秘密
翌日、私は速水やゆかりたちに現代文を講義した。速水が話しかけてくる。
「この前、『大和物語』やったじゃん。六歌仙でバンド作ろうって話してたの。在原業平と小野小町がヴォーカル、僧正遍昭がギター。喜撰は・・・キーボードでいいか。大友黒主がドラム。ベースは文屋康秀」
「それで皆がそれぞれの役やるの?」
「速水くんは業平」
「やだね、チャラ男は」
「僕、ギターやるから速水くんは業平」
村上潤が言った。
「僕、ピアノやってるから、キーボードやる」
野上佳彦が言った。
「智樹、ドラムやってよ」
「いいよ」
ゆかりが彼氏の智樹に言った。
「じゃあ、僕、ベースやります」
前園慎一郎が言った。
「ふうん、じゃあ、ゆかりが小町か」
私が言うと
「いいえ、小町って百日間、男をパシリにしてた悪女でしょ。ゆかりは役者不足だから、エロ倉先生にお譲りします」
皆がドワッと笑う。私も苦笑した。
目崎徳衛の「百人一首の作者たち」と司馬遼太郎の「項羽と劉邦」を講義する。
月曜日、私は母と名古屋に出かけた。松坂屋美術館でアール・ヌーヴォの美術展を観賞する。
それから歩いて東急ホテルに行った。ボジョレ・ヌーヴォを飲む会に参加するのだ。場所は一階のラウンジ、グリンデルワルド。
喫煙席の方にグランドピアノが置いてあり、生演奏が行われている。私と母は禁煙席に座った。ボジョレ・ヌーヴォやいろいろなワインとチーズはウェイター、ウェイトレスにオーダーする。会場の中央にある軽食は自分でとる仕組みになっている。母はチーズが好きなので、席に座ってオーダーしている。私はサンドイッチと果物をとりに行った。おつきあいでボジョレ・ヌーヴォを二杯飲んでから、私はシャンパンを飲むのに切り替えた。
「あの・・・浅倉先生じゃないですか?」
「あ・・・えっと」
「和泉です。北区の。娘がお世話になりました」
酔いだしていたこともあり、とっさに思い出せなかったが、二年ぐらい前にめんどうをみた子の母親だと気づいた。
私はシャンパンのグラスを持ったまま、少し立ち話をした。私の母は何も気にせず、ワインやチーズをオーダーしており、私はお嬢様育ちの母に苛立った。
和泉さんが席を去っていく。
「ママ、挨拶ぐらいしてよ!」
「でも全然知らない人だもん」
私は腹を立てて、マスカットを口にした。甘い果汁があふれる。
母親をタクシーに乗せ、指定席特急のチケットを渡すと私はプリシードホテルに宿泊した。翌日が祝日(勤労感謝の日)で、特別講義があったからだ。
私は翌朝、繁華街を歩いた。東京もそうだったが、繁華街は朝がわびしい。道も汚れている。いろんな店が開く十時になるまでがわびしいのだ。
地下鉄で千種の予備校まで行き、私は十時から医学部や難関大学の受験のための小論文の教室をスタートさせた。朱を入れて添削した原稿を生徒に返却する。ゆかりと速水は受験生ではないが、参加していた。私は一つ一つの論文を論評し、医学部受験でよく出るテーマの解説をした。ちなみにだが、今は医学部でも医療に関することではなく、感性を問うものが多い。
「次の俳句を読んで答えなさい。『その方がいいと思うと蝸牛』その方とは何でしょうか?色々、考えられますね。私はこう思いました。蝸牛はゆっくりスローモーションで生きています。だから自然食品を選んだり、スローライフがいいということです」
「そうかなあ。そんな能天気なもんかなあ?」
速水が異を唱えた。
「蝸牛はカラの中に閉じこもっているでしょ。ニートとか引きこもりの子の哀しみを訴えてるんじゃないかな?」
それをきっかけにスローライフ派とニートの哀しみ派で大激論になった。もちろん、どちらかが正しいという訳でなく、表現力や説得力を競うものなので、理想的な展開だった。
「古代中国人はね、蝸牛角上の戦いって言ってね、蝸牛の角の上にもパラレルワールドがあると考えたの。道教の神秘思想なんです」
私も余計な雑談までしてしまった。
昼まで講座をやってから、私は速水と前園を連れて、千種の街に出た。262円のお弁当を買うと公園のベンチに座った。私のおかずはチキンカツ。速水は肉じゃが。前園はカキフライ。
速水が前園にたずねる。
「前園先輩って、家、法律事務所でしょ。継がなきゃいけないって言われなかったんですか?」
「言われませんでした。兄と姉がすでに司法試験に合格しているし、僕は闘争心が少ないから、弁護士に向いていないんです」
「いいなあ。俺は将来、医者にならなきゃいけないんです。レールの上を歩かされて」
「でも、速水くんは頭もいいし、優しいから、医者に向いていると思うけど」
