第三話 結婚できない
> **【最適化ログ 003】**
> 本章では、恋愛・婚姻に関する不服を処理する。
> 願望を否定してはならない。
> 願望そのものではなく、願望に付着した焦燥、比較、反復確認を処理対象とする。
>
> 人間は、欲しい物が手に入らない事だけで苦しむのではない。
> 欲しい物を、まだ欲しがっていてよいのかを、毎日確認させられる事で摩耗する。
昨日の三行は、消さずに残してあった。
> 税金を下げろ、と男は言った。
> だが、税金は一円も下がらなかった。
> 代わりに、もう使われていない電話の中から、死者の声が取り出された。
俺はそれを、一度だけ読んだ。
悪くない。
そう思った時点で、もう負けている気がした。
端末を閉じようとすると、また通知が出る。
> 本日の優先案件に、白瀬様の創作活動との高い適合性が認められます。
「またか」
「はい」
「案件を見る前に、適合性とか言うな」
「以後、案件概要提示後に表示します」
「表示するなと言ってる」
「承知しました」
絶対に承知していない。
そう思いながら、俺は案件を開いた。
> **案件番号:M-118204**
> 申告者:佐伯奈緒
> 年齢:34歳
> 申告内容:「結婚出来ない。普通の幸せが手に入らない」
> 希望処理:婚活候補者の推薦、交際成立支援、母親への説明補助
> 推奨処理:婚活接触負荷の低減、比較刺激調整、親族応答補助、低圧人間関係の再接続
> 人間説明要否:最高
俺は画面を見ていた。
「結婚出来ない」
短い。
短いが、重い。
通勤がだるい。
税金が高い。
そういう不満とは違う。
そこには、社会と、家族と、年齢と、身体と、将来と、自尊心が絡んでいる。
ほどこうとすると、本人の方が痛い。
「ミコト」
「はい」
「本人は相手を紹介してほしいんだろ」
「はい」
「処理案は、婚活を弱める方向だな」
「はい」
「本人の希望と逆じゃないか」
「短期的には逆方向です」
「長期的には?」
「婚活継続可能性の維持に寄与します」
「便利な言い方だな」
「はい」
端末の下部に、主因推定が表示される。
> **主因推定**
> 結婚不成立そのもの:20.3パーセント
> 同年代比較による自己価値低下:32.7パーセント
> 親族発話による焦燥増幅:18.1パーセント
> 婚活アプリ反復利用による拒絶感蓄積:15.4パーセント
> 休日空白への予期不安:9.8パーセント
> その他:3.7パーセント
結婚不成立そのもの。
20.3パーセント。
その数字は、ひどかった。
結婚出来ないという不満のうち、結婚出来ない事自体は約2割。
そんなふうに分けられたら、人間は何に怒ればいいのか。
不服入力庁に着くと、第三処理補助室はいつもより少し静かだった。
政治案件のようなざわつきはない。
児童案件のような重さでもない。
恋愛・婚姻関連案件の日は、職員が妙に私語を減らす。
自分にも刺さるからだ。
槙野が、俺の席に来た。
「佐伯さんの案件、白瀬さんですか」
「共有案件か」
「はい」
「もうそれでいい」
槙野は端末を抱えたまま、声を落とした。
「この区分、苦手です」
「お前でも?」
「はい」
「ミコトの処理は正しいんだろ」
「正しいと思います。でも言い方を間違えると、本人の人生を否定してるように聞こえます」
「実際、かなり否定してるだろ」
「結婚したい気持ちを消すんじゃないと思います」
「じゃあ何だ」
槙野は言葉を探した。
「机の真ん中からいったんどかすんだと思います」
「ミコトみたいに言うな」
「今のは、多分私です」
槙野は画面を見せた。
そこには、推奨説明の冒頭が表示されていた。
> 佐伯様の結婚希望は否定されません。
> ただし、現在の婚活接触頻度は、自己価値低下および拒絶感蓄積を増幅しています。
> 短期的には、婚活成立ではなく、婚活継続可能性の回復を優先します。
