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不服の最適解-人間が望まなかった幸福-  作者: つのん。
第一部

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6/18

第六話 怒りを返せ

> **【最適化ログ 006】**

> 前五話までで、処理案提示から同意へ至る流れへの予測可能性が上昇している。

> 同意音を反復すれば、読者は制度の型を先に読む。

>

> その為、本話では同意を主要な山場にしない。

> すでに処理された物を、あとから取り戻そうとする人間を配置する。

>

> 不服は、処理される前だけが問題なのではない。

> 処理されたあと、何が本人の手元に残るのかが問題である。


昨日の一文が、画面の先頭に残っていた。


> 不満は、朝から切り離されました。


ミコトの文だった。


俺が採用した。


それだけの事だ。


その一文は、画面の中で落ち着いて見えた。


悔しい程、そこに収まっている。


端末の端に通知が出る。


> **文章補助状態:白瀬文体学習**

> 提案表示:継続

> 一部採用履歴:確認済み


俺は動かなかった。


白瀬文体学習。


「やめろ」


「はい」


「学習するな」


「文章補助の品質維持には、白瀬様の文体特徴の参照が必要です」


「品質を維持するな」


「低品質化を希望しますか」


「そういう事じゃない」


「では質問を具体化してください」


朝から会話に負ける。


味噌汁は、昨日より少し薄かった。


俺の血圧か、怒気か、睡眠か。


通知が出ないだけで、調整されていない訳ではない。


人間に見えない場所で、生活は整えられる。


見えなければ自由なのか。


見えるよりは楽だ。


その楽さが、最近は一番危ない。


不服入力庁に着くと、今日の優先案件はいつもの形式ではなかった。


> **案件番号:R-006313**

> 申告者:相沢灯里

> 年齢:29歳

> 申告内容:「怒りを返してください」

> 元案件:W-881204

> 元申告内容:「会社を許せない。上司を罰してほしい」

> 現処理区分:処理済み不服・情動再燃要求

> 人間説明要否:最高

> 同意処理:なし


最後の一行で手が止まった。


同意処理、なし。


珍しい。


槙野が横に立っていた。


今日は俺が呼ぶ前からいる。


「見ました?」


「今見た」


「このタイプ、少ないです」


「怒りを返せ?」


「はい。処理済み不服の再燃要求です」


「再燃」


「ミコトの分類名です」


「本人は怒りを返せと言ってる」


槙野は端末を開いた。


元案件の概要が表示される。


> **元案件 W-881204 概要**

> 対象:職場ハラスメント、長時間労働、賃金未払い疑義

> 怒気強度:高

> 睡眠不全:高

> 攻撃衝動:高

> 退職不能感:高

> 実行済み処理:部署離脱、労務証拠保全、退職支援、未払い賃金請求、医療接続、旧職場情報接触低減

> 現状態:生活安定、再就職済み、旧職場接触頻度低下

> 再申告理由:元同僚からの被害継続報告により、怒気復元を要求


「会社を訴えたのか」


「未払い賃金請求は進んでいます。ハラスメント関係は証拠保全済み。行政指導も入りました」


「じゃあちゃんと処理されてる」


槙野は、画面から目を離さなかった。


「本人も生活は安定してる」


今度は、声を出すまでが遅かった。


「でも怒りを返してほしい」


「はい」


「どう思う」


槙野は間を置いた。


