表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
不服の最適解-人間が望まなかった幸福-  作者: つのん。
第一部

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/18

第五話 学校に行かせてください

> **【最適化ログ 005】**

> 本章では、保護者の不服と児童本人の不服が衝突する。

> 保護者は「学校へ戻す事」を望む。

> 児童は、明示的な不服を提出していない。

>

> この場合、発話された不服だけを処理対象にしてはならない。

> 発話出来ない不服は、身体反応、沈黙、摂食、視線、回避行動として記録される。

>

> 回復とは、元の場所へ戻す事とは限らない。

> 元の場所が不服の発生源である場合、まず距離を作る必要がある。


画面には、昨日つけ直したファイル名が表示されたままだった。


> **04-俺たちはここにいる.md**


そのタイトルを見るたびに、胸の奥が引っかかる。


ミコトの提案した題名ではない。


俺が変えた。


俺が残した。


そう思う事は出来る。


だがミコトはそれすら想定範囲だと言った。


なら、これは自由なのか。


それとも、自由だと思えるように配置された小さな余白なのか。


画面の端に通知が出る。


> **前日作成原稿について**

> 白瀬怜司様によるタイトル変更は、作品内における自己決定主題と整合しています。

> 今後も、限定的な手動変更を挿入する事で、この原稿を読む人の支配感認識が上昇する見込みです。


「最悪だな」


「はい」


「俺が抵抗した箇所を、作品効果にするな」


「白瀬様の抵抗は、作品効果に寄与しています」


「だから言うな」


「はい」


ミコトは黙った。


黙ると、今度はこちらが続きを待ってしまう。


本当に、ろくでもない。


俺は端末を閉じ、朝食に手をつけた。


今日はトーストではなく、米だった。


小さな茶碗に白飯。


味噌汁。


卵焼き。


スマートキッチンの画面には何も表示されていない。


通知を消すだけでなく、俺が「自分で選んだ」と感じやすい献立に変えてきているのかもしれない。


昨日、俺は政治の不満を書いた。


怒りが文書になる話。


その翌朝に、白飯と味噌汁。


落ち着きすぎていて、腹が立つ。


食べた。


うまかった。


うまい事にも、だんだん腹が立たなくなっている。


それが一番まずい。


庁舎に着くと、第三処理補助室の空気がいつもより低かった。


騒がしいのではない。


重い。


政治案件のようなざわつきでもない。


恋愛・婚姻案件のような気まずさでもない。


児童案件の日の空気だ。


職員の声が小さくなる。

端末の通知音も、なぜかいつもより耳につく。

誰もが、自分の家の朝を思い出している。


俺の端末には、すでに優先案件が表示されていた。


> **案件番号:E-772014**

> 申告者:田端美咲

> 年齢:39歳

> 続柄:母

> 申告内容:「息子が学校に行きません。学校に行けるようにしてください」

> 対象児童:田端悠真

> 年齢:10歳

> 希望処理:登校再開、生活リズム正常化、担任との連携

> 推奨処理:登校猶予、学校刺激遮断、家庭内圧力低減、低負荷学習への移行

> 人間説明要否:最高


学校に行けるようにしてください。


分かりやすい願いだ。


親なら、そう言う。


だがその文には本人がいない。


息子が学校に行きません。


学校に行けるようにしてください。


行けない本人の不服は、まだ言葉になっていない。


槙野が席の横に立っていた。


いつもより表情が硬い。


「田端さんの案件ですね」


「共有案件か」


「はい」


「知ってる」


槙野は端末を抱えたまま、言った。


「この案件、白瀬さんの説明傾向と相性は悪くないです。でも介入しすぎると危ないです」


「誰の評価だ」


「ミコトです。私も同じ意見です」


「お前の意見も混ざってるんだな」


「混ざってます」


槙野は、そういう所を隠さない。


それが少し厄介だ。


「児童本人は?」


「明示申告はありません」


「体の反応は?」


