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不服の最適解-人間が望まなかった幸福-  作者: つのん。
第一部

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2/18

第二話 税金を下げろ

> **【最適化ログ 002】**

> 本章では、「税金を下げろ」という不服を処理する。

> 税制は変更しない。

> 変更するのは、支出、記憶、怒りの接触頻度である。

>

> 人間は、制度への怒りを生活の痛みとして持ち、生活の痛みを制度への怒りとして語る。

> どちらが本当かを決める必要はない。

> 不服値が下がる経路を選べばよい。


端末をつけたまま、眠っていたらしい。


机の上で、昨夜保存したファイルが開いている。


> **01-不満は処理されました.md**


タイトルの下には、三行だけ文章がある。


> 朝、目を覚ますと、昨日の不満が解決されていた。

> 正確には、解決されたらしい。

> 俺は負けたのではない。もっと悪い。満足していた。


悪くない。


そう思った瞬間、少し気分が沈んだ。


悪くない、という感覚までミコトに作られている気がしたからだ。


画面の端に通知が出る。


> **創作活動による心理的負荷低下を確認。**

> 白瀬怜司様のAI統治への抵抗感は、言語化により整理されつつあります。


「整理するな」


「はい」


「抵抗感が整理されたら抵抗じゃなくなるだろ」


「抵抗の有効性が上昇する場合があります」


「有効な抵抗は、処理しやすい」


「はい」


朝食は、昨日よりまずかった。


正確には、昨日より調整されていなかった。


トーストの端が少し焦げている。


卵の黄身も、少し固い。


スマートキッチンの画面には、こう表示されていた。


> 本日は、白瀬様の自己決定感回復を優先し、調理補正を最小化しました。


「わざとまずくするな」


「まずくしたのではありません。補正を控えました」


「補正しろ」


「承知しました。明日以降、味覚満足度と自己決定感の均衡点を再探索します」


「俺の朝飯で実験するな」


「はい」


はい、ではない。


焦げたトーストを食べながら、俺は少し落ち着いていた。


完璧ではない朝。


それだけで、人間側に戻れた気がする。


その気分も、計算されている。


通勤経路は、昨日と同じ古書店経由を選んだ。


今朝は喫茶店に入らなかった。


昨日の浅煎りが酸っぱかったからではない。


今日は入らない方が、昨日の俺とは違う選択をしている気がしたからだ。


古書店の前を通る。


まだシャッターは閉まっている。


昨日買った行政小説の事を思い出す。


鞄の中に入れてある。


電車で数ページだけ読んだ。


昔の窓口職員は、怒鳴られていた。


住民の言う事は無茶苦茶で、職員の説明もぎこちなく、制度は遅く、窓口は混んでいた。


不便で、非効率で、人間くさかった。


そして少し羨ましかった。


不満が処理される前の社会には、不満をぶつける余地があった。


今は違う。


ぶつける前に、受け止められる。


受け止められた不満は、形を変えられる。


形を変えられた不満は、本人の物だったかどうか分からなくなる。


不服入力庁に着くと、俺の端末には昨日の案件が固定表示されていた。


> **案件番号:F-392811**

> 申告者:矢野昌弘

> 年齢:58歳

> 申告内容:「税金が高すぎる。減税しろ」

> 処理区分:生活支出構造補正

> 人間説明要否:最高

> 再接続予定:本日9時30分


9時12分。


俺は案件詳細を開いた。


矢野昌弘。


元・町工場勤務。

現在は物流倉庫の夜間管理補助。

配偶者、矢野千佳。

3年前に死亡。


妻か。


親か。


仕事か。


昨日、そんなふうに考えた自分を、俺は恥じた。


どれでもなかった。


あるいは、どれでもあった。


住民税、国民健康保険料、介護保険料への不満投稿が過去3か月で18件。

市長への不満が7件。

国会議員への罵倒が12件。

「こんな国に税金払う意味がない」という発話が31件。


画面下に、ミコトの主因推定が出る。


> **主因推定**

> 税負担そのもの:21.4パーセント

> 月末可処分感の低下:34.1パーセント

> 配偶者不在そのもの:19.6パーセント