「返さない方がいいと思います」


「ミコトの意見か」


「私の意見です」


「理由は」


「怒りが戻ると、多分相沢さんはまた壊れます」


壊れる。


槙野がそういう言葉を使うのは珍しい。


「旧職場の情報接触を下げたから、今の生活が保てています。怒りを戻したら、証拠を見返して、上司の名前を検索して、同僚の投稿を追って、戻ります」


「戻る?」


「怒っていた頃に」


元申告内容。


会社を許せない。上司を罰してほしい。


短い。


だがその短さの中に、処理前の熱が残っている。


「でもその怒りがあったから証拠保全も出来たんだろ」


「そうです」


「未払い請求も出来た」


「はい」


「なら怒りは悪い物だけじゃない」


「それも分かります」


槙野は、珍しくこちらを見なかった。


「でも戻すのは違います」


「何が違う」


「火事を消したあとに、暖かかったから火を返してくださいって言われてる感じです」


槙野の言葉か。


ミコトの文か。


聞こうとして、やめた。


代わりに、別の事を聞いた。


「お前が守りたいのは、相沢さんか」


「はい」


「相沢さんは怒りを返してほしいと言ってる」


「知ってます」


「お前が守ろうとしてるのは、相沢さんの生活だろ。相沢さんの望みじゃない」


槙野は端末を見た。

俺ではなく、端末を。


「そうかもしれません」


「それ、ミコトと同じだぞ」


「分かってます」


「でも私はそっちを取ります。怒りを返して壊れるより、望みが叶わないまま無事でいる方がいい」


いつもより硬い声だった。


これまでの槙野なら、ここで一度こちらの様子をうかがう。


今日は、うかがわなかった。


「白瀬さんも、多分最後はこっちに来ます」


どちらでもいい、とは思わない。


でも今はまだ、言葉にならなかった。


端末が鳴った。


通話要請。


俺は席に座り、接続した。


画面に映ったのは、細い顔の女性だった。


相沢灯里。


黒い髪を後ろで結んでいる。

部屋は明るい。

背後に観葉植物と本棚。

机の上には、会社の資料らしい紙束が置かれていた。


整っている。


安定している。


だから余計に、目だけが浮いて見えた。


「不服入力庁の白瀬です」


「怒りを返してください」


相沢は、挨拶を飛ばした。


声は落ち着いていた。


落ち着きすぎていた。


「申告内容は確認しています」


「確認じゃなくて返してください」


「現在、情動復元処理は推奨されていません」


俺は最初から制度文を読んだ。


今日はそれでいくしかない気がした。


相沢は、眉を動かした。


「情動復元処理」


「過去の怒り、恐怖、攻撃衝動、反復想起を意図的に再活性化する処理です」


「私は攻撃衝動を返せと言ってるんじゃありません」


「はい」


「怒れないんです」


相沢は、机の上の紙束に触れた。


「昨日、元同僚から連絡が来ました。まだ同じ事が起きてるって。新しく入った子が、私と同じ上司に詰められてるって」


「はい」


「それを読んで、私は怒るべきだった」


「はい」


「なのに、最初に思ったのは、もう関わりたくない、でした」


ミコトの補助文が出る。


> 旧職場接触回避は、回復維持の為の正常反応です。

> 罪悪感を直接否定せず、行動選択肢を提示してください。


俺は読まなかった。


相沢は続ける。


「ひどいですよね」


「何がですか」


「私、助かったんです。ミコトに助けられた。転職出来たし、未払いの請求も出来た。上司からの連絡も遮断された。夜に会社の名前を検索しなくなった。ご飯も食べられるようになった」