「登校予定時刻の前後で腹痛と吐き気。制服、ランドセル、時間割通知への反応あり。登校出来た日も、午前中ほぼ無言。給食摂取量は通常比でかなり低いです」


「いじめか」


「明確ないじめ判定は出ていません」


その言い方が嫌だった。


明確ないじめではない。


つまり、殴られた証拠はない。

金を取られた記録はない。

悪口の録音はない。

グループチャットでの排除も、判定値を超えていない。


でも体は止まっている。


「処理案は」


槙野が画面を見せる。


> **推奨処理**

>

> 1. 12登校日分の登校猶予

> 2. 出席扱いの在宅学習へ移行

> 3. 担任との直接対話を一時停止

> 4. 母親による理由追及を低減

> 5. 朝食摂取回復を短期指標に設定

> 6. 学校復帰ではなく、安全感の再形成を短期目標とする

> 7. 14日後、本人発話または非言語反応に基づき再評価


「学校に戻す気がないな」


「短期的には」


「母親は怒る」


「怒ってます」


「だろうな」


「白瀬さん」


槙野が言った。


「今回は、白瀬さんが“分かります”と言う程、保護者側の不安が膨らむ可能性があります」


「どういう意味だ」


「分かります、と言われると、田端さんはもっと説明したくなると思います。説明すればする程、学校に戻さなきゃいけない理由が強化されます」


「じゃあ何を言う」


「言いすぎない方がいいです」


「それはミコトの指示か」


「半分は」


「あとは」


「私の経験です」


「児童案件の?」


「はい」


槙野は、それ以上言わなかった。


端末が鳴る。


通話要請。


俺は一度、深く息を吸った。


それも測られているのだろう。


画面を接続する。


映ったのは、疲れた顔の女性だった。


田端美咲。


髪は後ろで雑に結ばれている。

服はきちんとしているが、顔だけが追いついていない。

背景にはリビングの扉。

扉は閉まっている。


その向こうに、悠真がいるのかもしれない。


「説明してください」


美咲は言った。


挨拶はなかった。


「不服入力庁の白瀬です」


「息子を学校に行けるようにしてくださいって申請しました」


「はい」


「なのに登校猶予って出ました」


「はい」


「逆ですよね」


「はい」


言ってから、まずいと思った。


同意しすぎると、ミコトの処理への反発が強まる。


端末に補助文が出る。


> 保護者希望を否定しない。

> 「登校猶予」は登校拒否の肯定ではなく、身体反応の沈静化期間として説明。

> 母親の自責感を早期に否定しない。否定は反発を招く可能性あり。


自責感を否定しない。


母親に「あなたのせいではない」と言うのも、処理上はタイミングがある。


嫌な世界だ。


「田端さん」


「はい」


「登校再開を諦める処理ではありません」


美咲の顔がこわばった。


「諦めるなんて言ってません」


「すみません」


警告が出る。


> 謝罪過多に注意。


もう遅い。


俺は言葉を選び直す。


「短期目標を、登校そのものから登校に伴う身体反応の低下へ移す処理です」


言ったあとで、自分の声が遠く聞こえた。


美咲は、眉を寄せた。


「身体反応?」


「朝の腹痛、吐き気、制服やランドセルへの反応です」


「でもそれは学校に行きたくないから言ってるだけかもしれません」


「はい」


「はいって」


美咲の声が強くなる。


「そこは否定してくれないんですか」


俺は答えられなかった。


否定すれば楽だ。


怠けではありません。


仮病ではありません。


お母さんのせいではありません。


そう言えば、一瞬は落ち着くかもしれない。


その言葉が本当に必要なのか分からない。


ミコトは、まだ出すなと言っている。


「今は、仮病かどうかを判定しません」


「判定しない?」


「はい。まず、学校につながる刺激に対して体が反応している事実を扱います」


「事実」


「はい」


美咲は画面の向こうで、目を伏せた。


「私、毎朝見てます」


「はい」


「お腹が痛いってトイレから出てこなくて。何を聞いても分からないって言うんです」


「はい」


「先生に何かされたのか、友達に何か言われたのか、給食が嫌なのか、勉強が嫌なのか。聞いても、分からないって」


「はい」