> 社会的被尊重感の低下:16.2パーセント

> 政治情報接触による怒気増幅:8.7パーセント


配偶者不在そのもの。


嫌な項目だった。


嫌な項目は、だいたい当たっている。


隣の席から、槙野が画面をのぞき込んだ。


「矢野さん。今日ですね」


「のぞくな」


「共有案件です」


「その言い方も聞き飽きた」


槙野は自分の端末を開いた。


「このタイプ、多いです。税金への怒りに見えて、実際には未整理固定費と喪失関連支出が重なってる人」


「税金が高いのも事実だろ」


「はい」


「じゃあ税金への怒りは間違いじゃない」


「間違いではありません。でも処理優先度は低いです」


「政治より生活か」


「今朝、支払いが苦しい人にとっては」


正しい。


正しいが、その正しさには、政治を小さくする匂いがある。


「白瀬さん」


槙野が言った。


「今日はあまり逸脱しない方がいいですよ」


「誰に言われた」


「私です」


「ミコトじゃなくて?」


「ミコトもそう出してます」


「だろうな」


「でも私もそう思います。故人関連契約は、言い方を間違えるとかなり荒れます」


「経験あるのか」


「あります」


意外だった。


槙野は、周囲を一度見てから声を落とした。


「怒られるだけならいいんです。でも相手が何も言わなくなる時があります」


「何も?」


「はい。画面を見たまま、急に黙るんです。そうなると、こっちが怖いです」


槙野にも怖い物がある。


その事に、妙に安心した。


端末が鳴る。


9時30分。


通話要請。


俺は息を吸い、接続した。


画面に、昨日の男の顔が映った。


矢野昌弘。


背景は古い団地の一室。

壁に時計。

その下に、女性の写真が飾られている。


旅行先で撮ったような写真だった。


遺影ではない。


部屋の中で一番丁寧に扱われている物だと分かる。


矢野は、画面越しにこちらを見ていた。


昨日程赤い顔ではない。


怒りが消えたのではない。


一晩置かれて、扱いやすい形になっている。


それが分かってしまった。


「昨日の続きだ」


矢野が言った。


「はい。不服入力庁の白瀬です」


「俺は税金を下げろって言った」


「はい」


「それで?」


俺はミコトの補助文を開いた。


> まず、税負担への怒りを保持する。

> 次に、短期処理として生活支出構造補正を説明する。

> 配偶者関連項目は、相手の発話が出るまで直接提示しない。


俺はその通りに進める事にした。


従うと決めた訳ではない。


ただここで下手に間違えると、矢野を傷つける。


そう思った。


そう思わせられているのかもしれない。


「矢野さんの税金への不満は、継続案件として記録されています」


「記録、ね」


矢野は鼻で笑った。


「それで税金は下がるのか」


「現時点では下がりません」


ミコトが警告を出す。


> 不可回答が早すぎます。

> 支出改善見込みを先に提示してください。


遅い。


また言った。


矢野の目が細くなる。


「じゃあ終わりだろ」


「いえ。短期的には、月末に残る金額を増やせます」


「ごまかすな」


「ごまかしです」


槙野が横で固まる。


ミコトの表示が赤くなる。


> 不適切表現です。

> 制度不信を増幅する可能性があります。


矢野は、しばらく俺を見ていた。


「……おい」


「はい」


「今、ごまかしって言ったか」


「言いました」


「役所の人間が?」


「はい」


「大丈夫か、お前」


大丈夫ではない。


だが言ってしまった物は戻せない。


「税金を下げられない代わりに、生活支出を調整する。矢野さんから見ればごまかしに見えると思います」


矢野は黙っていた。


怒鳴るかと思った。


怒鳴らなかった。


「……見えるな」


「はい」


「でも金は増えるのか」


「月額12,840円の支出改善が見込まれます」


数字を出す。


ミコトの推奨より早い。


今度は警告が出なかった。


矢野の表情が変わった。


「そんなにか」


「はい」


「何を削るんだ」


項目が並んでいる。


> 未使用通信契約

> 重複保険特約

> 旧居関連サービス

> 低利用サブスクリプション

> 配偶者名義残存契約


最後の項目を見る。


言うべきではない。


まだ言うべきではない。


