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妹の代わりにアイドルになった俺は、嘘の人生で本当の恋をした  作者: リディア


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21/22

第21話 それでも立つ場所

 終わったかもしれない。


 昨日のリハーサルの直後から、その確信が、冷たい刃みたいに俺の胃袋に突き刺さったままだ。


 あの瞬間、俺は「城山葵」であることを手放した。

 いや、手放さざるを得なかった。


 宙でバランスを崩した茜の重さを感じた瞬間、身体が勝手に生存本能で動いた。

 受け止め、支え、絶対に床に落とさないために、全身の筋肉が反射的に「オス」の出力を選んだのだ。


 腰を落とした重心。

 広背筋の張り方。

 茜の身体を抱え込んだ、腕の太さ。

 そして、喉の奥から無意識に絞り出した、低い地声。


 全部、男だった。

 山で何万回と繰り返した鍛錬の成果が、最悪の形で露見した。


 抱き止めた時の、茜の顔が脳裏にこびりついて離れない。

 彼女の目は、驚きに染まっていたわけじゃない。

 もっと生々しい、決定的な違和感。

 皮下脂肪の奥にある大胸筋の硬さ。骨格の厚み。ごまかしのきかない「生物としての違い」を、彼女の皮膚が直接、理解してしまった顔だった。


「……終わった、か」


 暗い自室のベッドに腰掛け、呟く。

 不思議と、パニックにはなっていなかった。

 心臓は嫌な音を立てているが、頭のどこかは酷く冷え切っている。


「やっぱりな」


 そう嘲笑う自分がいる。

 いつかこうなることは、最初から分かっていた。

 ウィッグを被り、声帯を締め上げ、メイクで化けたところで、骨や筋肉まで女にはなれない。

 この薄氷の上のタップダンスは、いつか必ず氷が割れて終わる。

 それが昨日だった。ただ、それだけのことだ。





 昨日のリハの後、茜は控室に閉じこもった。

 俺がドア越しに声をかけても、震える声で拒絶された。


『私、平気だから……っ』


 あんな声を出させてしまった。

 俺が、彼女の「当たり前の日常」を壊した。


 選択肢は、二つしかない。


 一つは、今すぐ事務所にすべてをゲロって、消えること。

 そうすれば、茜をこれ以上不気味な恐怖に晒さずに済む。ひなたや沙織を騙し続ける罪悪感からも解放される。

「妹の代役」なんていう狂った茶番劇は、今日で終わりにできる。


 でも。

 それをしたら、葵の帰る場所が完全に消滅する。

 病院のベッドで、必死にリハビリに耐えているあいつの夢を、俺がへし折ることになる。


 もう一つは、続けること。

 茜が何も言わないなら、俺も何も言わない。

 気づかれていないフリをして、「城山葵」というバケモノの皮を被り続ける。


 だがそれは、爆弾を抱えたまま踊り続けるのと同じだ。

 茜が限界を迎えた時。あるいは、他の誰かにこのいびつな構造が露見した時。

 今よりもっと残酷に、全員が傷つく。


「……どっちに転んでも、地獄じゃねえか」


 自嘲気味に笑おうとして、顔の筋肉が引きつった。


 俺は自分の両手を見下ろした。

 関節が太く、節くれだった、男の手。

 この手で、茜を抱き止めた。この手で、妹の夢を繋ぎ止めようとしている。

 そしてこの手で、彼女たちの大切なグループを泥で汚している。


「……それでも」


 喉の奥で、血の味がした。


「辞められるわけ、ないだろ」


 葵の顔が浮かんだ。

『お兄ちゃん、私の夢、守ってね』

 あいつのあの悲痛な願いを前にして、自分が傷つきたくないから逃げるなんて、男として、兄として、絶対に選べない。


 自分のためじゃない。

 妹のためだ。

 そして、このふざけた嘘の上に成り立っている、茜たちの「今」を守るためだ。