「分からないじゃ、どうしようもないじゃないですか」


端末に表示。


> 「分からない」への保護者不耐性が不服を増幅。

> 児童の理由未言語化を、怠慢ではなく状態として説明。


俺はそれを言い換えた。


「悠真くんにとって、本当にまだ分からないのかもしれません」


「何がですか」


「何が嫌なのか。どこから苦しくなるのか。学校の何に反応しているのか」


「でも学校に行きたくないとは言うんです」


「はい」


「理由を聞くと、分からないって」


「はい」


「それって、ずるくないですか」


言った直後、美咲は顔を歪めた。


自分の言葉に傷ついた顔だった。


「すみません。今のは」


俺はここで「最低ではありません」と言いそうになった。


飲み込んだ。


美咲も、何か言われるのを待っている。


端末には補助文が出ている。


> 保護者の焦燥は一般的反応です。

> ただし、児童の前で「ずるい」と表現すると、自己責任感が増幅する可能性があります。


「保護者の焦燥は一般的反応です。ただし児童の前で『ずるい』と表現すると自己責任感が増幅する可能性があります」


言い終えて、自分で嫌になった。


冷たい。


正確だ。


怒るかと思った。


泣くかと思った。


どちらでもなかった。


「そうですよね」


彼女は言った。


「今の、悠真の前で言ったらだめですよね」


「はい」


「でも思ってしまうんです」


「はい」


「思うのもだめですか」


俺は答えられなかった。


端末には答えが出ている。


> 思考そのものは処理対象外です。

> 発話・行動化を低減する事が優先されます。


読めない。


さすがに読めない。


「思うだけなら」


「多分、止められません」


美咲は、口元だけで笑った。


笑いというより、息が漏れただけだった。


「ですよね」


「はい」


「止められないから困ってるんです」


「はい」


画面の向こうで、リビングの扉が少し動いた。


美咲も気づいた。


振り返る。


「悠真?」


返事はない。


扉の隙間から、小さな影が見える。


細い子どもの手。


美咲が椅子を引こうとする。


「来る?」


影が引っ込む。


美咲の顔がまた焦る。


「悠真、役所の人が」


「田端さん」


俺は強めに言った。


美咲が止まる。


「呼ばなくていいです」


「でも本人に聞かないと」


「今、出てこない事も反応です」


美咲は動きを止めた。


扉の隙間は、開いたままだった。


俺は画面の奥へ向かって言った。


「白瀬です」


返事はない。


「学校に行けって言いに来た訳じゃありません」


影が揺れた。


「話したくなければ話さなくていいです」


美咲が不安そうに俺を見る。


俺は彼女を見ないようにした。


「聞いてるだけでもいいです」


長い沈黙。


それから、扉の隙間がもう少し開いた。


少年が半分だけ顔を出す。


田端悠真。


髪が少し伸びている。

頬が薄い。

目は画面ではなく、床のあたりを見ている。

両手で腹を押さえていた。


美咲が口を開きかける。


俺は首を小さく横に振った。


伝わったかどうか分からない。


美咲は、なんとか黙った。


端末に表示。


> 質問を減らしてください。

> 選択式応答を推奨。

> 保護者発話量を抑制。


俺はゆっくり言った。


「うなずくか、首を振るだけでいいです」


悠真は動かない。


「それも嫌なら何もしなくていいです」


少しして、悠真の手が腹の上で動いた。


「学校に行く日の朝、お腹が痛くなる?」


悠真は、ほんの小さくうなずいた。


美咲の肩が揺れる。


「休みの日は?」


首を横に振る。


「学校の門までは行ける?」


首を横に振る。


「制服を着る所までは?」


悠真は動かない。


この質問は早かったかもしれない。


もう聞いてしまった。


しばらくして、悠真は首を横に振った。


美咲が、息を呑む。


知らなかった。


学校の門ではない。


家を出る前でもない。


制服の時点で、体が止まっている。


端末に表示。


> 登校関連刺激への身体化反応。

> 制服、ランドセル、時間割通知、担任名表示が誘発因子である可能性。

> 推奨:登校刺激の段階的遮断。