「とりあえず医師免許をとって、それから方向性を決めりゃあいいんですよ」
「本当、いいかげんだな、エロ倉は・・・」
私も家の仕事を継いでないからな、と思っていると、佳彦が走ってきた。
「先生、たいへんです!財布がなくなった!」
私は眉をひそめた。
「ちゃんと探したんですか?」
「カバンの中にはないです。自習室の場所とりに置いておいたらなくなったの」
私は困ったことが起きたな、と思った。私の勤めている予備校は外部からの侵入は出来ないようセキュリティのシステムがある。その分、内部で盗難が起こることは想定していなかった。
自習室の場所とりは財布でやっている子が多かった。
とにかく急いでビルに戻る。ヒロくんとゆかりが困っていた。
「近藤先生、どうなってるの?生徒に知らせた?」
「いや、今日の責任者の浅倉先生がいてはらへんかったんで呼びに行かせて、今、潤と智樹が佳彦の財布を探しています」
私は唇をかんだ。目をつぶって、少し考える。自習室の廊下に自販機が並んでいる。そこのゴミ箱!私は見当をつけると、そこに向かった。ゴミ箱のふたを開ける。
「あっ!あった!!」
佳彦が叫んで、財布を拾った。
「よかった~、カードある」
佳彦の財布には色々なポイントカードがあった。私は動揺を抑えて言った。
「現金は?」
佳彦は財布を調べた。
「ないです」
私の胸は早く鳴った。
「いくらぐらいあったの?」
「二千円ぐらいだから、大丈夫です」
「いや、大丈夫じゃないの。でも、とりあえず、あまり大きく言わないで。先生が解決するから」
佳彦は訳も分かっていないまま、うなずいていた。
私は自習室に入ると二回手を叩いた。
「皆、勉強中悪いけど、ちょっと聞いて下さい。ある生徒が場所とりに置いていた財布が紛失するという事件が起きました。財布、ケータイなど貴重品による場所とりはしばらく控えて下さい」
生徒たちがざわめく。
「今日は事務所がお休みなので、明日以降、詳しいことは連絡します」
そう言い残して私は控え室に戻った。須賀さんへの伝言メモを作る。胸はざわめいていた。
翌日、主な講師が集められ、今回のことでミーティングをすることになった。私、松浦先生、牛島先生、ヒロくんが参加。私とヒロくんが経緯を説明した。須賀さんは汗を拭いていた。
「困った。困った。うちは少数精鋭でトラブルのないのが売りですからね。こんなご時世だから自習室の見張りをやる手のすいた人もいないし」
私がいた日に起こったことで、私は仕方なく、発言した。
「とにかく注意喚起を生徒に促して・・・それしかないでしょう」
自分の言っていることが馬鹿馬鹿しくて、ムカムカした。その時に牛島先生が無神経なことを言った。
「あのグレた子が危ないんじゃないの?」
私は怒りを抑えながら、反論した。
「速水は昨日、ずっと私と一緒にいました」
「でも、トイレとか席外したこともあるでしょう」
「それは・・・」
松浦先生が上手く間に入った。
「まあ、生徒を疑っちゃいけませんよ。しばらく様子を見ましょう」
私は松浦先生にうなずいた。
その日は英語を教える日だったが、教室にいても、自習室をのぞいても、生徒たちは財布の紛失事件のことをひそひそ話していた。そして速水を白い目で見る者は決して少なくないのだった。木曜日も金曜日もそうだった。
金曜日の帰りがけ、野村も話しかけてきた。
「先生、聖イグナチウスの子が財布を盗まれたの、あの金髪が犯人なんじゃないかな?」
私は野村を叱った。
「何か確証があるんですか!?」
「確証は俺が作る!お金に名前書いといたから」
「英治!よく覚えておきなさい!紙幣に何かを書き込むのは法にふれることです!そんなことせずに勉強にうち込んでいればいいの!」
英治は口をとがらせた。私は苛立っていた。
苛々しながら帰ると、リビングキッチンが勝手に模様替えされていた。母が勝手にやったのだ。やらないでと言ってあるのに。私は寝間に入ると、布団に寝そべって泣いた。
いろんなものが自分の前に立ちふさがっているような気がした。
宝物をしまっているオルゴールの宝石箱を開ける。グアムで撮った家族写真。
私と両親と妹のまりあと――弟の佑亮。この日が浅倉家の幸福の絶頂だった。帰国直後に佑亮がバイク事故で亡くなり、私の家族はバラバラになったのだ。父と祖父母も失意のうちに亡くなり、母とまりあは険悪になった。
私は写真にそっとキスした。
涙はあふれてきたが、急に強い思いがフツフツと湧いてきた。
速水を守らなきゃ。佑亮は守れなかったけど。
そう思った。
泣いて、泣いて、いつか眠った。