 俺が泥を被る。

 全員から軽蔑され、化け物だと罵られようが、葵が戻ってくるその日まで、絶対にこの場所を死守する。

 バレるまで。俺の心が完全に壊れるまで。

 それが、俺が腹を括った「嘘」の代償だ。





 翌朝。

 スタジオに向かう廊下で、茜とすれ違った。


「……おはよう」


 茜の声は、かすれていた。

 目は、絶対に俺と合わなかった。

 見えない壁が、そこには確かにあった。


「おはようございます、茜さん」


 俺も、完璧に作った「葵」のトーンで返した。

 茜は肩をビクッと震わせ、逃げるように早足で通り過ぎていった。

 その背中を見送るだけでも、胸の奥がヤスリで削られるように痛かった。





 練習場に入ると、ひなたが駆け寄ってきた。


「葵ちゃん、おはよう!」

「おはようございます、ひなたさん」

「ねえ、昨日の茜ちゃん、ちょっと変だったよね。葵ちゃん、何か知ってる?」


 無邪気なその声が、今はただの凶器だ。

 知っている。俺が原因だ。


「……いえ。分かりません」


 息をするように嘘を吐く。

 ひなたは少し不安そうに首を傾げ、「何かあったら、言ってね」と笑った。


 言えるわけがない。

 お前が優しく声をかけている相手は、ただの坊主だ。





 リハーサルが始まった。

 フォーメーションの移動。俺が向かったのは、ステージのど真ん中。

 ゼロ番。センターの立ち位置だ。


 背中越しに、斜め後ろに立つ茜の気配を感じる。

 本来なら、彼女が立つべき場所。彼女が浴びるはずの照明の中心。

 だが今、そこに立っているのは、泥棒である俺だ。






 数週間前、茜の喉が悲鳴を上げた。

 本番を前にして、高音が出なくなったのだ。

 誇り高い彼女は、それでも無理をして歌おうとした。


 だが、その場で決断を下したのは俺じゃない。


 社長だった。


 冷静で、感情を一切挟まない声で、

「だが、茜にこれ以上の負担をかけ、グループ全体の質を下げるわけにはいかない」

 そう告げ、体制の変更を宣言した。


 センターに指名されたのが、俺――城山葵だった。


「……了解しました」


 そう答えた時、俺の胸にあったのは

 茜を守る、とか

 正義感、とか

 そんな立派な感情じゃない。


 ただ一つ。


 葵が戻るまで、ここを潰すわけにはいかない。


 それだけだった。


 このグループは、妹・城山葵の居場所だ。

 その場所が崩れたら、あいつが帰ってくる場所はなくなる。


 だから、引き受けた。


 センターという重たい役割を。

 茜のソロパートを。

 グループの矢面に立つ立場を。


 誰かを守ろうなんて、綺麗なことは考えていなかった。

 ただ、壊さないために、耐えると決めただけだ。


 イントロが鳴る。


 俺は、完璧に歌い、完璧に踊った。


 茜の掠れたハスキーな声に寄り添うように、

 作り上げた裏声でメインメロディを支える。

 振付の軸となり、誰よりも大きく、誰よりも正確にステップを踏む。


「……っ」


 曲の合間、すれ違いざまに茜と目が合った。


 昨日までなら、そこには

「代役」への信頼や、

 センターを譲った悔しさが滲んでいたはずだ。


 だが、今は違う。


 昨日のリフトの失敗。

 俺に抱き止められ、

 大胸筋の硬さと、男としての生々しい反射速度を知ってしまった後の目。


 それは――

 得体の知れないものを見る、怯えと混乱の色だった。


 怖いか。……当然だよな。


 俺は心の中で自嘲した。

 女装した正体不明の男が、完璧なアイドルの皮を被って、自分の本来の居場所でキラキラと輝いているのだ。これほど不気味で悍ましい光景はないだろう。

 茜の視線から逃げるように目を逸らし、俺はただ、虚勢を張ってセンターで踊り続けた。


 お前が俺を化け物だと軽蔑しても構わない。