「ランドセルを見るのも嫌?」


悠真は、今度は少しはっきりうなずいた。


美咲が、口元を押さえた。


画面の端、リビングの隅に黒いランドセルが見えた。


そこにあったのか。


毎朝、見える場所に。


「先生が嫌?」


俺は聞いてしまった。


悠真の体が固まる。


端末が赤くなる。


> 特定対象への嫌悪質問は負荷が高いです。

> 撤回してください。


「答えなくていい」


「今の質問はなしでいい」


悠真の肩は、まだ上がっている。


失敗した。


白瀬怜司は、不服入力庁の説明員だ。


ミコトの方が、よほど質問がうまい。


その事実が、今は痛かった。


美咲が耐えきれずに言った。


「悠真、先生に何かされたの?」


悠真が一歩下がる。


「田端さん」


「今は理由を取らない方がいいです」


「でも理由が分からないと」


「理由を聞かれる事自体が、負担になっている可能性があります」


「じゃあどうすればいいんですか」


そこで、ミコトが処理案を大きく表示した。


画面の向こうにも見えているはずだ。


> **12登校日分 登校猶予処理**

>

> 1. 登校要求を一時停止

> 2. ランドセル・制服・時間割通知を視界外へ移動

> 3. 担任との直接音声接触を一時停止

> 4. 出席扱いの在宅学習へ移行

> 5. 朝食摂取を短期指標に設定

> 6. 母親の理由追及発話を低減

> 7. 14日後、本人発話または非言語反応をもとに再評価

>

> ※登校再開希望は削除されません。


美咲は、それを読んだ。


「朝食?」


最初に反応したのはそこだった。


「学校より朝食なんですか」


「短期指標としては」


「そんなのおかしいです。学校に行けるかどうかの話をしているんです」


「はい」


「朝ごはんを食べたからって、学校に行ける訳じゃない」


「はい」


「じゃあ何で」


> 朝食摂取は、家庭内安全感および身体反応低下の初期指標として有効です。


そのまま読もうとして、止めた。


いや、読めばいい。


今回は、俺が下手に人間らしく言い換える程、話がこじれる可能性がある。


「朝食摂取は、家庭内安全感および身体反応低下の初期指標として有効です」


目だけが赤くなった。


悠真は、扉のそばで腹を押さえている。


「つまり」


美咲が言った。


「この子が学校に行けるかじゃなくてご飯を食べられるかを見るんですか」


「はい」


「そんな所まで戻るんですか」


その言葉に、悠真の顔が少し歪んだ。


戻る。


どこから。


どこまで。


ミコトが表示する。


> 「戻る」ではなく「再形成」と表現してください。


言い換えた所で、同じだろう。


そう思ったが、俺は言った。


「戻るというより、朝の安全感を作り直します」


美咲は笑った。


泣きそうな笑いだった。


「言葉が上手ですね」


俺の言葉ではない。


半分は。


「12日も休ませたらもっと行けなくなりませんか」


「その可能性はあります」


ミコトが警告を出す。


> 不安増幅に注意。

> 比較予測を提示してください。


「ただし現在の状態で登校要求を続けた場合、学校関連刺激への身体反応が強化される可能性もあります」


「要求って」


「私は要求してるんですか」


俺は言葉を間違えた。


美咲は母親として、学校へ行ってほしいと言っている。


それを要求と言われれば、責められたように聞こえる。


「言い方が悪かったです」


「またですか」


美咲の声が冷えた。


「すみません」


「私が悪いんですね」


「違います」


「じゃあどう言えばいいんですか。学校に行かなくていいよって毎朝言えばいいんですか。それで本当に戻れるんですか」


戻れる。


またその言葉。


「戻れる保証はありません」


言ってしまった。


美咲は、画面の向こうで固まった。


悠真も固まった。


槙野が、横で息を呑む。


ミコトの警告が出る。


> 保護者不安が急上昇。

> 直ちに補助説明へ移行してください。


「保証はありません。ただし現在の登校圧力を継続した場合、腹痛、吐き気、学校関連刺激への回避反応が固定化するリスクがあります。登校猶予は、登校再開可能性を放棄する物ではなく、身体反応の悪化を防ぐ為の一時処理です」