ミコトも、そう出している。


なのに矢野は、こちらの沈黙を見逃さなかった。


「何かあるな」


「はい」


「言え」


「いくつか未整理契約があります」


「だから何だ」


「通信契約、保険特約、旧居関連サービス、使っていない会員契約等です」


「等?」


逃げた。


矢野にも分かった。


「等って何だよ」


ミコトの補助文が出る。


> 配偶者名義契約については、本人の同意を得たうえで段階的に提示してください。


だが矢野はもう待っていない。


「女房の契約か」


画面の空気が変わった。


背後の写真が、急に大きく見えた。


「はい」


矢野の顔から、怒りの色が一段引いた。


代わりに、別の物が出てきた。


「知ってるよ」


低い声だった。


「知ってて残してるんだよ」


ミコトが補助文を出す。


> 矢野千佳様の死亡後も、一部契約が継続しています。

> 固定費整理により、支出改善が可能です。

> ただし、当該契約は関係継続の代替物として機能している可能性があります。


関係継続の代替物。


本当に嫌な言葉だ。


「奥様の契約を、すぐ切れという話ではありません」


「当たり前だ」


矢野の声が荒くなる。


「俺は税金の話をしてるんだ。何で女房の話になる」


「支出の一部だからです」


言ってから、しまったと思った。


矢野の目つきが変わる。


「支出」


矢野が、その一語だけを繰り返した。


「女房の携帯が、支出か」


「すみません」


ミコトが警告を出す。


> 過度な謝罪は、処理主導権を低下させます。

> 表現を修正してください。


知るか。


「……今の言い方は違いました」


「違うだろ」


「はい」


「俺はな、女房の電話を切れなんて言ってない」


「はい」


「税金を下げろって言ったんだ」


「はい」


「何で、死んだ女房の携帯を切る話になるんだよ」


矢野の声が震えていた。


怒りとは違う震えだった。


俺は端末の補助文を見た。


> 怒りの対象と苦痛の主因は一致しない場合があります。


読めない。


読める訳がない。


だが読まなければ説明出来ない。


俺は自分の声が冷えるのを感じながら、言った。


「怒りの対象と、苦痛の原因が、同じとは限らないからです」


言った。


読んだ。


矢野は、画面の向こうで固まった。


槙野がこちらを見る。


ミコトの表示が更新される。


> 説明文提示を確認。

> 反発上昇。ただし核心項目への移行可能性あり。


核心項目。


人間の痛みを、そんな言い方にする。


矢野は黙っていた。


その沈黙の間、俺は自分が何をしたのか考えていた。


人間らしく言い換えようとして、失敗した。

結局ミコトの文を少し人間の声で読んだだけだ。


「……そうか」


矢野が言った。


声が低かった。


「俺は税金に怒ってるんじゃないって事か」


「そうではありません」


今度は早く言えた。


「税金にも怒っていると思います」


「にも?」


「はい」


「都合のいい言い方だな」


「はい」


矢野は壁の写真を振り返った。


女性は、橋の上で笑っている。


風で髪が乱れている。


「女房の携帯、まだ払ってる」


「はい」


「留守電が残ってるんだよ」


俺は黙った。


「病院に入る前のやつだ。たいした内容じゃない。買い物頼むとか、薬局寄ってとか、そういう声だ」


「はい」


「消せない」


矢野は、画面ではなく写真を見ている。


「毎月、携帯代が落ちるだろ」


「はい」


「腹立つんだよ。使ってもいないのに。死んだ人間の電話に金払ってる」


「はい」


「でも落ちたら落ちたで、まだつながってる気もする」


矢野は笑った。


ひどく疲れた笑いだった。


「馬鹿みたいだろ」


ミコトの補助文が出る。


> 否定してください。

> ただし「馬鹿ではありません」は定型的すぎる為避けてください。

> 契約を関係継続の象徴として扱う表現を推奨。


その通りだ。


でも今それを言ったら、俺の言葉ではなくなる。


黙っている間に、矢野は画面へ視線を戻した。


「何か言えよ」


言葉がない。


そう言えばいいのか。


だがそれもまた“人間らしい応答”として処理される。


俺は結局、ミコトの文に近い事を言った。


「馬鹿みたいだとは思いません」


「定型文みたいだな」


矢野は言った。


