第22話 向き合う覚悟と、選ぶ権利
「今日、時間ある?」
練習後の熱気が残る廊下、茜が俺を呼び止めた。
声が、これまでと明らかに違った。
アイドルの「茜ちゃん」の作った声じゃない。薄氷を踏み抜く覚悟を決めた、一人の女の、硬く、重い響きだった。
「……はい」
俺は短く答えた。逃げ道なんて、とっくに塞がれている。
俺という「バケモノ」が、彼女の喉を案じてセンターを奪い、彼女のプライドを完璧に守って見せたあの日から。
「ついてきて」
連れてこられたのは、夕焼けに焼かれた屋上だった。
街全体が血のような赤に染まり、風が肌を刺す。
「……ここでいいわ」
茜が立ち止まり、振り返る。
俺たちは、お互いに手を伸ばせば届く、けれど決して踏み越えてはならない距離で対峙した。
沈黙が、砂を噛むような音を立てて落ちる。
茜の瞳は、真っ直ぐに俺を射抜いていた。
「葵ちゃん。……いえ、あなた」
「……はい」
「昨日のリフト、わざとじゃなかったんでしょ。……あれが、あなたの『本物』なんでしょ」
心臓が嫌な音を立てて、肺を圧迫する。
茜は一歩、俺のパーソナルスペースを蹂躙するように踏み込んできた。
「重心の低さ。ぶつかった時の、岩みたいな胸板の硬さ。……それに、時々混じる、喉を潰したような低い音。女の子を演じるなら、もう少し上手くやりなさいよ。完璧すぎて、逆に不気味なのよ」
「……」
「抱き止められた時、私、怖かった。……死ぬほど怖かった。女の子に守られた安心感じゃない。圧倒的な、異質の力に組み伏せられたような……そんな恐怖」
茜の声が、わずかに震える。
だが、その瞳に宿る意志は、夕陽よりも熱く燃えていた。
「偶然じゃないわよね。全部」
その問いが、俺の喉元に突き立てられる。
偶然。そう言い張ることもできたはずだ。だが、今の彼女の眼差しを前にして、そんな安っぽい嘘は通用しない。
俺は、奥歯を噛み締めて、絞り出した。
「誰を? 私たちの場所を? 妹の夢を?」
茜が、さらに一歩踏み込む。
もう、お互いの息遣いがぶつかる距離だ。
「笑わせないでよ……!」
声が掠れる。
「社長が決めたのは分かってる! でも、あなた、止めなかったでしょ!」
夕陽が、彼女の瞳を赤く燃やす。
「何も言わずに、当たり前みたいにそこに立った! それがどれだけ残酷か、分かってる!?」
俺は、息を飲む。
「私がやりますなんて言ってないくせに……っ、全部、受け入れた顔して。完璧な顔して。私の代わりに批判も視線も背負って」
拳が震えている。
「守る? 何それ。誰が守ってって頼んだのよ!」
涙がこぼれる。
それは整理された怒りじゃない。
ぐちゃぐちゃに絡まった感情が、溢れただけだ。
「私、あんたに守られたくなかった! ……なのに」
声が崩れる。
「なのに、あんたに抱き止められた時……安心しちゃったじゃない……っ」
空気が止まる。
「最低よ。あんたも。……私も」
茜は、俺の手首を強く掴んだ。
「壊れかけてたのは喉だけじゃない。プライドも、覚悟も、全部、私のものなの。勝手に抱え込まないで」
息が荒い。
「何を知って、何を許して、何を好きになるか。それを決めるのは……私よ」
沈黙。
握られた手首に、さらに力がこもる。
俺。
山での修行、男としての覚悟、その全部を詰め込んだ俺の意思。
それが、葵の皮を突き破って、漏れた。
「……俺」
自分でも止められなかった。
「今、俺って言ったわね」
茜の声は、もう震えていなかった。
納得、諦め、そして——どこか救われたような、不思議な響き。
「……やっぱり」
茜の瞳が、俺の顔を、骨格を、魂を解剖するように見つめる。
もう、隠しようがなかった。
夕陽に照らされた俺の顔は、きっと、もう「葵」ではなく、ただの「城山大輔」の顔をしていた。
「やっぱり、あなた……男の子だったんだ」
その言葉が、屋上の冷たい空気の中に溶けていった。
俺は、何も言わなかった。
ただ、茜に握られた手首の熱さだけが、狂おしいほどリアルに感じられた。
俺が一人で背負ってきた「嘘」の城壁が、一人の女の子の真っ直ぐな怒りによって、跡形もなく崩落した瞬間だった。
「……ああ」
俺は、作った声を捨てた。
低く、掠れた、自分自身の本当の声で、彼女に応えた。
「最低だろう。……俺は、最低の詐欺師だ」
茜は何も言わず、ただ、掴んだ手を離さなかった。
夕焼けが、俺たちの歪な境界線を、残酷なまでに鮮やかに焼き付けていた。
本日も読んでいただきありがとうございます。
もし「続きが気になる」「面白かった」と思っていただけたら、ブックマークや評価をしていただけると執筆の励みになります!
どうぞよろしくお願いします。




