第16話 格と沈黙
「葵ちゃん、久しぶり。……相変わらず、吸い込まれそうな瞳をしてるね」
控室へと続く廊下。
神宮寺が、わざとらしいほどの笑顔を浮かべて俺の行く手を塞いだ。
彼から漂うのは、高級そうな、けれど鼻につく香水の匂いだ。
一歩近づいてくるたびに、その「獲物を狙うような気配」が肌をチリつかせる。
俺は足を止め、心の中で静かに経を唱えた。
……動揺してはいけない。
俺は今、妹の葵なんだ。
「……神宮寺さん。お疲れ様です」
俺が努めて静かに返すと、隣にいた茜が一歩前に出た。
「神宮寺さん。次の仕事がありますので、道を開けていただけますか?」
茜の声は固い。彼女なりに、俺を守ろうとしてくれているのが伝わってくる。 けれど、神宮寺は茜のことなど見えていないかのように、鼻で笑った。
「そう急がないでよ。俺は葵ちゃんと話がしたいんだ。ねえ、今度二人でゆっくり食事でもどう? 君の知らない芸能界の『歩き方』、俺が教えてあげるからさ」
神宮寺の手が、スッと俺の肩に伸びてくる。
その、馴れ馴れしい指先が俺の衣装に触れようとした——その時だった。
「神宮寺くん」
廊下の向こうから、冷たい水が流れるような、透き通った声が響いた。
その瞬間、廊下の空気が一変した。
さっきまでバタバタと走り回っていたスタッフたちが、まるで魔法をかけられたようにその場で動きを止めた。 誰もが息を潜め、視線を床に落とす。
「……九条、さん」
誰かが、震える声でそう呟いた。
神宮寺の手が、俺の肩の数センチ手前でピタリと止まる。
そこに立っていたのは、一人の女性だった。
九条麗子。
煌びやかなドレスを纏っているわけでもないのに、彼女の周りだけがスポットライトを浴びているかのように見えた。
足音一つ立てず、彼女はそこに「存在」していた。
「あ……九条さん! お疲れ様です!」
神宮寺が、慌てて営業用の笑顔を貼り付けた。
「ご無沙汰しております。今日も本当にお綺麗ですね! さすがは芸能界の至宝、僕も見習わなきゃと——」
「神宮寺くん」
九条が、ふたたび口を開いた。低く、穏やかで、けれど一切の感情がこもっていない声。
「……はい、何でしょうか!」
「あなた、今、誰に話しかけているの?」
神宮寺の笑顔が、パキリと音を立てて凍りついた。
「え……? それは、こちらの葵ちゃんに……」
「私は、あなたと会話をしているつもりはないわ」
九条の視線は、神宮寺を一瞬たりとも捉えていなかった。 彼女が見ているのは、神宮寺という存在を通り越した先——俺だった。
「…………っ」
神宮寺が何かを言おうと口を動かすが、声が出ない。
九条にとって、彼はそこに置かれたゴミ箱か何かと同じ扱いなのだ。
「無視」よりも残酷な、「存在の否定」。
神宮寺は顔を真っ青にし、ぶるぶると震えながら後ずさった。
「し、失礼……しました……っ!」
彼はそれだけを絞り出すと、情けない足取りで逃げるように去っていった。
廊下に残されたのは、重苦しい沈黙と、九条麗子の視線だけ。
彼女は、俺の全身をじっと見つめていた。
敵意があるわけじゃない。
けれど、まるでレントゲン写真でも撮られているかのように、心の奥底まで透かされている感覚に陥る。
修行僧時代、山の中で野生の熊と対峙した時のような、本能的な恐怖。
俺は、葵としての「可憐な少女」を演じ続けなければならない。
けれど、この人の前で嘘をつくことが、どれほど無謀なことか。
「……あなた、名前は?」
「……城山、葵です」
俺は、精一杯の「葵の声」で答えた。
足が震えそうになるのを、下腹に力を入れて耐える。
「そう」
九条は、小さく頷いた。
「面白い立ち方をするのね。……女の子にしては、少しばかり、重心が安定しすぎているわ」
「……え?」
「いいえ、独り言よ」
九条は、ふいにと視線を外した。
そのまま、音もなく俺の横を通り過ぎていく。
「……また会いましょう。本物のあなたに、ね」
その言葉が、廊下に冷たく残った。
彼女が去った後、ようやく俺の肺に酸素が戻ってきた。
「……葵ちゃん、大丈夫……?」
茜が俺の腕を掴んだ。
その手は、小刻みに震えている。
リーダーとして強いはずの彼女でさえ、九条麗子のオーラには耐えられなかったのだ。
「うん……なんとか。……怖かったね」
俺は本音を漏らした。
嘘じゃない。
心臓の鼓動が、鐘の音みたいに耳の奥でドクドクと鳴り響いている。
九条麗子。
あの人は、俺の正体を……「男」であることを、どこまで見抜いたんだろう。
ひなたが、不安そうに俺の衣装の裾を握りしめてくる。
沙織は、いつもの扇子を閉じたまま、九条が去った廊下をじっと見つめていた。
その瞳には、いつもの余裕はなく、深い警戒の色が混じっている。
「……あのおばさん、ただものじゃないわね」
沙織の呟きが、やけに重く響いた。
――その夜。
九条麗子は、ホテルのスイートルームで、鏡に映る自分を見つめていた。
「城山葵。……あんなに綺麗な『無』を持つ子、初めてだわ」
指先で、ワイングラスの縁をなぞる。
彼女の脳裏にあるのは、昼間に会った少女の——いや、少年の瞳。
周囲に流されず、ただ真っ直ぐに自分を律している、あの独特の空気。
「次は、もっと近くで見せてもらいましょうか。……その仮面が、いつまで持つのかを」
彼女の唇が、美しく、そして残酷な形に歪んだ。
――俺は、寮のベッドで天井を見上げていた。
九条麗子。
栞里さんが言っていた通りだ。あの人の前では、どんな嘘も、どんな誤魔化しも通用しない。
「……まだ、大丈夫だ。負けるわけにはいかない」
自分に言い聞かせるが、指先の震えはなかなか止まらない。
妹の夢。
俺の嘘。
そして、九条麗子の視線。
窓の外では、月が冷たく輝いていた。
今はまだ、嵐の前の静けさだ。
けれど、この平和も、もうすぐ終わる。
そんな予感がして、俺はぎゅっと毛布を握りしめた。
窓の外では、月が冷たく輝いていた。
今はまだ、嵐の前の静けさだ。
けれど、この平和も、もうすぐ終わる。
そんな予感がして、俺はぎゅっと毛布を握りしめた。
その時、枕元でスマホが短く震えた。
画面に表示されたのは、マネージャーの栞里さんからの短いメッセージ。
『緊急連絡。明日のバラエティ、九条さんの要望で企画が変更になったわ。――九条麗子×城山葵、一対一のガチンコ対談よ』
視界が、ぐらりと揺れた。
「……対談って、二人きりで話すってことか?」
あの、すべてを見透かすような瞳と、密室で。 逃げ場のない戦いが、今、幕を開けようとしていた。
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