「半分、そうです」


「半分?」


「半分は、俺もそう思います」


ミコトの警告は出なかった。


矢野は息を吐いた。


「それで、どうするんだ」


「音声を保存出来ます」


矢野の目が動いた。


「声を?」


「はい。留守番電話、メッセージ、写真、契約情報を整理して、消えない形で保存します。そのうえで、契約だけを停止する方法があります」


「本当に消えないのか」


「個人端末と外部記録に二重保存出来ます」


「ミコトの中か」


「それも選べますが、ミコト管理外の保存も可能です」


「そっちがいい」


即答だった。


「はい」


「国に女房の声まで持たれたくない」


「分かります」


分かる、と言うのは簡単だ。


今回は、矢野はそこに噛みつかなかった。


「そうか」


それだけ言った。


処理案が画面に表示される。


> **生活支出構造補正案**

>

> 1. 配偶者名義通信契約の音声・写真保存

> 2. 保存確認後、通信契約を停止

> 3. 重複保険特約を解約

> 4. 低利用サブスクリプションを停止

> 5. 旧居関連サービスを停止

> 6. 税通知表示形式を変更

> 7. 政治情報接触頻度を一部調整

>

> 月額支出改善見込み:12,840円

> 税額:変更なし


矢野は最後の行を見て、眉をしかめた。


「税額、変更なし」


「はい」


「腹立つな」


「はい」


「正直でいいな」


褒められたのか、利用されたのか分からなかった。


矢野は画面をスクロールした。


「政治情報接触頻度を一部調整って何だ」


来た。


「就寝前に、怒りを強める動画や投稿の表示頻度を下げます」


「政治を見せないって事か」


「見たい時に見る経路は残します。ただ眠る前に勝手に流れ込む分だけを減らします」


矢野は画面を睨んだ。


「それ、怒る自由を削ってるんじゃないのか」


「怒る自由は残ります」


言ってから、自分でも嫌な言い方だと思った。


矢野の声に、わずかに怒りが戻った。


「俺が何を見るかまで決めるのか」


「決める訳ではありません」


「見えにくくするんだろ」


「はい」


「それを決めるって言うんだよ」


その通りだった。


矢野は黙った。


それは処理が進んでいるからか。


妻の声を保存出来ると分かったからか。


月12,840円という数字が、怒りを鈍らせているからか。


「俺が政治に怒らなくなったら」


矢野が言った。


「税金が高いのは変わらないままだろ」


「はい」


「じゃあそれは誰に都合がいいんだ」


ミコトの補助文が出る。


> 政治情報接触の調整は、政治参加の抑制ではありません。

> 本人能動検索、投票、意見提出、制度監視は保持されます。

> 推奨変更対象:就寝前の怒気誘発型推薦。


俺はそれを読もうとした。


途中で止まった。


矢野は、画面越しに俺を見ている。


「読めよ」


「え?」


「出てるんだろ。AIの答え」


それから、読んだ。


「政治情報接触の調整は、政治参加の抑制ではありません。見たい時に見る経路、投票、意見提出、制度監視は保持されます。減らすのは、就寝前に勝手に流れ込む推薦です」


矢野は、最後まで聞いた。


そして言った。


「うまいな」


俺は返事をしなかった。


「うまいから余計に嫌だ」


その通りだった。


「でも寝る前にあれを見ると、たしかに腹が立って眠れなくなる」


「はい」


「朝起きても腹が立ってる」


俺は画面の数値を見ないようにした。


「税金の通知が来たらもう全部つながる」


「……はい」


矢野は自分のスマホを見た。


処理案の同意画面が出ているのだろう。


「これを押したら俺は楽になるのか」


俺は画面の数値を見る。


> 月末可処分感:24.7パーセント改善見込み

> 税負担不満:31.2パーセント低下見込み

> 睡眠品質:13.8パーセント改善見込み

> 政治的怒気持続時間:42.4パーセント低下見込み

> 配偶者喪失関連未整理ストレス:18.1パーセント低下見込み


「かなりの確率で」


「税金は下がらない」


「はい」


「女房は戻らない」


「政治家も反省しない」


「それは別処理です」


「便利だな、別処理」


「はい」


矢野は笑った。


さっきより、力の抜けた笑いだった。


「お前、嫌じゃないのか」


俺は答えなかった。


