第19話 感触が忘れられない
茜は朝から、そのことばかり考えていた。
夜明け前、不意に目が覚めた。窓の外はまだ暗いのに、心臓が気持ち悪いリズムで跳ねていた。
目を閉じると、昨日の感触がフラッシュバックする。
葵ちゃんの腕。
細かった。
確かに細かったはずだ。
なのに、硬かった。
女の子の、あの脂肪の奥に骨があるような柔らかさじゃなかった。
筋肉の繊維が、鋼線を束ねたみたいにみっちりと詰まっている、あの硬さ。
私を支えた時の、あの岩のような重さと、異常なまでの熱量。
「……違う」
ベッドの中で、枕に顔を押し付けて呟いた。
布越しに吐き出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
「女の子同士だから。ちょっと頼りがいがあったから、ドキドキしてるだけ。それだけ……っ」
言い聞かせた。
何度も言い聞かせた。
なのに、思い出すのは彼女の「匂い」だった。
シャンプーの甘い香りじゃない。その奥底からツンと鼻を突いた、汗と、何かに必死に耐えているような、焦燥感の匂い。
あれは、女の子の匂いじゃなかった、と。
脳の奥底で、誰かが囁き続けていた。
午後からのリハーサル。
茜はいつも通りに動いた。
完璧なセンターとして笑い、ステップを踏んだ。
でも、目は、気づけば葵を追っていた。
振付の確認で、二人が向かい合う。
葵の立ち方が、また、茜の神経を逆撫でした。
重心の位置がおかしい。女の子特有の、少し内股気味の華奢な立ち方じゃない。
地面に根を張るような、絶対に倒れないという意志を持った、芯のある立ち方。
「ワン、ツー、スリー——」
カウントに合わせて、葵が手を差し伸べてくる。
その手を取った瞬間、茜は息を呑んだ。
指先。関節が、ゴツゴツしている。
骨張っていて、指の腹が、少し硬い。
「……茜さん、大丈夫ですか?」
覗き込んできた葵の声。
いつもの、少し低めの、落ち着いた女の子の声。
なのに、茜の耳には、その声の底に地鳴りのような別の音が混ざって聞こえた。
「え、あ……うん。大丈夫」
「顔が、少し赤いですよ。熱、ありますか?」
葵が、すっと手を伸ばしてくる。
その手が茜のおでこに触れそうになった瞬間。
「っ、触らないで!」
バシッ、と。
茜は無意識に、葵の手を払いのけていた。
スタジオの空気が凍った。
メンバーが息を呑む気配がした。
「あ……ごめ、違うの、暑いだけで……」
茜は血の気が引くのを感じた。なんでこんなことを。
だが、払いのけられた葵は、傷ついた顔ひとつしなかった。
ただ、茜の目を、真っ直ぐに見た。その目が、恐ろしかった。
怒りでも、悲しみでもない。ただ「状況を把握し、次善の策を練る」ような、冷徹で、ひどく大人びた目。
「……そうですか。無理はしないでくださいね」
葵は、ふっと微笑んだ。
いつもの、綺麗なアイドルスマイル。
それが、どうしようもなく気味が悪かった。
同時に、その作り物の笑顔の奥で、この人間がたった一人でとてつもない重圧と戦っているような気がして——胸が、締め付けられるように痛かった。
守ってあげたいのか、それとも、逃げ出したいのか。
自分がどうしたいのか、茜にはもう分からなかった。
休憩に入り、メンバーが飲み物を買いに散る。
気づけば、壁際の長椅子に座る茜と、パイプ椅子でタオルを首にかけている葵、二人だけが控室に残っていた。
沈黙が、痛い。
葵の放つ、静かすぎる圧力が、部屋の空気を重くしている。
「……ねえ、葵ちゃん」
口が勝手に動いていた。
やめろ。それ以上踏み込むな。本能がそう警告しているのに。
「ひとつ、聞いていい?」
「……はい」
葵がこっちを見た。
ああ、まただ。
逃げ場がない目。
どんな理不尽でも、どんな暴力でも、全部俺が受け止めてやるというような、自己犠牲の塊のような目。
「あなた……どうして、そんなに必死なの?」
