第14話 煩悩の矛
――目覚めた瞬間、俺は悟った。
これは、仏様が俺に課した、最大にして最悪の試練なのだと。
意識が覚醒するにつれ、肌に伝わる圧倒的な「熱」と「柔らかさ」が、理性の堤防をじわじわと浸食していく。
右に、なだらかな山。
左に、ふくよかな山。
右腕を包み込む茜の感触は、修行で触れる数珠とは比較にならないほど柔らかく、弾力がある。
左胸に押し当てられたひなたの重みは、俺の心臓の音をそのまま彼女の胎内にまで響かせているんじゃないかと錯覚するほど密接だ。
手が届く。
指を、ほんの数センチ、ピクリと動かすだけで、俺は未知の領域に触れることができる。
……いいじゃないか。
今、俺は「葵」なんだ。
所詮、女の子同士のスキンシップなんだ。
……いいじゃないか。
寝ぼけたふりをして、ほんの少し、確認するように指を這わせるだけ。
誰も見ていないぞ。
彼女たちだって眠っているんだ。
これは「葵」という役を演じるための、必要な研究、不可避のデータ収集なんだ……。
そう。
これは必要な行動なのだ!!
……いいや、違うぞ、大輔。
脳内の静寂を、冷徹なまでの「師匠の声」――いや、仏様の声が切り裂いた。
お前は今、ただムラムラしているだけだ。
それは立派な煩悩だ。
しかも、妹の名前を盾にするとは、地獄の業火でも焼ききれんほど醜い言い訳ぞ。
「……っ!」
心の中の仏様に、ド直球の正論を叩きつけられ、俺の背中に冷や汗が流れる。
そうだ。
俺は今、聖職者としての矜持を捨て、一人の飢えた男として、あられもない妄想を……!
だが、右腕に伝わる茜の吐息はあまりにも甘い。
「葵ちゃん……」
寝言で俺の名前(本当は妹だけど)を呼ぶひなたが、さらに強く俺の胸に顔を押し付けてくる。
ダメだ。限界だ。
俺のジュニア――いや、「煩悩の矛」が、この絶望的なまでの幸福感に、悲鳴を上げながら反応し始めていた。
さらには背後。
沙織が俺の背中にぴたりと密着し、細い腕を俺の腰に回している。
逃げ場はない。
文字通り、一ミリも動けない。
俺は修行時代、真冬の滝行で三時間耐えたこともある。
だが、あの極寒の苦行すら、この「桃源郷という名の地獄」に比べれば、まだぬるま湯に等しい。
冷たい水なら心頭滅却もできようが、この熱狂をどうやって鎮めろというのか。
「……仏様」
俺は、焦点の合わない目で天井を見上げた。もはや、葵のウィッグがズレていることすら気にする余裕はない。
「なぜ、昨夜の俺に酒を飲ませたのですか。それともこれは、俺の自制心を試すための『神回』じゃなかった。『仏回』なのですか……。すいません、聞いてますか仏様……!」
答えは、返ってこなかった。
ただ、身体が正直すぎた。
無慈悲なまでに生命の躍動を主張し続け、俺の存在を「聖職者」から「生身のオス」へと強制的にアップデートしようとしているだけだった。
代わりに返ってきたのは、右側からの「……ん」という、甘い吐息混じりの呻き声だった。
茜が、目を開けた。
俺は反射的に目を閉じた。
反射神経だけは、現役の武道家並みだ。
寝たフリだ。
これしか、この局面を打開する術はない。
「……え」
茜の、短く、震える声が聞こえた。
彼女が、現在の凄惨(という名の楽園)な状況を把握したらしい。
「な、何これ……。私、なんで……葵ちゃんの腕を……っ!」
パッと手が離れる気配。
だが、彼女はすぐに気づいたはずだ。
自分だけでなく、ひなたと沙織までもが、一人の「美少女(中身は男)」を包囲するように眠っている事実に。
「……女の子同士なのに」
茜の、消え入りそうな呟きが耳に届く。
「なんで、こんなに……心臓が、うるさいのよ……」
伝わってくる。
彼女の、爆発しそうな心拍数。
それは恐怖ではなく、明らかに「恋い焦がれる乙女」のそれだった。
まずい。
非常にまずい。
茜が俺から離れようと身を捩った、その瞬間だった。
「んー……茜ちゃん、どこ行くのー……葵ちゃんは、私のなのぉ……」
ひなたが、寝ぼけ眼でさらに深く俺の胸に顔を埋め、あろうことか俺の腰を脚でがっしりと絡め取ってきた。
「あ、葵ちゃん、あったかい……。葵ちゃん、好きぃ……」
「ひ、ひなた……っ! 起きなさい、起きなさいってば!」
茜の声が焦りで裏返っている。
俺の胸に抱きつくひなたを見て、彼女の口から漏れたのは、同性愛への困惑と、それを上回る「独占欲」の混ざり合った、甘く苦い吐息だった。
「……私、女の子……だよね? なんでこんなに、葵ちゃんを誰にも触らせたくないなんて……っ」
その中心にいるのが、まさか二十歳の「男」だとは夢にも思わずに。
俺の脳内では、煩悩のダムがミシミシと音を立てて決壊寸前だ。
まずい。
これ以上ひなたが身をよじったら、俺の身体が正直すぎるせいで聖職者としての最後の一線を越えて、物理的な抗議活動を開始してしまう!