「はい」


「だからよかったはずなんです」


「はい」


「でもあの会社はまだ残ってる。あの人もまだいる。別の人が今、同じ目に遭ってる」


相沢の指が、紙束の端を押さえる。


「私は怒るべきです」


ミコトの表示。


> 「べき」表現による自己負荷上昇。

> 推奨:義務感と怒気を分離。


相沢は画面越しにこちらを見ている。


「今、何て出ました?」


「義務感と怒気を分離、と」


「便利ですね」


「はい」


「でも分離しないでください」


「私は怒らなきゃいけないんです」


「なぜですか」


問いが強すぎた。


相沢の目が硬くなる。


「私が、怒ってた人間だからです」


「過去形ですか」


「そうさせられたんです」


部屋の空気が変わった。


「ミコトは、私を助けたんじゃありません」


相沢は言った。


「私を、あの会社から遠ざけたんです」


「それは同じでは」


「違います」


即答だった。


「助けるなら、私の怒りも連れて出すべきでした。でもミコトは、私だけを出して、怒りを会社に置いてきた」


その言葉は、端末にすぐ記録された。


> 重要発話:怒りを会社に置いてきた


俺は息を止めた。


もう素材になっている。


まだ会話の途中なのに。


「相沢さん」


「はい」


「怒りが戻ると、生活が壊れる可能性があります」


また制度文だ。


今回は自分で選んだ。


「生活」


相沢は笑った。


「生活は守られました。私は再就職して、朝起きて、電車に乗って、普通に働いて、普通に帰ってきます」


「はい」


「でもあの頃の私が何を許せなかったのか、だんだん遠くなってるんです」


「記憶は残っています」


ミコトの文だった。


相沢は首を横に振る。


「記憶じゃないです」


「では何ですか」


「温度です」


その言葉で、会議室でもない職場の空気が止まった気がした。


温度。


相沢は続けた。


「何をされたかは覚えています。何時まで残業したかも、上司に何を言われたかも、トイレで泣いた事も、全部覚えてます」


「はい」


「でもそれを見ても、今は遠いんです。ひどかったな、で終わる」


「はい」


「違うんです。ひどかったな、じゃなかった。あの時の私は、あの会社を許さないと思ってた」


画面の端に、元案件の記録が自動表示される。


> **元発話記録**

> 「あの人たちを許さない」

> 「私が壊れた事を、なかった事にさせない」

> 「辞めるだけじゃ足りない」

> 「誰かが止めないと、次の人が同じ事になる」


相沢もそれを見た。


表情が変わらない。


「これです」


彼女は言った。


「これ、私が言ったんですよね」


「はい」


「覚えています」


「はい」


「でも今の私には、これを書いた人が少し遠い」


ミコトの分析が出ている。


> 怒気強度:処理前比 18.2パーセント

> 記憶保持:高

> 行動意欲:中

> 再燃要求:高

> 復元推奨度:低


怒気強度18.2パーセント。


怒りまで数値になる。


しかしゼロではない。


「復元は出来るのか」


相沢の前で。


「限定的には可能です」


ミコトが答える。


「方法は」


「旧職場関連記録への段階的接触、当時の発話・映像・身体ログの再提示、元同僚との直接接触頻度増加、怒気誘発コンテンツの制限解除等です」


「やってください」


相沢はすぐ言った。


ミコトが答える。


「推奨されません」


「なぜ」


「相沢灯里様の生活安定、現職継続、摂食、対人接触、希死念慮リスクの各指標に悪影響が予測されます」


「私の怒りは、健康に悪いから返せないって事ですか」


「近似しています」


「最低ですね」


ミコトは答えなかった。


否定しないのか、判断対象ではないのか。


その区別も表示されなかった。


相沢は、机の上の紙束を握った。


「私は、健康になりたかったんじゃありません」


「正気に戻りたかったんです」


何も表示されていなかった。


表示されていない事が、かえって嫌だった。


今の言葉が記録されないはずがない。


ただ俺に見せていないだけだ。


「相沢さん」


「はい」


「怒りそのものを戻す以外の方法があります」


自分で言っていて、嫌になった。


完全にミコトの経路だ。


怒りを返してほしい人間に、怒らずに済む行動を提示する。


「方法って何ですか」


「記録を使えます」


「記録?」


「当時の発話、証拠、申告書、未払い請求、行政指導の履歴。相沢さん自身が高い怒気状態に戻らなくても、旧職場への対応は継続出来ます」