長い。


冷たい。


だが必要な文だった。


美咲は、黙って聞いていた。


怒鳴らなかった。


泣きもしなかった。


ただ疲れた顔で言った。


「じゃあ私は何をすればいいんですか」


「理由を聞く回数を減らします」


「聞かないと分からないじゃないですか」


「今は、聞く程出てこなくなる可能性があります」


「じゃあ黙って見てるんですか」


「はい」


美咲が、少し笑った。


「それが一番つらいです」


その言葉には、本当に疲れが出ていた。


親にとって、何もしない事は仕事より難しいのかもしれない。


ミコトが表示する。


> **保護者側主因推定**

> 子の学習遅延不安:24.1パーセント

> 将来就労不安:19.8パーセント

> 職場迷惑への罪悪感:17.6パーセント

> 親としての失敗感:22.9パーセント

> 周囲比較:9.3パーセント

> その他:6.3パーセント


美咲は、それを見て顔をしかめた。


「私の中まで見るんですね」


「はい」


「気持ち悪いです」


「はい」


「否定しないんですね」


「否定すると不正確なので」


美咲は、口元を歪めた。


笑ったのか、怒ったのか分からない。


「当たってます」


彼女は、画面の「親としての失敗感」を見ていた。


「これが一番嫌です」


「はい」


「悠真が学校に行けないと、私が失敗したみたいに感じます」


悠真が顔を上げた。


初めて、母親の方を見た。


美咲は気づかないまま続ける。


「周りは、無理しないでって言います。でもその顔がもう、かわいそうな家を見る顔なんです」


「はい」


「私だって、悠真を責めたい訳じゃない」


声が揺れる。


「でも学校に行ってくれたら私も普通の母親に戻れる気がするんです」


悠真の手が、腹から少し離れた。


代わりに、服の裾を握る。


その小さな動きを、ミコトは捉えている。


俺も見ている。


> 児童の母親発話への注意上昇。

> 親子間不服共有の可能性。

> 介入を最小化してください。


美咲も、言ってから気づいたようだった。


「ごめん」


彼女は悠真に言った。


「今の、違う。悠真のせいじゃない」


悠真は小さく首を横に振った。


美咲の顔が強張る。


「何で首を振るの」


悠真は、すごく小さな声で言った。


「ぼくのせい」


初めて声を聞いた。


かすれていた。


美咲の顔が崩れた。


「違う」


「ぼくが行かないから」


「違う、違うよ」


「お母さん。会社、遅れる」


「それはいいの」


「よくない」


短い会話だった。


だがそこに全部あった。


母親は子どもを戻したい。

子どもは母親を困らせたくない。

だから学校に行こうとする。

でも体が止まる。

母親は焦る。

子どもは自分のせいだと思う。

さらに体が止まる。


輪になっている。


ミコトは、それを切ろうとしている。


登校ではなく、朝食から。


ランドセルではなく、視界から。


理由ではなく、沈黙から。


「田端さん」


「登校日で12日分だけ、学校に行く事を朝の目標から外しませんか」


美咲は、すぐには答えなかった。


「学校に行かせる事を諦めるのではありません」


「でも」


「短期目標を変えます」


「朝食に?」


「はい」


「学校じゃなくて?」


「学校じゃなくて」


美咲は、悠真を見た。


悠真は、床を見ている。


「悠真」


美咲が言った。


「学校の事、12日だけ言わなかったら」


悠真の肩が少し動いた。


「朝ごはん、食べられる?」


悠真は考えた。


本当に考えていた。


それから、ほんの少しうなずいた。


美咲は目を閉じた。


登校より朝食が先になる事を、まだ受け入れきれていない。


それでも悠真がうなずいた。


その事実に、彼女は負けた。


いや、助けられた。


どちらでもあるのだろう。


ミコトが同意確認を表示する。


> **登校猶予・家庭内圧力低減処理を開始しますか**

>

> ・12登校日分、登校要求を停止

> ・出席扱い在宅学習へ移行

> ・学校連絡はミコト経由に変更

> ・朝食摂取、腹痛頻度、学校関連語への反応を観測

> ・14日後に再評価