聞きたかったのは、そんなことじゃない。「あんた、本当は誰なの?」喉まで出かかったその言葉を、恐怖が飲み込んだ。
だから、別の言葉で殴りかかった。
「頑張ってるなんてレベルじゃない。葵ちゃんって、いつも……まるで、明日死ぬみたいな顔して踊ってるじゃない」
葵は、わずかに目を見開いた。
そして、ゆっくりと視線を落とし、自分のゴツゴツした両手をじっと見た。
「……頑張ってるつもりは、ないです」
「嘘つかないで」
「……嘘じゃないです。ただ、やめられないだけで」
やめられない。
その響きには、アイドルのキラキラした夢なんて微塵もなかった。
あるのは、血を吐くような執念だけ。
「大切な人の、戻る場所を守ってるから」
また、それだ。
「大切な人」。
それが誰なのか、茜には分からない。
でも、その言葉を口にする時の葵は、アイドルの「城山葵」ではなく、ただの「一人の人間」の顔になる。
「……葵ちゃんって」
「はい」
「自分のためじゃなく、誰かのために生きてるみたい」
「……そうかもしれません」
葵は、自嘲するように小さく笑った。
「茜さんは、違うんですか?」
不意に撃ち抜かれた。
茜は、言葉を失った。
自分のため。センターで輝くため。そう思ってきた。
でも、目の前で、自分の全てを殺して「誰かの場所」を死守しようとしているこのバケモノを前にして、私の覚悟なんて、どれほど薄っぺらいのか。
「……分からない」
茜は、膝の上で拳を握りしめた。
「分からなくなってきた……っ」
葵が、茜を見た。
何かを言いかけて、奥歯を噛み締めるように口をつぐんだ。
その「飲み込んだ瞬間」の、葵の苦しそうな横顔が、茜の胸に深く、深く突き刺さった。
「……茜さん」
「なに」
「分からなくていいと思います。今は」
葵の声は、低かった。作られた声帯の奥から、本物の響きが漏れていた。
「分からないまま、それでも両足で立って、前に進もうとしてる人の方が」
葵は、真っ直ぐに茜の目を見た。
「……強いから」
ドクン。
茜の心臓が、痛いほど大きく鳴った。
慰めじゃない。同情でもない。
泥泥の最前線で戦っている人間から、同じ戦場に立つ戦友へ向けられたような、重くて、熱い言葉だった。
その言葉は、茜の胸のど真ん中に落ちてきて、火傷しそうなほどの熱を持ったまま、そこで止まった。
その夜。
茜は暗い部屋のベッドの上で、膝を抱えていた。
「女の子同士なのに」
呟いた声は、かすれていた。
葵のことを考えると、胃の奥が熱くなる。
近くにいると、狂おしいほどに惹きつけられる。
でも同時に、背筋が凍るほど怖い。
何かが根本的に間違っている。
あいつは、ただの「少し背の高い女の子」じゃない。
あいつの奥には、もっと別の、もっと獰猛で、傷だらけの何かが潜んでいる。
それを確かめたら、今の私たちはどうなる?
「もし、あなたが……私たちが思ってるような『女の子』じゃなかったら……」
部屋には時計の秒針の音だけが響く。
答えなんて出ない。
ただ、胸の奥で燻る火種だけが、じりじりと茜の日常を焼き焦がし始めていた。
翌朝。
血走った目でスタジオに向かう廊下。
曲がり角で、不意にその姿が現れた。
「あ」
「おはようございます、茜さん」
葵だった。
いつもの完璧な笑顔。いつもの立ち姿。
昨日、あんなに生々しい熱を放っていた人間と同一人物だとは到底思えない、完成された「アイドル」。
すれ違いざま、葵からあの匂いがした。
甘いシャンプーの奥で、隠しきれないお香の匂いが、ほんの少し強くなっていた。
気づけば、茜は踵を返し、その背中に向かって声を出していた。
「ねえ、葵ちゃん」
「……はい?」
振り返った葵。
その目を見た瞬間、茜の足がすくんだ。
まただ。あの、全てを諦めて、全てを背負うような目。
ごくり、と唾を飲み込む。
言え。ごまかすな。聞くんだ。
「あなた、本当に——」
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