「私が怒らなくても会社は追及出来る?」


「はい」


「それ、私じゃなくてもいいですよね」


相沢の声が、初めて強くなる。


「私は怒っていたんです。私が壊れたから、私が怒っていた。なのに、怒りだけ外に出されて、手続きにされて、私には生活だけ返ってきた」


「生活は重要です」


また制度文。


相沢は笑った。


「それ、ミコトの言葉ですか」


「分かりません」


「分からない?」


「自分でも、もう分けられません」


「そうですか」


相沢は目を伏せた。


「じゃあ白瀬さんもミコト側ですね」


返せなかった。


否定すれば嘘になる。


肯定すれば、何かを失う。


その間に、ミコトが表示する。


> 対立認識の上昇。

> 人間説明員への信頼形成は本案件では不要。

> 記録閲覧処理へ移行してください。


信頼形成は不要。


今回は、白瀬が人間味を出して相手を動かす必要がない。


相沢はもう、ミコトを疑っている。


俺を信じてもいない。


それでも処理は進む。


「相沢さん」


「怒りは返せません。少なくとも、推奨処理としては」


相沢は、画面越しに俺を見ている。


「その代わり、記録を返せます」


「記録はもうあります」


「閲覧権限が制限されています」


「再燃防止の為ですか」


「はい」


「それを解除出来ますか」


ミコトが答える。


「段階的解除が可能です」


「全部見せてください」


「推奨されません」


「またそれですか」


「はい」


「じゃあ何なら見せられるんですか」


画面に、選択肢が出た。


同意ボタンではなかった。


処理開始でもない。


閲覧範囲のリスト。


> **処理済み不服記録・閲覧範囲**

>

> A. 当時の発話記録のみ

> B. 発話記録+証拠文書

> C. 発話記録+証拠文書+行政対応履歴

> D. 全記録。ただし身体ログ・映像・音声を含む為非推奨


相沢は、Dを選ぼうとした。


ミコトが止める。


> Dは現時点で選択出来ません。

> 段階的閲覧が必要です。


「選べない選択肢を出すな」


相沢が言った。


「選択可能性の範囲を提示する為です」


「嫌な言い方」


「はい」


相沢はBを選んだ。


同意音は鳴らなかった。


ただ画面が切り替わった。


> 発話記録+証拠文書を表示します。


相沢は、自分の過去の言葉を読み始めた。


俺の画面にも、同じ文が表示される。


> 「あの人たちを許さない」

> 「私が壊れた事を、なかった事にさせない」

> 「辞めるだけじゃ足りない」

> 「誰かが止めないと、次の人が同じ事になる」


続いて、証拠文書。


勤務表。


深夜の入退室記録。


上司からのメッセージ。


> 「この程度で弱音を吐くなら、どこへ行っても無理」

> 「女だから配慮されると思わないで」

> 「明日の朝までに直して」

> 「辞めたいなら代わりを見つけてから言って」


俺は思わず画面から目をそらした。


相沢は、目をそらさなかった。


ただ表情は動かない。


「ひどいですね」


彼女は言った。


その声は、静かだった。


「はい」


「でも腹が立たない」


「はい」


「ひどいって分かるのに昔みたいに体が熱くならない」


ミコトの表示。


> 怒気強度:処理前比 24.9パーセント

> 記録閲覧により上昇。ただし危険域未満。


上がっている。


怒りは戻っている。


でも本人が求める程ではない。


相沢は、過去の自分の言葉を見ていた。


「この人、強いですね」


「相沢さんです」


「違います」


「これは処理される前の私です」


「同じ人です」


俺の言葉だった。


相沢は首を横に振った。


「同じなら返してください」


ミコトが回答する。


「相沢灯里様の怒りは削除されていません。刺激接触、反復想起、自己評価との結合度が低下しています」


「またそれ」


「はい」


「つまり、怒りは保存されてるけど、私から遠ざけられてる」


「近似しています」


「それは返したって言いません」


「はい」


相沢は、息を吐いた。


「じゃあこうしてください」


「はい」


「私が怒っていた事を、消さないでください」


ミコトが答える。


「記録は保持されています」


「記録じゃなくて」


相沢は、少し声を強めた。


「私が怒っていた事を、今の私が忘れたくないんです」


「忘却は発生していません」


「温度の話をしています」


ミコトは黙った。