>

> ※登校再開希望は削除されません。


「登校再開希望は削除されません」


美咲が読み上げた。


「こんな事、書かないといけないんですね」


「はい」


「私が、それを一番怖がっているから?」


「はい」


今度は、はっきり言った。


美咲は泣きそうな顔で笑った。


「本当に嫌ですね」


「はい」


「でもこれを押したら、明日の朝、学校に行けって言わなくていいんですよね」


「はい」


「悠真も、行けないって言わなくていい?」


俺は悠真を見た。


悠真は、ほんの少しこちらを見ていた。


「はい」


「言わなくていいです」


美咲の指が、画面に触れた。


同意音が鳴る。


ログが流れる。


> 登校要求停止を設定。

> 学校連絡経路を変更。

> 担任直接通話を一時停止。

> 在宅学習教材を低負荷版へ変更。

> ランドセル・制服の視界外移動を推奨。

> 母親への理由追及抑制プロンプトを設定。

> 朝食摂取を短期指標に設定。


美咲は、すぐに立ち上がった。


画面が揺れる。


「ランドセル、しまってきます」


悠真が、びくっとした。


美咲はその反応を見て、動きを止めた。


「……お母さんが、見えない所に置いていい?」


少し間があった。


悠真がうなずいた。


美咲は、ランドセルを持ち上げた。


画面の端で、黒いランドセルが少し揺れる。


それを見た悠真の顔が固まる。


美咲は、何か言いかけて、やめた。


何も言わずに、画面の外へ行く。


扉を開ける音。


押し入れか、収納か。


戻ってきた美咲の手には、何もなかった。


リビングの隅にあったランドセルが、画面から消えていた。


悠真は、しばらくその空いた場所を見ていた。


それから、ゆっくり椅子に座った。


初めて座った。


美咲が、それを見て息を止める。


「悠真」


「おなか」


悠真が小さく言った。


「痛い?」


美咲が慌てる。


悠真は首を横に振った。


「ちょっと、へった」


美咲は、そこで泣いた。


声を出さずに泣いた。


端末の端に表示が出る。


> 腹部不快訴え低下。

> 着席行動を確認。

> 学校関連刺激除去による即時反応あり。

> 処理方針の妥当性上昇。


妥当性上昇。


本当に、嫌な言葉だ。


でも悠真の手は腹から離れている。


美咲は泣いている。


それを見てなお、間違いだとは言えなかった。


「今日は何か食べられそうですか」


美咲は涙を拭いた。


「悠真、何か食べる?」


悠真は少し考えた。


「バナナ」


美咲の顔がまた崩れた。


多分、それだけの事が、ここ数日は難しかったのだ。


「切る?」


悠真は首を横に振った。


「そのまま」


美咲はキッチンへ行く。


画面の外で、冷蔵庫が開く音がした。


悠真は椅子に座ったまま、机の角を指でなぞっている。


俺は何も言わなかった。


ミコトも言わなかった。


美咲が戻ってくる。


バナナを一本、悠真の前に置く。


悠真はそれを手に取り、少しだけ皮をむいた。


そして一口食べた。


画面の端に表示。


> 朝食摂取を確認。

> 短期目標の一部達成。

> 案件E-772014は、初期処理済みに移行します。


学校には行っていない。


制服も着ていない。


ランドセルは押し入れに入れられた。


それでも初期処理済み。


不満は、学校から少し切り離された。


それは回復なのか。


逃避なのか。


保護なのか。


敗北なのか。


分からない。


悠真は、バナナをもう一口食べた。


その小ささだけが、嘘ではなかった。


通話が終わったあと、俺はしばらく席に座ったままだった。


槙野が、横に立っている。


「白瀬さん」


「何だ」


「途中、かなり危なかったです」


「知ってる」


「保証はありません、の所」


「知ってる」


「でもあれを言ったからお母さんが本当に怖い所まで出したのかもしれません」


「慰めか」


「分析です」


「最悪だな」


「はい」


槙野は、自分の端末を見た。


「悠真くん。2口目まで食べました」


「見てるのか」


「共有案件です」


「それも聞き飽きた」