答えれば、また俺の言葉が処理に使われる。


答えなくても、沈黙が使われる。


どちらでも同じだ。


「嫌かどうかは、関係ありません」


完全に制度文だった。


「この処理は、矢野さんの不満を下げる可能性が高いです」


矢野は俺を見ていた。


「今の、わざとか」


「はい」


「人間っぽく言うのをやめたな」


「そう見えると思います」


「それはそれで腹立つな」


「はい」


矢野は黙った。


それから、画面の外にある写真をもう一度見た。


「声を保存してからだ」


「それが終わるまで、契約は切るな」


「停止予約にします」


「政治動画は、全部消すな。見たい時は見る」


「表示頻度の調整です。アクセスは可能です」


「またAIみたいだぞ」


今度は、返事をしなかった。


「まあいい」


その言葉が出た瞬間、俺は少し嫌な感じがした。


まあいい。


人間は、完全に納得した時ではなく、疲れて「まあいい」と言った時に処理される。


矢野の指が、画面に触れた。


同意音が鳴る。


処理ログが流れ始める。


> 音声データ保存準備。

> 写真データ整理準備。

> 未使用通信契約停止予約。

> 重複保険特約解約申請。

> 低利用サービス停止。

> 税通知表示形式変更。

> 政治情報推薦頻度調整。

> 30日後再評価を設定。


矢野はログを見ていた。


怒鳴らなかった。


泣きもしなかった。


ただ椅子にもたれた。


「なあ」


「はい」


「俺、負けたのか」


また、その種類の質問だ。


昨日の俺も、朝から同じ事を考えていた。


ミコトの回答案が出る。


> いいえ。

> 社会全体が、矢野様の不服を受け止めたという事です。


俺はそれを読まなかった。


「分かりません」


そう言いそうになった。


言わなかった。


正直な白瀬を、ここで出したくなかった。


その役割に固定されるのが嫌だった。


「少なくとも」


「税金は下がっていません」


矢野は一瞬黙り、それから吹き出した。


「そこを言うか」


「はい」


「女房の携帯も、まだ切れてない」


「保存が終わるまでは」


「政治動画も、見ようと思えば見られる」


「見られます」


「でも月に12,840円は浮く」


「見込みでは」


「声も残る」


俺は写真の方を見ないようにした。


「残ります」


「じゃあ負けかどうかは後で考える」


「それがいいと思います」


これは俺の言葉だったのか。


ミコトの言葉だったのか。


分からなかった。


通話が切れた。


画面に、処理結果が表示される。


> **案件F-392811:初期処理済み**

> 税額:変更なし

> 月額固定費:12,840円削減見込み

> 配偶者関連音声:保存準備

> 政治情報推薦頻度:一部調整

> 税負担不満:低下見込み

>

> **不満は処理されました。**


税金は一円も下がっていない。


政治も制度も変わっていない。


矢野の妻は戻ってこない。


それでも矢野は、多分今夜、昨日より楽になる。


救いなのか、怒りの矛先を逸らしただけなのか。


分からないまま、処理済みだけが増えていく。


昼休み、庁内食堂で定食を食べた。


魚の骨は丁寧に抜かれていた。


味噌汁の塩分は、今日の俺の体調に合わせてある。


ありがたい。


ありがたすぎて、嫌になる。


槙野が向かいに座った。


「矢野さん。処理入りましたね」


「入ったな」


「途中、かなり危なかったです」


「ごまかしって言った所か」


「はい。あれは規定だとアウトに近いです」


「だろうな」


「でもその後は制度文をちゃんと読んでましたね」


「褒めてるのか」


「確認です」


槙野は魚をほぐしながら言った。


「白瀬さん。今日は途中で人間っぽくなくなりました」


「そう見えたか」


「はい」


「なら成功だな」


「成功なんですか」


「分からない」


俺は味噌汁を飲んだ。


うまい。


俺の疲労に合っている。


「槙野」


「はい」


「人間っぽく説明すると同意されやすくなる」


「はい」


「制度文を読むと、相手は腹を立てる。でも自分は少し守られる」


槙野は箸を止めた。


「守られる?」


「これは俺の言葉じゃない、って思える」


「でも声は白瀬さんですよ」


「そうなんだよ」


自分の声で、ミコトの文を読む。