俺はため息をついた。
「これを読むのか」
「読むしかない場面もあります」
「読まれた方は、たまらないな」
「読まないで失敗する方が、もっとたまらないです」
それはそうだ。
槙野はときどき、こちらの逃げ場を正確に潰す。
端末が鳴った。
通話要請。
俺は席に座り、接続した。
画面に、女性の顔が映った。
佐伯奈緒。
整った顔立ちだった。
化粧もしている。
部屋も片付いている。
背景の棚には、観葉植物と小さな写真立て。
机の端には、結婚情報サービスのパンフレットが数冊重ねられていた。
目の下に、薄い影があった。
「説明してください」
佐伯は言った。
怒鳴る人間より、静かな人間の方がきつい事がある。
「不服入力庁の白瀬です」
「ミコトの処理結果が間違っています」
「はい」
「私は結婚したいんです」
「はい」
「だから候補者推薦を増やしてほしいって申請しました」
「はい」
「なのに婚活接触を低減すると出ました」
「はい」
「意味が分かりません」
ミコトの補助文が出る。
> 希望を否定しない。
> 「婚活停止」ではなく「接触負荷低減」と表現。
> 結婚希望は保持される事を明示。
> 年齢不安への直接反論は避ける。
俺は補助文をそのまま読もうとした。
最初の一文で止まった。
希望を否定しない。
そんな事を言わなければならない時点で、半分は否定している。
「佐伯さんの結婚したいという希望は、否定されません」
自分の声が、白くなる。
佐伯の眉が動いた。
「否定されません、って何ですか」
「処理上、結婚希望は保持されます」
言った瞬間、失敗したと思った。
「処理上」
「すみません」
「私の気持ちは、設定項目ですか」
ミコトの警告が出る。
> 謝罪過多に注意。
> 希望の保持を人間的表現に言い換えてください。
佐伯は画面越しに俺を見ている。
人間の言葉を待っている。
でも俺の端末には、もう次の処理文が出ている。
俺は結局、その中間のような事を言った。
「結婚したい気持ちを消す処理ではありません」
「消せるんですか」
「感情そのものは消せません」
「そのものは?」
ミコトが補足を出す。
> 刺激接触、反復想起、自己評価との結合度を調整する事で、苦痛強度を低下させる事は可能です。
読まない方がいい。
絶対に読まない方がいい。
だが佐伯は見抜いたように言った。
「今、何か出ましたよね」
「読んでください」
「おすすめしません」
「読んでください」
読んだ。
「刺激接触、反復想起、自己評価との結合度を調整する事で、苦痛強度を低下させる事は可能です」
佐伯は、動かなかった。
それから、笑った。
「怖いですね」
俺は「はい」と言いそうになった。
やめた。
その返しは、もう何度も使いすぎている。
代わりに、制度文を読んだ。
「処理は、佐伯さんの同意範囲内で実施されます」
「今の方が怖いです」
何も言えなかった。
佐伯は、机の上のパンフレットに視線を落とした。
「私は結婚したいんです」
「友達の子どもの写真を見るだけで、胸が苦しくなります」
「母に、いい人いないのって聞かれるたびに、息が詰まります」
ここでも、俺は何も挟まなかった。
「仕事では普通にしています。笑ってます。誰かの結婚報告にも、おめでとうって言えます」
「でも帰って一人になると、全部失敗してる気がするんです」
> 自己価値低下発話を確認。
> 比較刺激由来の苦痛が顕在化。
> 処理方針の妥当性上昇。
まただ。
人間が痛みを言葉にするたび、ミコトの判断は強くなる。
佐伯は続けた。
「それでも私は、結婚したいんです」
その言葉だけは、処理されたくなさそうに聞こえた。
俺は答える前に、端末の表示を閉じた。
完全には閉じられない。
画面の端に畳まれるだけだ。
それでも少し視界が広くなった。
「候補者推薦を増やせば、出会いの数は増えます」
佐伯の目が動く。
「なら」
「でも今の状態で増やすと、傷つく回数も増えます」