 お前の喉が治るまで。お前がもう一度このゼロ番に立てるようになるまで、俺が妹の分を含めて全部の重圧を引き受けてやる。

 それが、お前たちを騙している俺の、せめてもの贖罪だ。


「はい、今日はここまで!」


 振付師の声で、曲が止まった。

 静まり返るスタジオ。メンバーが、タオルや飲み物を取りに散っていく。

 茜は、一言も発することなく、逃げるように控室へと消えていった。

 一度も、俺の方を振り向くことはなかった。


 その遠すぎる背中を見送りながら、俺は壁際でスポーツドリンクを喉に流し込んだ。

 冷たい液体が、焼け付くような胃の奥に落ちていく。


「……ようやるわ、ほんま」


 ふいに、隣から声がした。

 沙織だった。タオルで汗を拭いながら、呆れたような、でもどこか底知れない目で俺を見ている。


「沙織さん」

「あんた、全部背負い込みすぎやろ」


 沙織は、正面の鏡を見たまま、ぽつりと言った。


「茜ちゃんの喉のカバーして、センターの重圧被って、しかも……茜ちゃんに『何か』気づかれて、怯えられてる」

「……」

「しんどいやろ。あんた、今、針のむしろちゃうん?」


 俺の息が、わずかに止まった。

 この人は、どこまで見透かしているんだ。

 俺が男だということまで気づいているのか? それとも、ただの人間関係の歪みを察しているだけか?

 分からない。だが、沙織は間違いなく、俺が「一人で狂った自己犠牲を強行している」ことだけは正確に理解している。


「……大丈夫です。俺が、やりたいからやってるだけなんで」

「へえ。『俺』、ね」


 沙織の言葉に、全身の血が凍りついた。

 しまった。気を抜いて、一人称が素に戻っていた。


「……私、です」

「ふふっ、ええよ、別に。口滑らせたくらいで取って食うたりせんわ」


 沙織は扇子をパチンと閉じ、俺の肩をポンと軽く叩いた。


「けどな。あんたが一人で全部の泥被って、茜ちゃんの場所も、グループの危機も守ろうとしてるのは分かるけどな」


 沙織の目が、鏡越しに真っ直ぐ俺を射抜いた。


「女の子ってのは、理屈だけで生きとるわけやないんよ。『正体不明のバケモノに、自分のすべてを完璧に守られてしまった』。その事実が、茜ちゃんの心をどう壊すか……あんた、そこまで覚悟してセンターに立っとるんか?」


 俺は、声が出せなかった。

 沙織はそれ以上何も言わず、ひらひらと手を振ってスタジオを出て行った。


 一人残された空間で、俺は鏡に映る「城山葵」を見つめた。

 完璧な笑顔。完璧なパフォーマンス。

 だが、その内側にあるのは、ただの泥だらけの男の執念だ。


 社長にセンターを告げられた瞬間の、茜の顔がフラッシュバックする。

 あれは「任せる」じゃない。

「決めた」と言われただけだ。

 茜は笑おうとして、笑えていなかった。

 喉の痛みより先に、誇りを切り落とされた目をしていた。


 あの時の俺は、茜を守るとか、そんな立派なことを考えていなかった。

 ただ、冷えた腹の底で一つだけ決めた。


 葵が戻るまで、この場所を潰さない


 それだけだ。

 妹の夢を折らないために。

 このグループを「続ける」ために。

 俺はセンターに立つしかなかった。


 でも、結果はどうだ。


 俺が立てば立つほど、

「葵」の完成度が上がれば上がるほど、

 茜の居場所は静かに削れていく。

 守ったつもりじゃないのに、奪っている。

 支えたつもりなのに、踏み込んでいる。


「……それでも、立つんだよ」


 鏡の中の虚像に向かって、俺は低く、男の声で呟いた。

 逃げ道は、とっくに塞がっている。

 茜の喉が戻るまで。

 妹が帰ってくる場所を守り抜くまで。


 俺は、この地獄のど真ん中で、嘘を吐き続ける。


 本日も読んでいただきありがとうございます。

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