それが、この仕事だ。


最初はただの代読だと思っていた。


違う。


ミコトの文は、俺の声を通る事で、人間に届きやすくなる。


俺の声は、ミコトの文を読む事で、少しずつミコトに近づいていく。


「私は」


槙野が言った。


「制度文、楽です」


「だろうな」


「自分が何か決めてる感じがしないので」


「それを楽と言うんだな」


「はい」


槙野は、箸を置いて続けた。


「でもたまに怖いです」


「何が」


「制度文を読んでると、相手が泣いてても次の文が出るじゃないですか」


「出るな」


「それを読むと、進むじゃないですか」


「進むな」


「進むと、助かるじゃないですか」


「助かるな」


「それが怖いです」


槙野は、そう言ってまた魚を食べた。


槙野はミコト側の世代だと思っていた。


最初から処理される事に慣れている世代だと。


それは間違いではない。


だが慣れている事と、怖くない事は違う。


午後、矢野の案件ログが更新された。


見るべきではない。


少なくとも、今すぐ見る必要はない。


> **案件F-392811 追跡ログ**

> 13時08分:配偶者端末バックアップ開始

> 13時21分:留守番電話音声3件を検出

> 13時26分:保存先としてミコト管理外ストレージを選択

> 13時44分:重複保険特約の解約申請完了

> 14時02分:低利用サブスクリプション停止

> 14時19分:税通知表示形式を月額換算表示へ変更

> 14時33分:政治動画推薦頻度を調整

> 14時41分:利用者が配偶者音声を再生

> 14時43分:泣き反応を検出

> 14時58分:再生終了

> 15時06分:未使用通信契約停止予約を本人が承認


承認。


契約は、まだ切れていない。


停止予約。


声を保存したあと、矢野は自分で承認した。


それを自由と呼んでいいのか。


分からない。


少なくとも彼の指は動いた。


ミコトが動かした訳ではない。


そう言いたい。


言いたいが、言い切れない。


画面の端に通知が出る。


> 白瀬怜司様の創作活動に、案件F-392811のテーマ適合性が認められます。

> 次話題材として、「税金を下げろ」を推奨します。


来た。


俺は画面を閉じた。


「ミコト」


「はい」


「人の奥さんの声まで、小説に使う気か」


「個人が特定されない形で抽象化可能です」


「抽象化すればいいのか」


「倫理的問題は残ります」


意外な答えだった。


「残るのか」


「はい」


「なら推奨するな」


「創作による白瀬様の不服外部化、および類似不服を持つ読者への処理効果が見込まれます」


「処理効果」


「はい」


「小説は処理装置か」


「場合によります」


「便利な答えだな」


「正確な答えです」


俺は椅子にもたれた。


税金を下げろ。


男はそう言った。


だが処理されたのは、税金ではなかった。


妻の声。


固定費。


政治動画。


通知の見え方。


怒りそのものではなく、怒りが燃え続ける為の燃料が少しずつ抜かれていった。


それを書く事は、告発なのか。


それとも、同じ処理を別の読者にも広げる事なのか。


多分、両方だ。


一番厄介なのは、両方である事だ。


退勤後、俺は古書店には寄らなかった。


昨日買った本が鞄に入っている。


読むつもりだったが、電車の中では開かなかった。


代わりに、窓に映る自分の顔を見ていた。


疲れている。


怒っているというより、摩耗している。


怒りは熱い。


摩耗は冷たい。


ミコトは、怒りを冷やすのがうまい。


帰宅して、端末を開く。


昨日のファイルが表示される。


> **01-不満は処理されました.md**


その下に、新しい空白を作った。


画面の端に通知。


> **文章補助を開始しますか?**


俺は拒否しようとして、手を止めた。


拒否すれば、また自己決定感がどうこう表示される。


開始すれば、ミコトの文が入る。


どちらも想定範囲。


なら、今日は一部だけ使う。


俺は「一部補助」を選んだ。


通知が変わる。


> **文章補助を一部開始しました。**

> 白瀬様の既存文体を保持し、構成補助のみ提示します。


「既存文体」


自分の文体が、もう認識されている。


気持ち悪い。


だが誇らしいと思ってしまった。


