第18話 踏み越えない一線
バレたら終わる。
俺の人生じゃない。妹の人生(夢)が、だ。
控室のドアが閉まった瞬間、部屋の空気が圧縮されたように重くなった。
向かいのソファに腰を下ろした九条麗子は、コーヒーカップの縁を細い指でなぞりながら、ただ微笑んでいる。
だが、その目は笑っていなかった。
獲物の皮をどう剥ぐか、どこからメスを入れるかを楽しんでいる、圧倒的強者の目だ。
「あなた、緊張してる?」
開口一番、穏やかな声でそう言われた。
心臓が肋骨を突き破りそうなほど跳ねている。手汗でスカートの生地が湿っている。
それでも俺は、必死に口角を上げ、「城山葵」の完璧な笑顔を貼り付けた。
「……いいえ」
「そう」
九条は頷き、そして、氷のような声で落とした。
「でも、呼吸が浅い」
ビクッと、肩が跳ねそうになるのを奥歯を噛み締めて耐えた。
気づいていなかった。息を吸うことすら忘れていたことに。
毎朝四時に起き、滝に打たれ、経を読み続ける地獄の修行で培ったはずの自制心が、この女の前に座っただけで木っ端微塵に砕け散っている。
(落ち着け。ボロを出すな。俺がここで崩れたら、葵が帰ってくる場所がなくなるんだ。)
「城山葵ちゃん」
「……はい」
「どこで育ったの?」
「京都の、山の方で」
「山」
九条の視線が、俺の指先、首元、そして肩幅をゆっくりと這う。
服の下に隠した男としての骨格を、透視されているような錯覚。背筋に冷たい汗が伝う。
「アイドルを夢見る子が育つ場所には、見えないわね。……どんな子供だったの?」
一瞬、言葉に詰まった。
山の中で泥まみれになっていたガキだ。だが、そんなこと言えるわけがない。
女装して、声を作って、他人の人生を乗っ取っている泥棒。それが俺だ。
自分がどれだけ薄氷の上でタップダンスを踊っているか、誰よりも俺自身が知っている。
「……普通の、子供でした」
「普通」
九条は、その単語を解剖するように呟いた。
「今日、二回目よ。さっきも言ったわ。普通、って」
「……え?」
「普通の夢。普通の子供。……あなた、普通が好きなの?」
違う。
「普通」の人間なら、妹の代わりに女装してアイドルのオーディションになんて立たない。狂っている。自分が一番おかしいことくらい分かっている。
だからこそ、「普通」という言葉を盾にして、必死に自分を偽ろうとしているんだ。
それすらも、このバケモノには見透かされている。
「じゃあ、なぜ選ぶの?」
答えられない。
喉の奥がカラカラに乾いて、声が出ない。
「このグループ、あなたは必要とされてると思う?」
「……思います」
「誰かに言われた?」
「……自分で、感じてます」
「感じる、か」
九条は少し首を傾け、俺の目を真っ直ぐに射抜いた。
「あなたの代わりは、いるの?」
その問いに、俺の中で何かがブツンと切れた。
代わり?
俺自身が「葵の代わり」だ。俺という人間は、最初からここに存在していない。
でも、じゃあ俺がここで逃げたら、誰が葵の場所を守る?
誰もいない。俺しかいないんだ。
だから俺は、男のプライドも、自分の将来も、全部このスカートの底に叩き込んでここに座っているんだ。
震えそうになる膝を、両手で強く押さえつけた。
腹の底に、重くて黒い熱を落とし込む。怖い。逃げ出したい。でも、一歩も引くわけにはいかない。
「……いません」
俺は、九条の目を正面から見据えて言った。声のトーンを繕う余裕なんてなかった。少し低く、地声に近い響きが混じったかもしれない。
「今の私の代わりは、いません」
それは嘘偽りない、俺自身の叫びだった。
この狂った嘘ごと、痛みを全部背負える人間なんて俺しかいない。
九条は、わずかに目を見開き、そして深く息を吐いた。
「強いわね、あなた。……誰か、守ってるのね」
全身の毛穴が開くような感覚だった。
「守られながら、守ってる。それで、いいの?」
ひなたの無邪気な笑顔。茜の不器用な優しさ。沙織の鋭い気遣い。
あいつらは、何も知らずに俺を「葵」として受け入れ、守ろうとしてくれている。
俺はそんなあいつらを騙し、巻き込んでいる。最悪だ。最低だ。
でも。
「……はい」
俺は、もう迷わなかった。
誰に恨まれようが、どれだけ泥を被ろうが関係ない。
「それで、いいんです」
嘘をつき通す。それが俺の選んだ、歪んだ戦い方だ。
九条は長い沈黙の後、ふっと柔らかく笑った。
「……あなた、嘘をつくのが上手ね。上手すぎて、本当のことが見えない。また、話しましょう」
その言葉を背に受けながら、俺はどうにか立ち上がり、控室のドアノブを握った。
手のひらが、痛いほど冷たかった。
◆
ドアを開けて廊下に出た瞬間、膝の力が抜けそうになった。
「葵ちゃん!」
弾かれたように飛んできたのは、茜だった。
「大丈夫!? 何話してたの? っていうか顔色ヤバいって!」
「葵ちゃん、手、こんなに冷たい……」
ひなたが俺の右手を両手で包み込む。温かかった。自分がどれだけ凍えていたか、その時初めて気づいた。
「……大丈夫。ただの、面談」
嘘だ。
絞り出した声は、自分でも驚くほど低く、掠れていた。
「葵」の皮が一枚剥がれかけたような、男としての生々しい疲労と、何かに打ち勝った直後の獣のような匂い。それが漏れ出てしまっていたことに、俺は気づいていなかった。
ふと、茜が俺の顔を見て、言葉を失った。
いつもならズケズケと踏み込んでくる彼女が、わずかに頬を染め、戸惑ったように一歩引いたのだ。
「あ、あのさ……なんか、あんた……」
ひなたも、俺の手を握ったまま、少し上目遣いで、得体の知れない熱に当てられたような顔をしている。
いつもと違う俺の空気に、彼女たちの本能が何かを感じ取っている。
それが「男」としてのものであるという正体には気づいていない。
だが、理不尽な圧力から一人で帰還した人間の、ヒリつくような頼もしさと凄みに、あてられているようだった。
「……何か、あったん?」
壁に寄りかかっていた沙織が、静かに歩み寄ってきた。
彼女の目は、茜やひなたとは違う。
俺が嘘をついていること、そして、たった今、一人でとてつもない代償を払って何かを「守り抜いてきた」こと。
その構造のいびつさに、このグループで唯一、彼女だけが気づいているような気がした。
「……何も」
俺が短く返すと、沙織は小さく息を吐き、俺の頭にポンと手を乗せた。
「そっか。……ようやったな、お前」
「お前」と呼ばれた気がした。気のせいかもしれない。
だが、その声には、単なるメンバーへの労いを超えた、一人の戦士へ向けるような痛切な理解と共鳴が混じっていた。
俺は、廊下の壁に背中を預け、ずるずるとしゃがみ込みそうになるのを必死でこらえた。
三人の体温と匂いが、俺を現実につなぎ止めていた。
(俺は、まだ立ってる。葵、お前の場所は、まだここにあるぞ。)
窓の外に広がる夕暮れは、目に染みるほど赤かった。
腹の底で燃え続ける狂った覚悟を、冷ますように見つめていた。
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