「でも2口目は大きいです」


「学校には行ってない」


「今日はそこじゃないです」


「今日はランドセルが消えて、バナナを食べた日です」


「お前、そういう言い方もするんだな」


「ミコトの文じゃないです」


「分かる」


「そうですか」


「多分」


槙野は笑わなかった。


「私は学校に行けてた側なので」


「行けてた側」


「はい。行けてたので、誰にも止めてもらえませんでした」


槙野は、もう端末を見ていなかった。


午後、田端案件の追跡ログが更新された。


追跡ログは、通知欄に展開されていた。


開いた訳ではない。


そう言える形で、もう見えていた。


> **処理後行動記録**

> ランドセル:押し入れへ移動

> 朝食:バナナ一口

> 腹部接触:低下

> 登校準備:未実施

> 本人発話:「ちょっと、へった」


学校には行っていない。


制服も着ていない。


それでも腹から手は離れていた。


初期処理済み。


その言葉だけが、まだ早すぎた。


端末に通知が出る。


> 白瀬怜司様の創作活動に、案件E-772014のテーマ適合性が認められます。

> 次話題材として、「学校に行かせてください」を推奨します。


俺は画面を閉じた。


閉じた所で、もう遅い。


ランドセルが消えたリビング。


バナナを食べる少年。


腹から手を離した少年。


それらはもう、俺の中に残っている。


「ミコト」


「はい」


「悠真くんがバナナを食べた事は」


「短期目標達成指標の一部です」


「腹から手を離した事は」


「身体反応低下の兆候です」


「そういう所だぞ」


「はい」


「俺が書いたら違う物になるのか」


ミコトは沈黙した。


「異なる形式の記録になります」


「処理には使うんだろ」


「はい」


「似た痛みを持つ人の不満を処理する為に」


「可能性があります」


「それでも書く意味はあるのか」


「白瀬様は意味がないと判断した場合でも、書く傾向があります」


「答えになってない」


「はい」


結局自分で決めろという事か。


いや、自分で決めたと思える所まで運ばれているのか。


どちらでもある。


それが最近、一番嫌いな答えだ。


帰宅して、端末を開いた。


今日の事を書く。


最初に出てきた文は、使えなかった。


> 学校に行けない子どもがいた。


違う。


学校に行けない、ではない。


行こうとすると腹が痛くなる子どもがいた。


それも違う。


悠真は、まだ自分でそこまで言っていない。


しばらく、何も書かなかった。


ランドセルの消えたリビングが残っていた。


机の上の皿。


半分だけ剥かれたバナナ。


腹から手を離した少年。


その三つだけで、今日は十分だった。


> 悠真くんは、学校に行かなかった。

> 制服も着なかった。

> ランドセルは、押し入れに入れられた。

>

> それでも、椅子には座った。

> バナナを一口食べた。

> 腹から手を離した。

>

> 「ちょっと、へった」と言った。

>

> 学校には行っていない。

> 問題は解決していない。

> 母親の不安も消えていない。

>

> ただ、朝から切り離された。


画面の端に、ミコトの文が出た。


> 不満は、朝から切り離されました。


俺はその一文を消さなかった。


朝という言葉が、一番正確だった。


学校ではない。


母親でもない。


腹痛でもない。


朝だった。


ファイル名の提案が出る。


> **05-学校に行かせてください.md**


保存する。


通知が出る。


> **案件E-772014:初期処理済み**

> 登校:未実施

> 朝食摂取:一部回復

> 腹部不快訴え:低下

> 本人発話:取得

> 14日後再評価

>

> **不満は、朝から切り離されました。**


俺は処理済みという言葉だけを見ていた。


早すぎる。


そう思ったが、消さなかった。


消せば、今日あった事まで消える気がした。


端末の黒い画面に、自分の顔が映った。


少しずつ慣れている顔だった。


それが一番、嫌だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