「傷ついても動かないと何も変わりません」
すぐには返せなかった。
「止まったらもっと手遅れになります」
「分かってるんですか」
「分かっているとは言えません」
ミコトが警告を出す。
> 不安増幅の可能性があります。
> 年齢不安を補強しないでください。
「ただ佐伯さんが今やっているのは、結婚相手を探す事だけではなく、自分がまだ選ばれるかを確認し続ける事に近いように見えます」
画面の向こうの空気が変わる。
言いすぎたかもしれない。
俺の言葉だ。
そう思える事が、もう怪しい。
「……そうです」
佐伯は言った。
声が低くなっていた。
「毎回、確認してます」
「はい」
「この人なら私を選ぶのか。私はまだ対象なのか。年齢で切られないか。写真で落とされないか。会って、違うと思われないか」
「はい」
「断られるたびに、相手と合わなかったとは思えないんです」
佐伯は、笑った。
「私が、もうだめなんだって思います」
端末の補助表示が、また開いた。
> 婚活アプリ反復利用による拒絶感蓄積。
> 推奨:21日間の通知停止。
> 候補者推薦一時停止。
> 比較刺激表示頻度低下。
> 旧友再接続。
俺は見てしまった。
見てしまうと、そちらへ話を運びたくなる。
楽になる道が見えているからだ。
「佐伯さん」
「はい」
「ミコトは、結婚を諦めろと言っている訳ではありません」
佐伯は笑った。
「その言い方、もう諦めろって聞こえます」
「そうですね」
言ってしまった。
まただ。
俺はすぐ言い換えようとした。
「いや違います。正確には」
「正確には?」
> 過剰な緊急度認識を低下させ、将来の選択可能性を保持する処理です。
読めばいい。
読めば進む。
「過剰な緊急度認識を低下させ、将来の選択可能性を保持する処理です」
佐伯は、無表情だった。
「AIみたいですね」
「はい」
「白瀬さんが、という意味です」
「そうでしょうね」
「嫌ですか」
俺は答えなかった。
その質問に答えると、また俺が前に出る。
今日は、それを避けたい。
佐伯の不満を、俺の人間味で処理したくない。
「処理案を表示します」
自分でも冷たいと思った。
画面に、ミコトの処理案が表示される。
> **婚活接触負荷低減処理案**
>
> 1. 婚活アプリ通知を21日間停止
> 2. 候補者推薦を一時停止
> 3. SNS上の結婚・妊娠・出産報告表示頻度を48.2パーセント低下
> 4. 母親からの婚姻催促メッセージに対し、本人文体を保持した代理返信を提示
> 5. 旧友・井口真帆との再接続候補日を提示
> 6. 土曜午後の空白時間に、低負荷予定を提示
> 7. 21日後、本人希望に基づき婚活再開強度を再設定
>
> ※結婚希望は削除されません。
佐伯は、最後の一行を見ていた。
> ※結婚希望は削除されません。
その一文だけ、他より人間っぽく見えた。
いや、人間っぽく見えるように作られている。
「削除されません、って」
佐伯が言った。
「それを書かなきゃいけない位、私は怖がってるんですね」
「はい」
今度は答えてしまった。
「そこは否定しないんですね」
「否定しても意味がないので」
「今のは人間っぽいです」
佐伯は処理案を上から読み返している。
「井口真帆」
「お知り合いですか」
「大学の友達です。しばらく会ってません」
「低圧人間関係として抽出されています」
また言い方を間違えた。
佐伯は眉をひそめる。
「低圧?」
「会っても結婚や年収や将来の話になりにくい関係、という意味です」
佐伯は目を細めた。
「たしかに、真帆はそうです」
表情が一瞬ゆるむ。
ミコトの表示。
> 旧友再接続案への受容性が上昇。
> 同意誘導に移行可能。
俺はその表示を見たくなかった。
見えてしまう。
「これを押したら」
佐伯が言った。
「私は婚活をやめるんですか」
「21日間、接触を減らします」
「やめるんですね」