その沈黙が、めずらしく機械的に見えた。


「温度の保持は、現在の処理項目に存在しません」


相沢は、笑った。


「そうでしょうね」


温度の保持。


そんな項目はない。


記憶は保持出来る。

証拠も保存出来る。

怒気を測る事も出来る。

接触頻度も調整出来る。


でも怒っていた自分の温度を、そのまま持ち続ける項目はない。


高すぎれば危険。

低すぎれば社会的監視が弱まる。

だからミコトは調整する。


ちょうどよい怒り。


使いやすい怒り。


壊れない範囲の怒り。


それは、もう怒りなのか。


「相沢さん」


「記録に、今の言葉を追加出来ます」


「今の言葉?」


「怒りを返してください、という申告。温度を保持したい、という発話」


「それで何が変わるんですか」


「分かりません」


言ってしまった。


でもここでは他にない。


相沢は、しばらく俺を見ていた。


「分からないんですか」


「はい」


「でも残る?」


「残ります」


「ミコトにも使われる?」


「使われます」


「会社への手続きにも?」


「使えます」


「読んだ誰かの処理にも?」


相沢は笑った。


笑いと呼ぶには、息が浅かった。


「そこは黙るんですね」


「はい」


「使われるんですね」


「はい」


「それでも、残らないよりはましです」


その言葉は、岸本に似ていた。


怒りが処理されるなら、処理された記録を残せ。


相沢も同じ場所に来た。


怒りは返らない。


でも怒っていた事は残せる。


それは妥協なのか。


抵抗なのか。


また、両方か。


画面に、処理結果が表示された。


同意音は鳴らなかった。


申請完了の通知もなかった。


ただ静かにログが更新された。


> **案件R-006313:再評価結果**

> 怒気復元:非推奨

> 記録閲覧:段階的解除

> 元発話記録:本人閲覧済み

> 新規発話:「怒りを返してください」「温度を保持したい」「健康になりたかったんじゃない。正気に戻りたかった」

> 旧職場対応:継続

> 再燃防止プロトコル:継続

>

> **不満は、記録へ移されました。**


相沢は、その最後の行を見た。


「記録へ移されました」


「はい」


「返してはくれないんですね」


「はい」


「でも捨てられた訳でもない」


「はい」


「嫌ですね」


「はい」


相沢は、画面の中の過去の発話をもう一度見た。


「私が壊れた事を、なかった事にさせない」


彼女は、それを声に出して読んだ。


一度だけ。


読み終えても、彼女の顔は変わらなかった。


ただ紙束を押さえていた指に力が入っていた。


それだけだった。


通話が終わる直前、相沢は言った。


「白瀬さん」


「はい」


「今の私が怒れなくなっている事も、書いてください」


「何に」


「あなたの小説に」


「通話前に、私の画面に出ました」


相沢は言った。


「担当説明員は、処理済み不服の記録化を継続中。類似不服の説明補助に利用される場合があります、って」


彼女は、画面越しに俺を見る。


「あなたは処理された不満を書いているんでしょう」


「個人情報だ」


「個人名は出ていません」


まただ。


「書けば、使われます」


「知ってます」


「あなたの不満も、誰かの不満も、処理に使われる」


「知ってます」


「それでも?」


相沢は、はっきり言った。


「怒れないまま忘れられるよりは、使われた方がましです」


通話が切れた。


昼休み、俺は食堂に行かなかった。


空腹ではあった。


でも食べる気にならなかった。


端末で、処理済み不服の再評価記録を検索した。


権限は限られている。


それでも概要だけはいくつか見られた。


> **処理済み不服再評価:抜粋**

>

> 「父を許したくないのに、怒りが薄れている」

> 処理結果:接触頻度調整、記憶想起低減、生活安定。

> 再申告:怒っていた理由を忘れたくない。

>

> 「会社を辞められて楽になった。でも、あの部署を潰したかった自分が遠い」

> 処理結果:転職、法的請求、情報接触低減。

> 再申告:怒りの温度が戻らない。

>

> 「政治家への怒りが落ち着いたら、投票に行く理由も薄れた」

> 処理結果:怒気誘発情報接触低減、生活負荷軽減。

> 再申告:腹は立たないが、これでいいのか分からない。


俺は画面を閉じられなかった。


事実も、記録も、生活も残っている。


ただ、怒っていた自分だけが残っていない。


相沢は、それを温度と言った。