「……ふふっ。おはよう、二人とも。朝から元気やなぁ」
背後から、全てを悟りきったような艶やかな笑い声。
沙織だ。
彼女は俺の背中に頬を寄せたまま、楽しそうに「獲物」を巡る二人を眺めている。
「さ、沙織ちゃん……! これ、どういう……!」
「見たまんまやん。昨夜、酔っ払った葵ちゃんが『寂しい』なんて言うから、みんなで添い寝してあげたんやろ? ……まあ、最終的には葵ちゃんを巡って、二人とも必死に『センター(真ん中)』を奪い合っとったけどな」
その時だった。
「……って、何やってんのよ、あんたたちーーーーっっ!!!」
ドアが、爆音を立てて開いた。
そこには、般若の面を被った仁王像――マネージャーの栞里さんが立っていた。
もつれ合う四人の姿を見て、彼女の瞳孔が0.5秒で限界まで開き、顔面から一気に血の気が引いて、まるで使い古された雑巾のように真っ白に固まった。
「全・員・即・座・に・は・な・れ・な・さ・い!!!」
栞里さんの咆哮。
俺たちは物理的に引き剥がされた。
俺は即座に布団を頭から被り、亀のように沈黙を守る。
「俺は葵、俺は葵、俺は女子、俺は女子……」
心の中で般若心経ならぬ「美少女心経」を唱え、理性を鎮める。
栞里さんの怒号が、二日酔いの脳を叩き割るように響いた。
俺たちは弾かれたように離れ、各自、乱れた服やウィッグを必死に整える。
栞里さんは肩を震わせ、今にも噴火しそうな形相で俺たちを睨みつけていた。
「いい? 今回は、社長が酔い潰れたあんたたちを、人目に触れないようにここまで運んでくれたから良かったようなものの……」
彼女の指が、握りしめた拳の中で白く震えている。
「もしこれが、外の店だったら? 誰か一人のカメラにでも収められて、世間にバラ撒かれたら……写真一枚で、このグループは一瞬で終わり(解散)よ!」
その声は、怒りを通り越して、恐怖に震えていた。
アイドルの不祥事――。
「女の子同士なら何をやっても許される」なんていうのは、ただの幻想だ。
悪意ある誰かの手によって「過剰な密着」というレッテルを貼られれば、どんな偏見の炎で焼き尽くされるか分からない。
「葵! 特にあなたよ! 自分がどれだけ危うい橋を渡っているか、分かっているの!?」
……分かってます。さっきから別の意味で崖っぷちでしたから…。
セーフだった。
正体も、男としての本能的な反応も、ギリギリのところで悟られずに済んだ。
だが、俺たちは気づいていなかった。
――宿舎の廊下、ガラス張りの吹き抜けの向こう側。
一人の女性が、優雅にコーヒーカップを傾けながら、こちらを見ていた。
大御所女優――九条麗子だ。
その瞳は、獲物の構造を分析する猛禽類のように鋭く、同時に最高の「玩具」を見つけた子供のように残酷な無邪気さを孕んでいた。
「……ふふ。なるほど」
彼女は、ゆっくりと最後の一口を飲み干した。
「あの『新人』――やっぱり、ただ者じゃないわ。周りの子たちの視線、あれはただの友情じゃないわね。もっと、こう……生存本能を狂わされている目だわ」
九条麗子は立ち上がり、静かにその場を去っていった。
「城山葵……。あの子が持っているのは、ただの可愛さじゃない。『偽り』という名の泥の中にしか咲かない、至高の毒花だわ。楽しみね。いつ、どうやって、その仮面を剥いで差し上げようかしら……」
窓の外、月が消え、朝陽が全てを照らし出そうとしている。
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