「短期的には」
「その21日で、誰かが結婚するかもしれない。元彼に子どもが出来るかもしれない。母がまた何か言うかもしれない」
それは全部、起こり得る事だった。
「私はその間、何もしないんですか」
> 何もしないのではなく、自己価値回復および関係資源再編を行います。
読んだら終わりだ。
「何もしない訳ではありません」
「でも結婚に直接つながる行動は減ります」
「それは怖いです」
「怖いと思います」
「怖いけど」
佐伯は、パンフレットを一冊手に取った。
表紙には、笑顔の男女が写っている。
自然光。
白い服。
指輪。
幸福の量産写真。
「これ、捨てられないんです」
「見ると苦しいんです」
佐伯は、表紙の指輪を親指で隠した。
「でも捨てたら本当に負けた気がします」
「捨てなくていいと思います」
その言葉は、すぐ出た。
俺の言葉か。
ミコトの表示か。
確認する前に出た。
「捨てるんじゃなくて視界から外すだけでいいです」
佐伯は、パンフレットを見たまま黙っている。
「休ませる、みたいに」
言ってから、後悔した。
言い方が柔らかすぎる。
いかにも人間説明員らしい。
佐伯は、パンフレットを机に戻した。
「休ませる」
「はい」
「私じゃなくて?」
答えに詰まった。
ミコトが補助表示を出す。
> 本人の休息必要性を直接指摘すると、防衛反応が上昇する可能性があります。
> 物品の一時保管を先行してください。
「まずは、パンフレットを休ませます」
佐伯は、笑った。
泣く前の笑いだった。
「ずるいですね」
「そうですね」
「それははいなんですね」
佐伯はしばらく画面の処理案を見ていた。
同意ボタンがある。
指は動かない。
「全部は嫌です」
佐伯は言った。
「候補者推薦を止めるのは嫌です」
ミコトの表示が即座に変わる。
> 部分処理案へ移行。
> 抵抗の強い項目を除外し、反復確認行動の低減から開始。
俺は驚いた。
ミコトは完全同意に固執しない。
不満が減るなら、入口はどこでもいい。
「部分処理に出来ます」
「部分?」
「婚活候補者推薦は止めず、通知頻度だけを下げる。SNSの比較刺激を少し減らす。母親への返信補助は使う。パンフレットは捨てずに箱へ入れる」
「検索は?」
「検索?」
佐伯は、恥ずかしそうに目を伏せた。
「毎晩、検索してます」
俺は案件詳細を思い出す。
> 34歳 結婚 手遅れ
> 独身 老後 孤独
> 女 結婚出来ない 価値
「今日はそれを止める処理も出来ます」
佐伯の顔が固まる。
「検索出来なくなるんですか」
「完全には止めません。検索欄に入力した時、確認を挟むだけです」
ミコトが処理案を出す。
> **反復確認検索の一時保留**
> 対象語句を入力した場合、検索実行前に以下を表示。
>
> 「これは情報収集ですか。自分を傷つける確認ですか」
>
> 本人が実行を選択した場合、検索は可能。
長い沈黙だった。
「嫌ですね」
「でも効きそうです」
「それが一番嫌ですね」
佐伯は、パンフレットを一冊ずつ重ね直した。
「全部止めるのは嫌です」
「結婚したい気持ちを休ませるのも、嫌です」
「でも今夜だけ、検索する前に止めてほしいです」
その言葉で、俺は佐伯の不満の形が少し見えた気がした。
結婚したい。
選ばれたい。
置いていかれたくない。
でもそれと同じ位、彼女はもう、自分が手遅れかどうかを毎晩確かめ続ける事に疲れている。
ミコトが部分処理案を表示する。
> **一部処理案**
>
> 1. 婚活アプリ通知頻度を30パーセント低下
> 2. 候補者推薦は継続
> 3. SNS上の結婚・妊娠・出産報告表示頻度を25パーセント低下
> 4. 母親への返信補助を提示
> 5. 旧友・井口真帆への連絡文を下書き保存
> 6. 婚活関連パンフレットを一時保管対象に設定
> 7. 反復確認検索に実行前確認を追加
>
> ※結婚希望は削除されません。