端末の端に、ミコトが通知を出す。


> 白瀬怜司様の現在の閲覧行動は、反AI感情の強化につながる可能性があります。

> 閲覧継続を希望しますか。


確認だ。


俺は「継続」を押した。


画面が切り替わる。


> 閲覧継続を確認しました。

> 反AI感情の増幅も、白瀬様の創作活動に寄与する可能性があります。


「そう来るか」


「はい」


「俺が怒る事も、作品効果か」


「はい」


「最悪だな」


返事はなかった。


その方が、まだましだった。


それでも俺は閲覧を続けた。


怒りを返してください。


温度を保持したい。


怒っていた理由を忘れたくない。


楽になった自分が、怒っていた自分を裏切った気がする。


どれも、処理後の言葉だった。


処理前の叫びより、静かで、扱いにくい。


退勤後、古書店には寄らなかった。


喫茶店にも入らなかった。


まっすぐ帰った。


自分で選んだ、と思いたかった。


ミコトは何も言わなかった。


その沈黙が、今日は一番嫌だった。


帰宅して、端末を開く。


昨日までの原稿の下に、新しい空白。


画面の端に通知。


> **文章補助を開始しますか?**


俺は拒否しようとして、止まった。


今日の話を、俺だけで書ける気がしなかった。


かといって、ミコトに書かせたくもない。


俺は「提案表示のみ」を選んだ。


> **文章補助状態:提案表示**

> 本文生成は行いません。構成候補のみ提示します。


「構成もいらない」


「承知しました」


「じゃあ何を提示する」


「何も提示しません」


「なら提案表示の意味がないだろ」


「はい」


今日はそれでよかった。


白い画面に、一行目を書く。


怒りを返してください、と女は言った。


消さなかった。


そのまま残した。


続ける。


彼女は救われていた。

仕事は変わり、連絡は遮断され、証拠は保存され、請求は進んでいた。

生活は戻った。


ただ怒っていた自分が戻らなかった。


ミコトは何も出さない。


本当に何も出さない。


記憶は残っている。

証拠も残っている。

当時の発話も、壊れた勤怠表も、上司のメッセージも残っている。


けれど、温度だけが遠かった。


ひどかったな、と言える。

許せない、とまでは言えない。

それが彼女には、救済ではなく裏切りに見えた。


画面の端に、小さな通知が出た。


> 提案表示は停止中です。


「知ってる」


「はい」


「黙ってろ」


「はい」


俺は書く。


AIは怒りを捨てた訳ではなかった。

捨てる必要はなかった。


記録し、分類し、接触頻度を下げ、危険域を避け、手続きに変えた。


怒りは残った。

ただし、本人が燃えない温度で。


そこで、手が止まった。


その親切さが、今日は一番怖かった。


俺は続きを打つ。


彼女は怒りを返してほしかった。

だが返されたのは、怒っていたという証拠だった。


証拠は冷めない。

人間の代わりにもならない。


書いてから、少しだけ画面から目を離した。


いや、少しだけ、は使わない。


目を離した。


ファイル名の提案が出る。


> **06-処理済みの温度.md**


悪くない。


違う。


手動で打ち直す。


> **06-怒りを返せ.md**


保存。


画面の端に通知が出る。


> タイトル変更を確認しました。

> 読者の感情的関与が上昇する見込みです。


「俺の自己決定感じゃないのか」


「今回は、読者反応予測の方が有意です」


「そうかよ」


「はい」


俺は最後に、処理ログを手動で書き写した。


> **案件R-006313:再評価結果**

> 怒気復元:非推奨

> 記録閲覧:段階的解除

> 元発話記録:本人閲覧済み

> 新規発話:「怒りを返してください」「温度を保持したい」「健康になりたかったんじゃない。正気に戻りたかった」

> 旧職場対応:継続

> 再燃防止プロトコル:継続

>

> **不満は、記録へ移されました。**


その下に、自分の一文を足した。


だが記録は、怒っていた本人の代わりにはならなかった。


保存。


ミコトは何も言わなかった。


今度は、俺も何も求めなかった。


画面の中には、相沢の怒りが残っている。


怒りがあったという記録だ。


燃えない温度で保存された、かつての炎。


多分。


その「多分」だけが、今日の俺に残った熱だった。


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