを頼んだ。
「何で家出したの?模試のこと?」
野村は涙ぐんでうなずいた。
「何か上手く行かなくて・・・」
「そんな一喜一憂してたら・・・最近、成績も安定してるし・・・」
野村が何か言い淀んだ。
私は黙っていた。料理が運ばれてくる。温泉玉子をご飯にかけて食べ、カキフライを食べた。シチュのお野菜にはしをのばすと、野村が涙声で言った。
「成人式の・・・案内が来て・・・それがイヤだった・・・」
野村がすすり泣いた。落ちつくのを待って、私は言った。
「何か食べたら?」
「・・・鍋焼うどんのセット食べる・・・」
私は和風ビーフシチュを食べていた。
成人式の案内がイヤだったと言う英治を私も笑えない。私も時々、世の中に上手く溶け込めない自分に苛立つ。
ガツガツと食事する英治から、ちょっと視線を外すと、若者のグループが食事したり、酒を飲んだりしている。
前に英治が家出したのも名古屋港大花火大会の夜だった。
英治のさみしい背中を忘れられない。
今はそのさみしさに寄り添ってあげるしか出来ない。
新しいチーズケーキを二人とも頼む。
英治は落ち着いたようだった。
「先生、ごめんなさい」
「いいよ、今日は新しいチーズケーキが食べられた風流な日」
二人で指定席の特急に乗り、帰ることにした。
岐阜に近づいた時、私は尋ねた。
「大丈夫?家まで送ろうか?」
「いいよ。そしたら先生、終電なくなるでしょ。ちゃんと帰れます」
野村は岐阜に最近建てられた43階のタワーの中のマンションに住んでいる。
野村を見送ってから、私は座席にもたれた。
野村は最後に私を気づかってくれた。
持ち直すかも知れない。
持ち直して欲しい。
帰宅するとラジオを聴き、若冲の画集を眺めた。
牛乳を飲む。
やがてリラックスするとドッと疲れが出て、眠った。