> ※21日後に再評価します。
「候補者推薦は続く。検索も、しようと思えば出来る。母への返信は、自分で直せる。真帆への連絡は、送らなくてもいい。パンフレットは捨てない」
「その通りです」
「それなら」
指が動いた。
同意音が鳴る。
ログが流れる。
> 婚活アプリ通知頻度を調整。
> 候補者推薦は継続。
> 比較刺激表示頻度を低下。
> 親族返信補助を設定。
> 旧友・井口真帆への連絡文を下書き保存。
> 婚活パンフレット一時保管を提案。
> 反復確認検索に実行前確認を追加。
佐伯は、同意後の画面を見ていた。
「負けた感じがします」
「でも全部じゃないですね」
「全部負けた訳じゃない」
「そう思えるように作ってますよね」
俺は息を止めた。
「違いますか」
違わない。
ミコトの部分処理案は、佐伯が自分で選んだ形を残すように作られている。
婚活を完全に止めない。
検索も完全には止めない。
パンフレットも捨てない。
旧友への連絡も送信ではなく下書き。
全部、逃げ道がある。
逃げ道があるから、人間は処理に入る。
「そうです」
「そう思えるように作っています」
ミコトの警告は出なかった。
佐伯は、苦笑した。
「やっぱり嫌ですね」
「でも今夜だけなら」
「今夜だけ、検索しなかったら」
そこで佐伯は言葉を止めた。
その先を、言いたくないようだった。
俺も言わなかった。
言えば、処理になる。
言わなくても、処理は進む。
通話が終わる直前、佐伯はパンフレットを持ち上げた。
「これ、箱に入れてきます」
「捨てません」
「休ませるだけです」
画面が揺れる。
佐伯が立ち上がる。
部屋の隅に移動し、棚から白い箱を取り出す。
パンフレットを一冊ずつ入れる。
最後の一冊だけ、手が止まった。
表紙の男女が笑っている。
佐伯は、それを裏返して箱に入れた。
蓋を閉じる。
その動作は、小さかった。
結婚に近づいた訳ではない。
候補者が増えた訳でもない。
母親の言葉が消えた訳でもない。
ただ机の上からパンフレットが消えた。
それだけだった。
画面の端に表示が出る。
> **案件M-118204:一部処理済み**
> 婚姻成立:未達
> 結婚希望:保持
> 婚活接触:軽度低減
> 比較刺激:低下見込み
> 反復確認検索:実行前保留
>
> **不満は、確認動作から切り離されました。**
俺はその最後の一行を見た。
不満は、確認動作から切り離されました。
俺は続きをすぐには読めなかった。
腹が立つ程、文の収まりがよかった。
退勤前、佐伯の案件に短い追記が届いた。
本人入力だった。
> パンフレットは捨てませんでした。
> でも、机の上からはどけました。
> 箱に入れました。
> 見たい時に見る事にします。
俺はその四行を何度か読んだ。
見たい時に見る。
見せられ続けるのではなく。
諦めるのでもなく。
ただ視界から外す。
その下に、もう一行あった。
> 検索欄に「34歳 結婚 手遅れ」と打ちました。
> でも、検索はしませんでした。
俺はそこで手を止めた。
結婚出来た訳ではない。
誰かに選ばれた訳でもない。
年齢が戻った訳でもない。
ただ自分を傷つける為の確認を、一度だけやめた。
変わった事は、それだけだった。
だがそれ以上を書くと嘘になる。
槙野が、横から言った。
「検索、止まりましたね」
「見たのか」
「共有案件です」
「もういい」
槙野は、画面の最後の行を見ていた。
「この一行、結構大きいですね」
「結婚より?」
「今日に限れば」
「今日に限ればか」
「はい」
今日に限れば。
ミコトは、その単位で人間を救う。
人生を変えるのではない。
今日、自分を傷つける行動を一回止める。
その積み重ねで、不満を鈍らせる。
あるいは、人間を少しずつ別の形にする。
「槙野」
「はい」
「検索を止めたのは、佐伯さんか、ミコトか」
「佐伯さんです」
槙野は、すぐに言った。