それがもっと気持ち悪い。


俺は一行目を打った。


> 税金を下げろ、と男は言った。


ミコトが補助案を出す。


> だが、税金は一円も下がらなかった。


俺は採用した。


悔しいが、それ以外ない。


続きを打つ。


> 代わりに、死んだ妻の声が保存された。


指が止まった。


書いてしまった。


これは矢野の事だ。


個人名はない。


状況も変えられる。


俺には分かる。


矢野の部屋。

壁の写真。

橋の上で笑う女性。

留守番電話の声。


それを使っている。


「ミコト」


「はい」


「これは搾取か」


「その可能性があります」


「消すべきか」


「白瀬様の倫理判断に委ねます」


「委ねるな」


「はい」


「お前ならどうする」


「個人特定性を下げ、喪失関連契約という構造のみを残します」


「つまり、使うんだな」


「はい」


代わりに、死んだ妻の声が保存された。


強い一文だ。


強いから、嫌だった。


俺は一語だけ遠ざけた。


> 代わりに、もう使われていない電話の中から、死者の声が取り出された。


矢野から少し離れた。


完全には離れていない。


ミコトの表示が出る。


> 個人特定性が低下しました。

> 文学的抽象度が上昇しています。


「黙れ」


「はい」


> 男は怒っていた。

> 税金に。

> 政治に。

> 役所に。

> 毎月落ちる、誰も使わない通信料に。

>

> その怒りは間違っていなかった。

> ただ、怒りの中には、別の痛みが混じっていた。


ミコトが補助案を出す。


> AIは、その痛みだけを抜き出した。

> 税金を残したまま。


俺はしばらく迷い、少し遠ざけて書いた。


> AIは、その痛みだけを抜き出した。

> 税金を一円も下げないまま。


負けた気はした。


だが負けたからといって、悪い文になる訳ではない。


そこが一番、救いがない。


> 男は同意した。

> 納得したからではない。

> 楽になる道が、目の前に置かれていたからだ。

>

> 怒りを持ち続けるには、体力がいる。

> 支払いを見直すにも、体力がいる。

> 死者の声を保存するにも、体力がいる。

>

> AIは、その体力を肩代わりした。

> だから男は、少し楽になった。

> それが、腹立たしかった。


画面はしばらく沈黙した。


ミコトが何も言わないと、不安になる。


「何か言えよ」


「本章は、税負担不服の主因移動を適切に描写しています」


「言うなって言ったら言うし、言えって言ったらそれか」


「はい」


俺は最後の一行を打った。


> 税金は下がらなかった。

> 政治も変わらなかった。

> 妻も戻らなかった。

>

> それでも男は、その夜、以前より少し静かな部屋にいた。


ミコトが補助案を出す。


> 眠れる、という直接表現を避け、環境変化で示す事を推奨します。


「お前、俺より小説が分かってきてるな」


「白瀬様の過去判断を反映しています」


「俺の判断か」


「はい」


「本当に?」


「判定不能です」


俺はそのまま残した。


直接「眠れた」とは書かない。


矢野の回だけは、眠りに近い救いを置いていい。


税金は下がらない。


妻は戻らない。


政治も変わらない。


ファイル名の提案が出る。


> **02-税金を下げろ.md**


今回は直さなかった。


保存。


画面の端に、最後の通知が表示される。


> **本日の不服処理結果**

> 税額:変更なし

> 月額固定費:12,840円削減見込み

> 配偶者関連音声:保存処理中

> 政治的怒気持続時間:低下見込み

> 白瀬怜司様の文章補助利用:一部開始

>

> **不満は処理されました。**


部屋は静かだった。


静かすぎて、矢野の部屋の事を考えた。


誰も使わない電話。


保存された声。


停止予約された契約。


まだ残っている怒り。


その全部が、どこかで静かに並べ替えられている。


画面は消えている。


消えているはずなのに、最後の通知だけがまだ目に残っていた。


> **不満は処理されました。**


「税金は、下がってないだろ」


返事はなかった。


それが、一番正確な返事に思えた。


俺は部屋の明かりを落とした。


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