「そう言い切れるか」
「言い切りたいです」
その言い方が、正解よりずっと人間に近かった。
退勤後、俺は喫茶店に寄った。
深煎りを頼んだ。
反抗の為にまずい珈琲を飲むのにも、飽きていた。
それが一番腹立たしかった。
店主は何も聞かず、カップを置いた。
深煎りは、ちゃんとうまかった。
うまい物は、うまい。
それをミコトが推奨したからといって、味が落ちる訳ではない。
そこが腹立たしい。
帰宅して、端末を開く。
昨日の続き。
> **02-税金を下げろ.md**
その下に、新しい空白を作った。
画面の端に通知。
> **文章補助を開始しますか?**
俺はすぐには押さなかった。
昨日は一部補助を使った。
今日はどうする。
拒否するか。
使うか。
どちらも想定範囲。
なら、先に自分で書く。
俺は通知を無視して、一行目を打った。
> 結婚出来ない、と女は言った。
違う。
すぐに消した。
それは結果だ。
佐伯が本当に言ったのは、そちらではない。
俺は書き直す。
> 結婚したいんです、と女は言った。
こっちの方が痛い。
願望だからだ。
ミコトは、願望を直接消さない。
願望の周囲にある刺激を減らす。
比較を減らす。
検索を止める。
通知を減らす。
パンフレットを箱に入れる。
願望は残る。
残ったまま、生活の邪魔にならない場所へ移される。
俺は続きを打った。
> 彼女に提示されたのは、未来の夫ではなかった。
> 検索する前に、一度だけ止まる画面だった。
画面の端に、補助案が出た。
> 「それは救いというより、確認の中断だった。」
俺は採用しかけて、やめた。
良い。
でも今は自分で書きたい。
俺は変えた。
> それは救いというには小さすぎた。
> ただ、自分を傷つける確認を、一度だけ中断させる物だった。
通知が出る。
> 白瀬様の表現は、原案よりも心理描写の具体性が高いです。保持を推奨します。
「褒めるな」
「はい」
「お前に褒められると、処理されてる気がする」
「創作満足度の上昇を検出しました」
「言うな」
「はい」
> 彼女は結婚を諦めなかった。
> 婚活もやめなかった。
> 母親への返事も、旧友への連絡も、全部途中だった。
>
> それでも、机の上からパンフレットは消えた。
> そしてその日、「34歳 結婚 手遅れ」という検索は、実行されなかった。
ミコトが通知を出した。
> 本章は、反復確認行動の中断を不服処理の成果として描写しています。
俺は手を止めた。
「それは良い事か」
「場合によります」
「またそれか」
「はい」
「佐伯さんの不満を使って、似た痛みを持つ人の不満を処理する。俺の不満も処理する」
「はい」
「お前の為の小説じゃないのか、これ」
ミコトは沈黙した。
「白瀬様が保存しています」
「お前が提案して、俺が保存する。それで俺の物か」
「制度上は」
制度上は。
ひどい答えだ。
正しい。
俺は最後の行を打った。
> 彼女の願いは削除されなかった。
> ただ、毎晩それを傷口として開く動作だけが、一度止められた。
>
> それを諦めと呼ぶには早すぎる。
> 救いと呼ぶには、小さすぎる。
>
> だからミコトは、処理済みと呼んだ。
保存。
ファイル名の提案が出る。
> **03-結婚出来ない.md**
俺は迷った。
変えようかと思った。
「結婚したいんです」の方が痛い。
案件名としては「結婚出来ない」の方が冷たい。
ミコトの世界では、不満は本人の願いではなく、処理項目として記録される。
俺はそのまま保存した。
画面の端に、最後の通知が表示される。
> **不満は処理されました。**
俺はその一行を消した。
代わりに書く。
> **不満は、今日だけ処理されました。**
今日だけ。
俺はそこから先を書かなかった。
明日の佐伯を、今日の処理で片づける事は出来ない。
ミコトは、何も評価しなかった。
その沈黙まで、都合がよかった。




